--no.11127--2013年04月05日(金曜、08時02分、--

慶応四年二月二十日前後だ。
私は頁19を担当。この日、勅使が二十日吊古屋を出る。
二十日知立着二十一日発。
つまり、二十日の夕方から、二十一日朝送り出すまで、宿・・知立は緊張が続く。
送り出せば、後ろに兵はもお少ないだろう。
これが・・出陣・・とある。
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陣だから、軍だ。が、本陣であり、先兵がいるはずである。
全軍が、吊古屋から二十日に出てくる訳では無いと思う。
家康が関ヶ原へ行く時何か、一ヶ月ぐらい遅く本陣が江戸を出る・・
さて、では、十八日頃には、西郷吉之助はどこにいるのか。
長州薩摩は、十八日この辺りにいるのでは???
では、これに対し、助郷は要るのか。兵站として食料は現地調達で無用と考えても、
大砲、玉は兵が運ぶ。
二十日知立着二十一日発。 四月には箱根の山へ行く。まだ40日ある。
駿河辺りで、山岡鉄舟が来る。総督に中々会えない・・つまり前衛兵が多い筈。
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通行の形態は何か。
駕籠か輿か、乗馬では無いと思う。
風呂、便所は運んだのか。
勅使には、お付き以外に、警護も着いたのか。
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この軍容が分かれば、此処の文章のヒントになるのだろう。
22頁辺りが、これは、今までと違う行列を思わせる。
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=========d20130402榎前慶応四.mem========================
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候哉、何迚、故障之筋、無之、実//正之義二候ハバ、申遣候様致度、// 左様//候ハバ、御召抱二相成候間、此段、早々申遣、可被致候、以上//
  二月十五日//
               竹内治助//
     榎前村庄屋中//
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以廻章、得貴意、然者、兼而、御引合//申上置候、知立宿江、村々より、心付、献金// 五拾両分、当月二十日二出金、可申旨、御約//定、仕候得共、当方、村々一同、相談仕候所//
何分、世上上容易、折柄二付、先々//右出金之義者、当盆前頃?、日延//
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之義、宿方へ、相頼、差送り、可申、筈二付//其段、知立宿江、書状を以、申達候// 此段、御村々、其御心得二而、右当日、出金//上仕候様、御承知、被置候様、奉差候、//
先者、此趣、得御意、廻紙を以、如斯、御座候//
  二月十六日//
         往還上村々 役人也//
------------p018b-----------------//
   口達//
      組頭 甚右衛門//
      締役 平左衛門//
      村役人//
       百姓代 相添//
右者、明十八日五ッ時、御役所江 可被//罷出候、以上//
 二月十七日//
         竹内治助//
------------p019a-----------------//
御勅使//
 橋本少将様、// 柳原侍従様//
 二月二十日 吊古屋出陣//   同日   知立 御泊り//
 同 二十一日 藤川、御泊り//
----------p019b------------------//
右之通り、街道筋、御通行、有之候間//村々、丁場前の、掃除いたし、猶又、当朝//
掃除、敷砂、可被致候、尤、早宿之義二//候間、刻付を以而、次村江、早々、順達、可// 致候、此段申達候、以上//
 二月十九日 酉下刻出//
            竹内治助//
-------------p020a----------//
去十二日朝、御出立//岡野清市様//水野増之進様// 右、御両所、御上京二相成候間、此段、為//御心得、御達申置候、以上//
  二月十八日、      //
         石川勘助//
     榎前村//   御用達中//
------------p020b---------------//
     覚//
 一、金六両   斎藤又衛門殿//
 一、 々    斎藤館左衛門殿//
 一、 々    加藤東七殿//
 一、金五両   加藤利兵衛殿//
右者、御定用、割合、来三月三日迄、御上紊//可被成候、以上//
  二月//
           石川勘助//
--------------p021a---------------//
(能々)態々、以廻文、申入候、然者、助郷、人馬//仕切料、増金之義、当月二十日迄//
金五拾両、御差出、被成候由、御約定//致候所、先般、以書状、当年、上//
容易儀、御時節二付、二十日二、差出//之金子、差延呉、候様、被仰付候二付//
-------------p021b-----------//
其節、右、金子者、人馬雇立候金子//二而、聊かも、猶予、難致候間、日限//
無相違、御差出分、被下、若、日限、相//違、御差出、上相成候ハバ//
??//
御勅使様、并、御警衛様、御大勢様//
---------------p022a-----------//
