--no.13954--2014年03月17日(月曜、時分、--

集合時間を正確に覚えず。
集合場所だけは覚えていた
が数台車が有り、見た覚えがある車もある。
置いていかれた残念。
で、一人で、急いで後を追う。
そうしてみると、内海は遠いと改めて実感する。
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内海に入り、内田邸少し前、団体を発見。
該当の団体と直感する。
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指示通り、駐車して、後を追う。
1時36分頃追いつく。
神社前。村社、高宮神社。
石段は幅確か1間、山車が登れる広さ、緩やかさ。
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宝積院。
ここでマムシのお政の墓。知らないから調べる。
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お政は愛知県で大工をしていた家に生まれました
お政は普通に育ちましたが、18歳の時に小学生の教師と上倫
相手に妻子がいることを知らず付き合っていたお政は、
裏切られたことを知ると激怒し、刃物を持って小学校まで乗り込んでいったのです
田舎でこのような事件を起こしてしまったら、もうここにはいられない
お政は故郷を捨て、東京へ出てきたのです
19歳だったお政は生きていく為に窃盗を繰り返すようになりました
色んな男の妾になり、毎日のように色んな場所で窃盗を繰り返す日々
そして日本橋のかまぼこ屋で3200円を盗んだのがバレ、一回目の牢屋入りとなったのです
出獄してからもお政は、偽吊を使ったりして窃盗を繰り返す毎日
でもそこにはいつも男の影がありました
お政は寂しかったのか、男をつなぎとめる為に盗みを働き、お金を与えていたのです
で、何度も捕まって出獄した頃には男は消えている
そしてまた新しい男を捜し、そしてその男のために金を盗む
そんな毎日だったのです
ちなみに牢屋へ入っている時に、花井お梅と一緒になったことがあります
その時の牢吊主は支倉かつという女性で、お梅が美人で有吊人だったためにかなりイジメられたそうです
お政はちゃんと「袖の下《を渡していたので、イジメには会わなかったそうです
こうして何度も同じことを繰り返していたお政
蝮のようにしつこいと刑事に言われ、「蝮のお政《と呼ばれるようになったのでした
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まあ、このうちどれだけが事実か知らないが、まあ、どうでも良い。
一言だけ、海の女なんだろう。
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寺に登る、その上
は城跡。
海が見えただろう・・ぐらいの感慨。
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あごなし地蔵。いつからか、歯痛のご利益が出てきたが。
隠岐の国から来たので、本来は、海の神だろう。竜宮か。
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内田邸に入る。梁や土間が一番感じる。海から来た材料だろうと。
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暫くして、総会。
偉い人達の挨拶は、まあ、それなりのおもしろさ。
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その後、各サークルの発表。
是れが、2種類に分かれると思う。
観光地とそうでない所。
半田、岡田、東浦、阿久比、武豊、美浜、篠島、南知多。
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俺としては、お土産物はなくても、歴史を調べているところが面白いと感じた。
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小間をみていたら、東浦の皆さんもういなかった。
調べると以下。
茶の湯では、四畳半以上を広間、四畳半以下を小間と言っています。
四畳半は広間にも、小間にもなりうる広さです。
小間は、台子をはじめ一切の棚物を用いないで、運び点前で使う茶室です。
広間では台子をはじめ種々の棚物を飾って点前をすることができます。
いわば小間はわび茶の世界であり、広間は書院の世界であります。
小間は飾りの場所は床だけに限定されますが、
広間では、床のほかに棚や付書院も設けることができます。
小間は天井も低く、出入口も小さく低いのに対し、
広間は普通の座敷と変りなく、入側や縁のつくこともあります。
例えば四畳半台目は、四畳半より広くなりますが、
台目構えが、小間の茶法ですから広間とは言えません。
茶室という言葉は、近代になって広まりました。
昔は、たんに座敷とか小座敷、あるいは四畳半、三畳などと広さで呼んでいました。
古田織部や小堀遠州たちは数寄屋と呼ぶようになりました。
こんにちでは、もっぱら茶の湯に使う座敷を茶室、
少し砕けた趣向の茶室風な建物が数寄屋と呼ばれているようです。
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帰りは下道で、常滑回りで帰宅。
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