--no.13982--2014年03月21日(金曜、時分、--

12時半頃亀崎に向かい、
コンビニで昼を買い、食いながら着いた
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2回目だが、まだ、東海道の地図を見てない。
どこかで入手しなくては。
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江戸末期、文政13年だ。
文化15年4月22日(グレゴリオ暦1818年5月26日): 仁孝天皇即位のため改元
文政13年12月10日(グレゴリオ暦1831年1月23日): 天保に改元
だから、13年は1830年。
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八月二十八日藤沢宿、八月二十九日大磯宿
此宿の前後である。
旅を追うなら、大磯一泊2日で旅をすればいいのだが。
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どうも、この武士集団、結構豪遊している。
今なら、ハイヤーを2日雇えばいいのだが。
馬や駕籠で、街道を上る。
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江戸時代、現代小説は書け無い。で、鎌倉時代が出て来る。
此頃の人気は、義経だ。
思うに、忠臣蔵は町人文化、義経は武士文化だ。そうでもないか??
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扨、気になる文を見る。
三五、十八・・だが、歳を聴いて15と知る。で、十八才はどこから出た。
十八才は大人ということかも。江戸時代には十八才が通念として大人かも。
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まあまあ、ちつと、町屋はし・・町を待ちとかけている。
それが、多いのだろうが、江戸文化をそれ程知らない。残念。
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次に思うのが、・・西行・・だ。
義経は源氏、西行は武士、確か、佐藤だ。
武士が旅をすると、どうも西行が出てくる様だ。
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三千風・・・知らないので調べた。元禄頃の人の様だ・が、
新吉原・・江戸時代、明暦の大火後に日本橋から浅草に移転した遊郭の呼称。
=====d20140320古文書亀崎.mem===========
三河記
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請浄光寺と、もふすなり、一遍上人、開基の寺
小栗の墓所も、苔むす塚に、吊をとどむ
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方に、江の島道、弁財天を、ふし拝み、是も弁財てん
と、よい宿の茶屋の女郎,よびこむ声も、まだ江戸
まじりの、声もあり、藤沢宿を出放て、右に白幡
大明神、義経の首、紊めたる所を、祭し、宮と聞く、
かの弁慶ガ首塚は、是より、はつる二三丁、四ッ谷と、
いへる、立場より、大山道に打向ひ、武運長久そくさい
と、祈しの声も、木幡の里、馬士が小唄の、高砂や、
あれ江の島の、姥が里、老の姿のたよたよと、白髪
大根ン、鮎(アイ)の?(キツ)、綺麗な茶屋で、いざ昼飯、吊代南ン
郷、酒もよし、飯も、たきたて、湯げが立つ、辰巳
上り、の茶屋女、膳もとれぬに、もふ、算用、三五、十八
才には、なるやならずで、あしらいも、勘定つくも
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手ばしかく、〆て、なんこで、こざんすと、いふて、代を
ば、とり紊め、びんしやんとして、入にけり
   甘い酢で、喰へぬなんごの茶屋女
    アイになしたる、取廻りしなり、
いざ、参るらふと、立出ん、かごより、かほほ、出しつつ、まあまあ
ちつと、町屋はし、鶴嶺八幡、右にあり、
馬入の川の船渡し、越して、八幡の立場過ぎ、平塚
宿のたいらかに、すこし登る、化粧坂、吊に大磯の
暮の秋の、三品処を、詠たるは、此宿はずれ、右いの
方、山本屋にぞ、宿にけり
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けふは八月二十九日、朝も早めに、たち出て、同じ
宿なる、鴫立沢の、物さびて、庵も、殊勝の、桑
門、髪際残りし、墨衣、数珠つまくりて、立出る
ノウノウ御僧、西行の、縁御宝物も、拝したく、頼み
申すと、立寄て、しんねぎ紙の一と筋に、ころりと
亭坊、承知して、しかつめらしく、開帳す、こな
たにたたせ給ふは、西行法師の、みかげでござる、門
学上人、鉈造りの、尊像なり、近ふや、寄て、拝になら
れませて、げにも面体、しほらしく、古き作と、
見へにけり、又、あたりの堂を、開扉して、こなたに
ましますは、大磯の虎御前さま、十郎様に御別れ
なされ候を、おしませ給ふて、黒髪をおろさせ給ふ、
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十八才の、お姿、近ふ寄て、御縁を結ばれませに
また、是なるは、虎御前さまの、握り石と申て、十郎
さまを、恋し、からせたまいて、握りつぶさつい
た、石でござる、にまの衆、結縁のために、握らせ
られ、とて、柏餅のやうな石を、だす、いやとも
いわれず、握てみれば、替る事もなく、ただの石也、
おかしきをやつと、こらへ、開帳終て、亭坊も
あんへまねき、西行の杖、その外、堂上方の、筆、色
紙、かけものなぞも、種々見すつる、西行の杖、長さ
四尺余、跡先に斗り、ふしあり、珎敷竹なり
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心なき身にも哀は、しられけり
   鴫立沢の、秋の夕ぐれ
といいしは、此処には、あらずと、人のいいし也
此所は、近き頃、三千風と云、俳人の住て、西行
の像を安置せしとぞ、又、虎の像は、江戸新吉原
より、作り、紊る、と云、誠に、虎は、貞賢の婦、祐成
亡して後、生者必衰のことはりを、語り、尼になり
しとかや、後世のひと、斯のごとく、像を造り弔ふ、
も、貞心の徳なるらん、感すれば、茲に思われ
   西行の心に?して
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