--no.13569--2014年01月22日(水曜、9時03分、--

東浦町の歴史を考えると、常にこれが出ると言える。
水争いだ。
町の説明は以下だ。
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【明徳寺川水論文書】(みょうとくじがわ すいろんもんじょ)
江戸時代には新田開発で灌漑用水の需要が増大しました。
石浜村では、緒川村との境を流れる明徳寺川だけに頼っていました。
しかし、明徳寺川の上流一帯は緒川村で、緒川村に降った雨だからと、
緒川村でも川の水を引こうとしたことから争いが絶えませんでした。
元和7年(1621年)5月7日の石浜村庄屋・惣百姓中より奉行所宛訴状をはじめ、
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展示は撮影禁止。HPの画像は小さすぎる。
で、パンフをスキャンした。右図。
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いつもガイドの時も適当に説明している。今回わかる範囲で調べた。
と行っても殆んどわからん。
展示に活字で起こしてあるのを見て、電子化したのが以下だ。
=========d20140121水争い.mem=================
水争い
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以上
急度申入候、当年
日てり二付てお川
村と石はま村と
井水の出入申上候
処二、先々田地仕
付水お川村へ遣し
以来は、如前々
石はま村へ水遣し
候へのよし、
御奉行衆被仰付
候間、其分可被相
心得候、井奉行
衆へも加判被成
候へと申候へは、
御奉行衆上被仰
付候間、我等方より
申遣し候へのよし二
候間如此候、恐惶謹言

  元和七年 酉五月十一日
        平野金左衛門
           長綱 花押
  石はま村 
    庄屋
    百姓中

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固有吊詞として・・平野金左衛門長綱・・
この人が、書いたのだが、書いて証文にしたから相当えらい
が、HPの検索では出てこない。
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御奉行衆
井奉行
この2ッを元和七年時点で調べなくては行けない。
我等方は当然、平野さんだが、
分限帳を調べるべきだが、相当、専門的になると思う。
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次いでだから、追加。書面は以上から始まる。
これは、尚々書きはこれで終わりと言う事だろう。
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