--no.13926--2014年03月14日(金曜、14時40分、--

此日は雨。
午後、0時30分頃出かけた。
実は、BookOffの小包を待っていたが、
行く前には、届かなかった。
帰ってみると40分頃に上在票が有った。
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此日は雨だから。だから、一応、復習して、起こしは出来た。
前の怪談と違い。切れ目をどこにしたら良いのか迷う。
数ページを終わり、内容が予想できる様になってきた。
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旅行記である。それに歌が出てきた。
芭蕉の奥の細道を意識しているのかな?
が、こちらは俳句では無く、一応、歌。
五七五七七の様だ。
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此日は約五頁。以前よりペースは落ちる。
まあ、最初だけかもしれない。が。
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何れにしても、東海道だ。東海道と言えば、江戸時代。
江戸時代と言えば、東海道。
そこで、最も有吊なのが、弥次さん喜多さんの、膝栗毛だ。
でもこれをそう思うのは、50才以上だけかも。
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東海道中膝栗毛出典: 弥次さんと喜多さんの像(京都三条大橋) ポータル 文学
『東海道中膝栗毛』(とうかいどうちゅうひざくりげ)は、
1802年(享和2年)から1814年(文化11年)にかけて初刷りされた、
十返舎一九の滑稽本である。
後続の『続膝栗毛』は、1810年(文化7年)から1822年(文政5年)にかけて刊行された。
大当たりして、今に至るまで読みつがれ、主人公の弥次郎兵衛と喜多八、
繋げて『弥次喜多』は、派生する娯楽メディア類に、なお活躍している。
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こうして読むと、作者は、奥の細道では無く膝栗毛だ。
膝栗毛が当たり、膝栗毛を既に読んだ読者は、もう少し何か・・
そんな、ウケを狙った本かも
作者に文才があるか否かは、今後述べよう。
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これを、マトモに読むべきか否か。
紀伊国屋が出てきた。
おきのかた紀伊国屋・・と。こんなのは、まともに読むべきか否か?
沖に蜜柑船ときたら、紀伊国屋であり、それは江戸時代人の常識である。
そんなのは、紀伊国屋が、神奈川宿に宿屋をしていたか否かは対して問題にしない。
方が良いのでは・・
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この出立の文で大きい部分は、鶴亀の下女だ。
居たのかいなかったか・・多分、作者の作文だと思う。
そのほうが面白い。膝栗毛も殆んど創作だろう。
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その前に、発句とも言うべき歌がある。これがわからん。
武士の矢矧・・だ。
少し調べる。岡崎潘。
時期は以下だ。
本多 忠顕(ほんだ ただあき)は、1776年6月2日ーー1838年3月29日)
     岡崎藩の第3代藩主。(1790年 - 1821年
本多忠考 文化2年(1805年)ーー 明治12年(1879年)11月21日
     岡崎藩4代藩主 (1821年 - 1835年)
此頃の岡崎潘を少し読むと面白い。がそれはいずれ。
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江戸詰の武士が、国元に帰るのはよくある事。
江戸生まれの渡辺華山が思い出される。
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今後どう話が進むか興味、深い。
=====d20140313古文亀崎.mem===========
三河記
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 街(ちまた)の記おく
頃は、文政の十二、秋の八のすへ、四方の空、長閑にて、
秋も八ッの三九の日、君命によつて、三陽矢作え、発足
のけふの、日柄も吉日と、旅の門ど出の仕合よしと、
目出度?り、下谷の住家を、立ッ出、潮の朝日や、高
縄手、実も、東都の海のおだやかなりし、御定目
札の辻にて、待合せ、此処で、五人ガ大仏、仏も元は、ぼん
ぬのころ、八ッ山、沖の鴎さへ、つがへ、放れつ、二人りつつ、並ん
で、居るは、古風なり、今は衣装を着飾て、姿も
ちやんと、品川や、花をならべし、御殿山近くは
---------p002a---2014/03/13-------------
あらめ、東海寺、遥に見送り北品川、みんな見立の
忝や、あら有ありがたや、観音前、鍵屋が座敷、打晴て
海漫々たる、清海原、江原ばらばら、松の風、青
きは常磐の、色添て、九歳後の、旅路にも、同じ
わかれの、吊残おしくも、是非もなく、いざさらば
随分堅固で、おまめぞと、見送り、見返り、立別れ
品川寺の、観音を、ふしおがみて、かくなん
  もののふの矢作の、橋の、すぐなれと
    知恵の矢を矧、誓ひよて
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さア是からの、気さんじは、きせるくはひて、がたがた、
ぎしぎしと、茲で、火打を、海安寺、紅葉染なす
毛氈は、乗懸四ッで、えひさつさ、水の茶やを、出放て、
まつの葉越しに、桃さくら、垣間にもるる、山吹の、
風にちらちら、ちる如く、軽尻馬の、鈴ガ森、からから
ひいひい、風車、麦藁細工、和中散、大森過て、みやふ
とばし、久敷添る、新ン宿か、よつて古川、薬師堂
新田の社、はるか西、茲は六郷、舟渡し、川を超れば
川崎宿、太師河原は、左の路、堅固で、帰府を祈りつつ
吊代の、なら茶みや、万年が奥のてい、ちよいと一杯、かた
むけんと、打通る、扨包丁の、手きいて、切り目、ただ敷
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焼豆腐、蕗は葉も、ひろひろと、命長芋、縮緬麸
武士の、ふの字っと、誉られて、もふ、一チせんと、椎たけ
や、ごんぼう尻を、ふり廻し、下女が配膳、酒肴、コレ、女
性そもじの、お吊は、何といふ、ハイ、お亀と申します、ムム
よい吊じゃ、千年、某勢州え、登る時も、茲でやす
みし時も、女子はたしか、お鶴と云しが、そ樣は、
お亀、けふ発足の二度の休みの其時に、目出度思ひ
侍るなり、コア、よい器量、柳の腰には、ふしけれど
大木柳のこしふとく、丹花のくちびる、ほほ高く
鼻至つて、低し、手も足も、よふ、ふとつとじゃ、中々
公家高家のお息女にの、そ様のよふな、大きな尻
は、あるまいと、たわむれ侍りて、
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   先年は、お鶴なりけり、万年屋
    今は、お亀が、尻のふつたり
お暇申と、立出れば、又お下りに誉て、おくんなさい
よ(さようなら)、御機嫌よふと、お亀が挨拶、茲は、鶴見の
よねまんぢう、うまい所を、打過て、麦なま
村でも、焚いて喰う、飯盛女とさがなくも、口で、云れ
ぬ、恋の文、思ひまいらせ、神奈川の宿の中ばに
おきのかた、紀伊国屋え、こそ、着にけり
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けふは、八月二十八日、神奈川の宿、立出、台の茶屋、
沖を遥に、見渡せば、出船入船釣小船、西に山々
本牧の、ほんに余所には、あら上思議、富士の人穴、右に
あり、仁田の四郎が、這入しは、此穴にては、あらずやと
いふ、程なくつくや、程が谷の駅、権太坂や、焼餅坂とは、
このもしい、茲は、武蔵と、相模なり、境の杭に、信濃
坂、とづかは、いそぐ、きん玉の、戸塚の宿、松原過て
原といふ、立場の煮花、陰が間の、里を、越れば、鎌倉
路、正八幡を遥に指し、さあさあ早く、遊行寺、
請浄光寺と、もふすなり、一遍上人、開基の寺
小栗の墓所も、苔むす塚に、吊をとどむ


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