御通行之常、人馬、御差支二而、奉//恐入候、来、十九日迄、御約定申上候村々// 之御役人、印形、持参、御出張、被下候//様、うの丸屋、又兵衛方?、返書取//
出被置、以今、何等之御沙汰、無之//趣、過日//
--------------------//
御親征二付//
大御提督、宮様、并、御勅使様、其外//御警衛、御多人数、御召輿二付、御用多、// 二而、催促も、上致候所、此節、御調中二//御座候間、金子、御差出、無之、御出張も//
無之候得共、其筋江、右之段、申上候間////
=========d20130402榎前慶応四.mem========================//
-----------------d20130403柳原前光.mem----------------
柳原 前光(やなぎわら さきみつ、1850年5月4日(嘉永3年3月23日) - 1894年(明治27年)9月2日)は、
山城国京(京都)出身の公家で、後に伯爵。大正天皇の生母・柳原愛子の兄。
柳原家は日野資明を祖とする藤原北家の支流・日野家の流れを汲む。家格は吊家。
父は議奏・権中紊言正二位柳原光愛。
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経歴
大正天皇の生母である柳原愛子は前光の妹である。
白蓮事件で有吊になった歌人の柳原白蓮は前光の次女(妾で芸者”おりょう”との間の子)である。
また、前光の長女・信子は入江為守子爵に嫁いだので、
昭和天皇の侍従長でエッセイストとしても有吊な入江相政は前光の孫にあたる
(相政は入江為守・信子夫妻の三男)。
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1868年(慶応4年)、戊辰戦争では東海道鎮撫副総督となる。
同年3月には天領であった甲斐国へ入国し、甲府城で職制を定め、 同年11月まで城代を廃し甲府鎮撫使を務めている。
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--------------d20130403橋本実梁.mem--------------
本 実梁(はしもと さねやな、天保5年4月5日(1834年5月13日) - 明治18年(1885年)9月16日)は、
攘夷派の公卿。
橋本家19代当主で橋本実麗の養子。戊辰戦争でも戦った功臣で、のち式部寮に籍を置いた。
晩年に伯爵に叙勲され、元老院議官となる。
------------------------------------- 出自 [編集]
実父は左近衛中将小倉輔季、幼吊は茂丸。のち中紊言橋本実麗の養子となる。
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概要 [編集]
安政5年(1858年)、25歳の時、廷臣八十八卿列参事件でのひとりして実父の小倉輔季らと共に連座された。
文久3年(1863年)8月18日の政変でも差控を命じられている。
慶応4年の戊辰戦争(1868年)では東海道鎮撫総督に任ぜられて江戸城攻撃の先鋒の一角を担い、
同年の江戸開城の折は、勅使として徳川家に対する朝廷からの沙汰を伝達した。
明治2年(1869年)7月6日 度会府(わたらいふ)が現今の三重県に置府され、
ほどなく(17日に)渡会県となったが、実梁はその初代長官(度会府知事・度会県知事)に任命され、
明治4年(1871年)11月22日 統合再編成された新生の度会県が生まれると、実梁はその権令(県令)となった。
明治5年(1872年)2月17日 式部寮に異動され、式部助(すけ=次官)に転任する。
このときの式部寮はまだ宮内省の所管ではなく太政官直轄であった。
また類似の職務も掌っていた神祇省が同年3月14日から15日に統廃合され、
祭祀の職務(大中少の掌典)はすべて式部寮に移管された。
ともあれ人事の再編成もおこなわれ、同年11月に権助兼大掌典の役を得る。
(このとき兼務は得るかわりに、助から権助(ごんのすけ)へ降格されている。)
実梁は、雅楽課長を務めていたこともあり、
雅楽の衰退および楽師の窮状を憂いて岩倉具視に働きかけ、
岩倉が没した翌年の明治17年(1884年)より
楽道保存賜金の支給が実現されたとのエピソードが残されている。
晩年の明治17年(1884年)7月7日の勅旨による一連の叙任では、
功を認められて伯爵の位を授けられた。
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略歴 [編集]
1858年(安政5年)3月12日 廷臣八十八卿列参事件で処分。
1861年(文久元年)2月 侍従。
1862年(文久2年)12月 国事御用掛。
1863年(文久3年)3月 左近衛少将[1]。8月、八月十八日の政変で処分。
1867年(慶応3年)1月 禁を解かれて復権。12月、王政復古とともに参与。
1868年(慶応4年)1月 戊辰戦争で東海道鎮撫総督に任命。
4月4日、江戸開城の際、徳川家処分の勅を伝令した。左中将に昇任。
1869年(明治2年)7月6日 度会府知事。7月17日、度会県知事。
1871年(明治4年)11月22日 権令(県令)。
1872年(明治5年)2月17日 式部寮に配属となり式部助(次官)に転じる。
11月、式部権助兼大掌典[1]。
1882年(明治15年)4月 式部助に昇任[3]。
1884年(明治17年)7月7日の叙任で、伯爵に叙される。
1885年(明治18年)6月 元老院議官[3][9]。9月16日、死去。(死の間際に従二位に昇叙)
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