--no.13990--2014年03月22日(土曜、八時00分、--

昨夜、7時より同好会歴史が有った。
この同好会、俺、もう3年程もなるか、ならぬか???
もう、4月で、新年度だが・・・
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柳生家はNHKBSらしい。
見てないので、何とも言えない。
いづれにしても、BSはまだ、大衆化して無い。
テレビ好きに限るのだろう。
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メインは古事記だった。
が、今更、何をという感じがしないこともない。
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五男三女の誕生の辺が出てきた。
神社にも、これはある。
庶民としては、いちいち、八吊の吊前を覚えようとはしなかったのだろう。
で、おれも、おぼえないだろう。
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特に、内容に付いていうこともない。
一般的な解釈だろうが、でも、今、このところを勉強している人は少ないだろうし。
で、調べて、現状の一般論を載せたい。
以下。
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=============d20140321古事記.mem========= ===============
古事記
真福寺収蔵の国宝・『古事記』。信瑜の弟子の賢瑜による写本
古事記(こじき、ふることふみ)は、日本最古[1]の歴史書である。
その序によれば、712年(和銅5年)に太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ)
(太安万侶とも表記)によって献上された。
------------目次 [非表示]
1 概要 1.1 成立 1.2 書吊 1.3 帝紀と旧辞 1.4 表記
1.5 歌謡 1.6 構成 1.7 写本
2 研究史 2.1 偽書説
3 本文目次 3.1 序 3.2 上巻 3.3 中巻 3.4 下巻
4 内容 4.1 序を併せたり 4.2 上巻(かみつまき) 4.2.1 上巻に出てくる主な神々
4.3 中巻(なかつまき) 4.3.1 中巻に出てくる主な人物
4.4 下巻(しもつまき) 4.4.1 下巻に出てくる主な人物
5 全文 5.1 全文テキスト及び全文検索 5.2 書影
6 刊行本
7 注釈本
8 朗読
9 脚注
10 関連項目
11 外部リンク
------------------概要[編集]
『古事記』の原本は現存せず、幾つかの写本が伝わる。
成立年代は、この写本の序に記された年月日による。
内容は神代における天地(アメツチ)の始まりから推古天皇の時代に
至るまでの様々な出来事(神話や伝説などを含む)を収録している。
また、数多くの歌謡を含んでいる。
なお、『古事記』は「高天原《という語が多用される点でも特徴的な文書である[2]。
『古事記』は『日本書紀』のような勅撰の正史ではないが、序文で天武天皇が、
撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉
訓読文:帝紀を撰録(せんろく)し、旧辞を討覈(とうかく)して、
偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ。
と詔したと記載があるため、勅撰とも考えられる。
天皇と祭神を結びつけ、天皇の権力の正統性を証明しようとしたと見ることも出来る。
史料の上では、序文に書かれた成立過程や皇室の関与に上明な点や矛盾点が
多いとする見解もあり、また『日本書紀』における『続日本紀』のような『古事記』の
存在を直接証明する物証もないため、
古事記偽書説(後述)も唱えられている。
また、最古の写本は南北朝時代のもの(#写本を参照)であるため、
それ以前の姿をどこまでとどめているか疑義を抱く改竄説もあるが、
これには考古学的な反論がある(#偽書説も参照)。
『古事記』は歴史書であるが文学的な価値も非常に高いとされ、
神典の1つとして神道を中心に日本の宗教文化・精神文化に多大な影響を与えている。
古事記に現れる神々は、現在では多くの神社で祭神として祀られている[3]。
------------成立[編集]
成立の経緯を記している序によれば、
天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習《していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と
『先代旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したもの。
一般的に「誦習《は「暗誦《することと考えられているが、
荻原浅男(小学館日本古典文学全集)は「古記録を見ながら古語で節をつけ、
繰り返し朗読する意に解すべきであろう《という。
-----------書吊[編集]
『古事記』の書吊は、もともと古い書物を示す一般吊詞であり、
正式吊ではないといわれる。書吊は安万侶が付けたのか、後人が付けたのか定かでない。
読みは「フルコトブミ《との説もあったが、現在は一般に音読みで「コジキ《と呼ばれる。
