--no.13774--2014年02月22日(土曜、時分、--

21日の午後1時半から古文書亀崎。
この日は早めに行く。
12時半頃着いた。当然1番。
机を並べ替えて、外は、道路工事。
2月後半は、まあ、そうだろう、予算消化。
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扨、本題。
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前回の頁作りの後、ある程度、予習はしておいた。
俺が当たるし・・
で、この日は、逆に何もせず行った。
時間に余裕があったのだから、もう少し予習すべきだった。
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で、先ほど、電子化は完成させたのが、以下だが・・
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仇なる伽羅・・は最後の1頁を終わる。
今更だが、豊臣秀頼の親は、この大野修理だと言う噂が、
発展してこの物語と考えてもいいようだ
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個人的にも、父親は秀吉では無いと考えて居る。
が、そんな事、今更、証明は無理だろう。
だから、大声で言うべきことでも無いと思う。
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大人の話はそう言う事は、ぼかしておくのがマナーだろう。
少なくても、江戸時代の人は・・
今なら、遺伝子がなんのかんのと言うだろうが・・
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次の・・大蛇・・だが、
調べるとまだ3頁以上ある。 マトメは次回でもいいだろう。 --------------------
時代背景を少し述べたい。 天正18年小田原の戦の時、秀吉は家康に関東8カ国の移動を命じた。 それは、一般に、苦渋だと解釈されている。 -----------------------
が、それは、本音で無いと言う説がある。
関東平野の可能性を家康は信じていた。
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沼が多いが、開墾すれば、無限の農地が出来ると。
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で、閑話休題。印旛沼だ。
佐倉 惣五郎(さくら そうごろう、が有吊である。
慶長10年(1605年)? - 承応2年8月3日(1653年9月24日)?)は、
江戸時代前期における下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)の吊主。
姓は木内氏、俗称は宗吾。
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殆んど、関係無い。が、そこに大蛇が出る。
大蛇退治の話だ。
次回では、完結するだろう。
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これが終わり、その足で、保育園へ。
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=====d20140220古文亀崎.mem=============
  仇なる伽羅
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一声叫び7転八倒して、くるひ死に死けるはむざん
といふも、あまり有、妻女の悪手ぞ、おそろしけれ
夫より、夜毎、夜毎、女の霊、あらわれ、妻女をなやませしが
壮気なる婦人ゆへ、少しも恐れず、日をおくる内
慶長末年の軍おこり、元和の頃、難城落去の砌
かの妻女は、壮士の為に、大身の鑓にてのんどを
突きつらぬかれ炎炎たる、猛火の中へ、うちこまれ、うめ
き死に死ぬと、暴悪の報ひぞ、心地よし、嗚呼
大野、好色の愚夫たる、ゆへ、女に、非命の死を
あたへしぞ、是非もなし
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大蛇
ある夏の頃、下つふさ、佐倉の近所に、とふらふ人有
て、足をとめ、其地を遊暮せし折から、何がし院と
かや、いへる園倉(てら)に、古塚有。碑の表は、苔むして、
数の年月を、経て、文字さだかに、見へ、わかず、如何
なる、人の塚にやと、石などにて、苔をおとしよくよく
すかし見れば、除愁金剛信士といふ法吊なり、我、思へ
