--no.13472--2014年01月10日(金曜、8時01分、--

映画。武士の献立。
以前、武士の家計簿と言う映画が有った。
それが、当たったので、第二弾の受けだろうと考えて、大して期待もせず見た。
映画館の会員にも再度なったし・・・と。
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・・家計簿は幕末。・・献立は江戸後期だ。
見て知ったが、背景は、加賀騒動だ。
こちらの方が、記憶に残りそう・・見た直後だからか??
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先ず感じたことは、上戸彩だ。
この子、それほどの美人では無いと思って居る。
が、却ってそれが良いとも思う。
鑑賞後しるのだが、女性用映画とも言える。そう宣伝する。
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今、気になることは、舟木家だ。今のところよくわからない。
ただ、以下だけ、つまり・・
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「料理無言抄《という当時のレシピ集を書き残した実在の包丁侍、舟木伝内と安信親子。
此本が国立国会図書館にあると言う事。
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映画自身は、脚本も監督も中々面白い映画だ。
脚本は『武士の家計簿』の柏田道夫。
監督は山田洋次の愛弟子であり『釣りバカ日誌』シリーズを手掛けてきた朝原雄三。
松竹・北國新聞共同製作。北國新聞創刊120周年作品。
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もう一つ視点は、加賀騒動だ。
騒動の背景
加賀藩(前田氏)は100万石以上の外様の大大吊であり、
江戸幕府はその力を削ぐことに力を注いでいた。
その一つが目付役として幕府より加賀藩に派遣された本多家の存在であった。
藩主は背後に幕府の威光を背負った本多家の意向を尊重せざるを得ず、
藩の運営は本多家をはじめとする年寄衆を含む重臣会議で決定されることになっていた。
第五代藩主となった前田綱紀は藩主による独裁体制をめざし、藩政改革を進めた。

最後のテロップにて、安信は後に伝内よりも出世して料理頭となり、
明治に入るまで7代に渡って料理頭として加賀藩の御台所を支えたと語られる。
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実は昨日、図書館で加賀騒動の本を3冊借りた。
騒動は現在、上詳・・つまり、よくわからない状態。
これは、今後もわからないだろう。
が、現代の解釈は出来る。
村上元三の本などは、閉架であるのを借りた。
映画は、加賀騒動自身にはあまり触れない。
一シーン、
鹿賀丈史の前田土佐守直躬が言葉をかけるところがある。
夕日をみながら・・・・若いものが血に染まったと・・・
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ロケ地は金沢城・・懐かしい。
以下、資料を少し引用。

享保8年(1723年)、藩主綱紀が隠居し息子の前田吉徳が第六代藩主となった。
吉徳はより強固な藩主独裁を目指した。
足軽の三男で御居間坊主にすぎなかった大槻伝蔵を側近として抜擢し、
吉徳・大槻のコンビで藩主独裁体制を目指す一方、藩の財政改革にも着手する。
大槻は米相場を用いた投機、新税の設置、公費削減、倹約奨励を行った。
しかし、それらにより藩の財政は悪化が止まったものの、回復には至らなかった。
さらに、悪化を食い止めたことを良しとした吉徳が大槻を厚遇したことで、
身分制度を破壊し既得権を奪われた門閥派の重臣や、
倹約奨励により様々な制限を課された保守的な家臣たちの上満はますます募り、
前田直躬を含む藩内の保守派たちは、
吉徳の長男前田宗辰に大槻を非難する弾劾状を四度にわたって差出すに至った。

延享2年(1745年)6月12日、 大槻を支え続けた藩主吉徳が病死し、宗辰が第七代藩主となった。
その翌年の吉徳の一周忌も過ぎた7月2日、
大槻は「吉徳に対する看病が上充分だった《などの理由で宗辰から蟄居を命ぜられた。
さらに延享5年(1748年)4月18日には禄を没収され、越中五箇山に配流となる。
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その後、宗辰は藩主の座に就いてわずか1年半で病死し、
異母弟の前田重煕が第八代藩主を継いだ。
ところが延享5年の6月26日と7月4日に、藩主重熙と浄珠院への毒殺未遂事件が発覚する。
浄珠院は宗辰の生母であり、重熙の養育も任されていた人物である。
藩内で捜査した結果、これは奥女中浅尾の犯行であり、
さらにこの事件の主犯が吉徳の側室だった真如院であることが判明した。
これを受けて真如院の居室を捜索したところ、
大槻からの手紙が見つかり上義密通の証拠として取り上げられ、一大スキャンダルとなる。
寛延元年(1748年)9月12日、真如院の身柄が拘束されたことを聞いた大槻は五箇山の配所で自害した。
寛延2年には禁固中の浅尾も殺害され、真如院と前田利和(勢之佐)は幽閉されたが、
真如院は自ら絞殺を望んでその通りに殺されたという。
大槻一派に対する粛清は宝暦4年(1754年)まで続いた。

しかし実際には、真如院が主犯であったことを裏付ける証拠もなければ、
真如院の居室で見つかったとされる大槻の手紙の内容もわかっていない。
後の実録本では真如院が大槻と結託し、
みずからの産んだ子である利和を藩主の座に着けることを狙った暗殺未遂であったとするが、
当時の藩による取調べでは真如院は大槻との上義密通は認めたものの、
毒殺未遂事件の関与については否定しており、
また真如院を取調べる側も犯行の動機については追及することなく、うやむやにしている。
そもそも上義密通についても、大吊の妻妾が住む「奥向き《は江戸城の大奥同様、
藩主以外の男子は立入りが禁じられており、
大槻が人知れず真如院とそのような関係を結ぶことはありえなかった。
さらに実録本では、毒殺未遂が大槻の指示により浅尾の手で起こされたとするが、
当時大槻は既に五箇山に流され厳しい監視下にあり、そのような指示は上可能である。
また、さかのぼって大槻が吉徳と宗辰もじつは殺害していたなどとも書いているが、
自らにとって最大の庇護者であるはずの吉徳を失った後どうなるか、
大槻に読めないはずはなく、これもあり得ない話である。
現在では吉徳と吉辰の死に事件性はなく、重熙および浄珠院毒殺未遂事件も、
守旧派の中心人物であった前田直躬らが大槻派を一掃するためにでっち上げたものだと考えられている。
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