--no.13600--2014年01月27日(月曜、時分、--

土曜午後は、安城三河一揆のシンポに出かける。
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11時過ぎに、福祉大から直接出かける。
安城に入り、コンビニで肉まんと、フランクフルト。
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12時01分駐車場着。会場は10分には入るが、もう、来ている人もいる。
熱心である。俺もそうだが・・
ウロウロしていて、時間。
満席である。一人資料一部で、来場者の数を図るようだ。
最終的には260とか、
椅子も上足、最後は丸椅子。
俺は、窓際の豪華椅子。
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隣の席に豊田から来た人がいた、西三河の研究会をしているようだ。
豊田、西尾、刈谷、岡崎、、辺りで、各サークルがあると言う。
知多方面からも2吊程参加は確認出来た。
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4吊のパネラー。資料もある。
その時、流し読みした。
最後、好評として、新行紀一。
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内容的には、細かい。
細かいのは、歴史として確定していないと言える。
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俺の概観を述べる。
三河一向一揆・・と言う。これは、江戸時代に入ってかららしい。
信長公記の中の記述も有った。・・一揆・・とはある。
一向一揆とは無い。
島原の場合・・乱だ。
すると、長島とか、加賀、石山は当時から・・一向??・・・・と呼ばれていたのか
慶長の前と後で資料を分類すべきだろう。
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扨、真宗が舞台と言う事はわかる。
が、各々が、宗教で団結していたというべきではない、
経済が大きい。生産に対し、搾取するのは、寺と領主。
その配分が問題になるのだろう。
信長は・・天下布武・・とはっきり理念を明文化した。
が家康は、どの程度考えたか・・家康の永禄時代の言葉が無い。
多分、信長の意見に賛成したのだろう。
が、この時点では言わない・・慶長3年時点でもよくわからんし??。
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あんな短い時間で、多くの資料は無理。
再度、じっくり、読むべきだろう。
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