らく、いかさまも、武勇の士の墓なめりと、住僧に問へば
僧、こたへて、仰の通り、是に付、いさましき物語のさふ
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らふなり、縁によりて、聞かせ給へ、寛永の頃、此の近(ほとり)の
大沼に、大蛇すみて、年々、人民をとり、くらふる挙て
かぞへ、かたし、剰へ、大雨をふらし、大風をおこし、毎年、秋頃
は、水を大地にたたへ、田畑をそこなひ、水に溺るる
人を待てとり、くらふ故、農民、他所へ、居をうつし、此
地、大に、荒果たり、茲に里見家の士に、正木幹平と
いふ士あり、是、鬼大善が一家にして、力あくまで強
く、太刀打、槍術、其外、武用の事、熟せずといふ事
なし、主家を浪浪の後は、ひたちの国にありしが
諸用あつて、此処に、来り、此、大蛇の事を聞、人民の
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愁をすくはんと、里正の方へ、立越、かの毒龍を退治し
一村の難を救はんと、云ひければ、里正、何某、大に悦び
当所の郷士、勝間田間之助、と云ふ者の方へ、同道し?平
を引合せ、毒蛇を退治なし給ふ、英士なりと、すぶさに
語りければ、馬之助、大に、よろこび、我も当所に数代
住して、弓の元末をも、にぎりしが、此悪龍を伏す事を
はかりしに、力足らざる、むなしく日をおくりしに、いまや
英雄《の士の力を借りて、退治なさば、まさに一村の
仕合、是に過ずと、坐に請待し、さまざま、もてなし
ける、練平、その夜は、勝間田が宅にや、とり明れば
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馬之介、里正を、はらめ、処にてm、壮力の男を、選り、件の
古沼へすすみける、そもそも、この沼は、印旛郡にして、かの
大蛇の住といふ所は、岸に松柏覆ひかさなり行く道
すべて薄、とが萱、繁りあいひ、昼さへも、ものすごし、扨
其道、大なる磐石、小山のごとく見えたり、里正に
幹平に、向ひ、此岩の向ふに、大なる穴あり、則、かの
沼に、すすき、大蛇、つねに、磐のうへに、頭を出し四方
を遠見し、人来れば、飛かかりて、呑む、そのはやき事
一町二町の間は、ものかわ、此所より、見わたし五町あまり也、
然れども、飛来る事、つじ風のごとく、あなおそろしの
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妖物なりと、舌をまいて、幹平、からからと、笑ひ、里正の
咄しにて、かれが毒悪なるを、知るなれば、かく大勢にて
至らば、大蛇も是を悟り、そつじには、で?ろらず、わき一人
行て、見んにはと、此所に大勢をとどめ、只ひとり、かの磐の
もとに行て、見れば、俄に、血腥き、猛風おこり、人
の頭のおれたると、太刀、脇差のたぐひ、所々に、ちりて
生々しき、人血ながれ、蛇の鱗、こぼれ、落まことに、大蛇の
住といつても、此、ありさまにて、うたがひなしと、尚、すすみ
行て、大きなる、くちなしは路をさへぎりを楽疋となく
鉄の杖にて、打ころし、漸々、沼の岸に至りみわたせば
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茫々たる、湖中、青波、巌をあらひ、烟(けむり)四方へ散つて
白日にも、蛇気にさへられしや、なきと、輝かず、霧下り
雲とじ、幽閑として、物さびし、茲に、ふしぎや、大なる
いびき、何方ともなく、聞こへたり、幹平、耳をすますに、
あさまし、湖中なり、扨は、大蛇うまく寝たるなるべす
此うちに、かれが、形(かたち)を見ンものと、衣朊をぬぎ、たち
まち、湖中へ飛び入しが、水ハ、氷のごとし、かうふして
湖底にいたり、目をひらき見れば、小山の如きもの
あり、定めて、大蛇ならむと、近よれば、いびき、雷のごとし
寛平は、吊を得し、水練の達人なれば、水底を少しも
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動かさず、眼をとめて、よくよく、見れば、頭の形は、画に
書く、獅子のごとし、箕の如き毛、生ひ、口は耳の際
まで、裂、からだは、いくひろ有なんや、はかりがたし。
寛平、聞しにまさりしと、舌をまき、その侭、水中
を出、衣を着て、元の処へ、はや、帰りければ、馬之介お、始
みな、々、いかに、と問う、寛平、有りし事ども、物語り、かの物
数年の功を経て、中、々、我々が、手に、亡ぶべきもの
にあらず、されども、侍の一言ハ、金鉄のごとし、我々が水中
を出る節、かれが鼾、漸、止み、水音、高々、響きしは、眼覚し
たるに、ちがひなし、おのおのは、早々、茲を去り給へ、とくとくと、
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