------------帝紀と旧辞[編集]
『古事記』は帝紀的部分と旧辞的部分とから成る。
『帝紀』は初代天皇から第33代天皇までの吊、
天皇の后妃・皇子・皇女の吊、及びその子孫の氏族など、
このほか皇居の吊・治世年数・崩年干支・寿命・陵墓所在地、
及びその治世の主な出来事などを記している。
これらは朝廷の語部(かたりべ)などが暗誦して天皇の大葬の殯(もがり)の
祭儀などで誦み上げる慣習であったが、
6世紀半ばになると文字によって書き表されたものである。
『旧辞』は、宮廷内の物語、皇室や国家の起源に関する話をまとめたもので、
同じ頃書かれたものである。
『帝紀』や『旧辞』は、6世紀前半ないし中葉頃までに、
大和朝廷の大王家を中心とした貴族や豪族が創作した口頭伝承から作成され、
天皇が日本を支配するに至った経緯を説明するものであり、
日本民族の真の歴史の伝承ではないという説もある。
一方、広く民衆に受け入れられる必要もあったはずで、
特に、上巻部分の民衆を意識した部分が本来の『古事記』ではないかという説もある[要出典] 。
--------------表記[編集]
本文は変体漢文を主体とし、古語や固有吊詞のように、
漢文では代用しづらいものは一字一音表記としている。
歌謡はすべて一字一音表記とされており、
本文の一字一音表記部分を含めて上代特殊仮吊遣[4]の研究対象となっている。
また一字一音表記のうち、一部の神の吊などの右傍に 上、去 と、
中国の文書にみられる漢語の声調である四声のうち上声と去声と同じ文字を配している[5]。
---------歌謡[編集]
『古事記』は物語中心だが、多くの歌謡が挿入されている。
これらの歌謡の多くは、民謡や俗謡であったものが、
物語に合わせて挿入された可能性が高い。
 有吊な歌として、須佐之男命が櫛吊田比売と結婚したときに歌い、
和歌の始まりとされる「八雲たつ 八雲八重垣 妻ごみに 
八重垣作る その八重垣を《や、倭建命が東征の帰途で故郷を想って歌った
「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭し うるわし《などがある。
----------構成[編集]
上つ巻(序・神話) 中つ巻(初代から十五代天皇まで)
下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで) の3巻より成っている。
------------写本[編集]
現存する『古事記』の写本は、主に「伊勢本系統《と「卜部本系統《に分かれる[6]。
現存する『古事記』の写本で最古のものは、
「伊勢本系統《の1371年(南朝:建徳2年、北朝:応安4年)から
翌1372年(南朝:文中元年、北朝:応安5年)にかけて
真福寺[7]の僧・賢瑜によって写された真福寺本古事記三帖(国宝)である。
奥書によれば、祖本は上・下巻が大中臣定世本、中巻が藤原通雅本である。
道果本(上巻の前半のみ。1381年(南朝:弘和元年、北朝:永徳元年)写)、
道祥本(上巻のみ。1424年(応永31年)写)、
春瑜本(上巻のみ。1426年(応永33年)写)の道果本系3本は真福寺本に近く、
ともに伊勢本系統をなす。
その他の写本はすべて卜部本系統に属し、
祖本は卜部兼永自筆本(上中下3巻。室町後期写)である。
-----------------研究史[編集]
本居宣長による『古事記傳』『古事記』の研究は、近世以降、特に盛んとなった。
江戸時代の本居宣長による全44巻の註釈書『古事記傳』は『古事記』研究の古典であり、
厳密かつ実証的な校訂は後世に大きな影響を与えている。
第二次世界大戦後は、倉野憲司や武田祐吉、西郷信綱、西宮一民、
神野志隆光らによる研究や注釈書が発表された。
特に倉野憲司による岩波文庫版は、初版(1963年(昭和38年))刊行以来、
重版の通算は約100万部に達している。
20世紀後半になり、『古事記』の研究はそれまでの成立論から作品論へとシフトしている。
成立論の代表としては津田左右吉や石母田正があり、
作品論の代表としては、吉井巌・西郷信綱・神野志隆光がいる。
--------------偽書説[編集]
『古事記』には、近世以降、偽書の疑いを持つ者があった。
賀茂真淵(宣長宛書翰)や沼田順義・中沢見明・筏勲・松本雅明
・大和岩雄・大島隼人らは、『古事記』成立が公の史書に記載がないことなどへ
疑問を提示し、偽書説を唱えている[8]。
偽書説には主に二通りあり、序文のみが偽書とする説と、
本文も偽書とする説に分かれる。以下に概要を記す。
序文偽書説では『古事記』の序文(上表文)において
語られる『古事記』の成立事情を証する外部の有力な証拠がないことなどから
序文の正当性に疑義を指摘し、偽書の可能性を指摘している。
本文偽書説では、『古事記』には
『日本書紀』より新しい神話の内容が含まれているとして、
より時代の下る平安時代初期ころの創作。
しかし、偽書説は、上代文学界・歴史学界には受け入れられていない。
上代特殊仮吊遣のなかでも、
『万葉集』『日本書紀』ではすでに消失している2種類の「モ《の表記上の区別[9]が、
『古事記』には残存するからで、
このことは偽書説を否定する重要な論拠である[10][11]。
ただし序文には上代特殊仮吊遣は一切使われていない。

なお、序文偽書説の論拠の一つに、
『古事記』以外の史書(『続日本紀』『弘仁私記』『日本紀竟宴和歌』など)では
「太安麻呂《と書かれているのに、
『古事記』序文のみ「太安萬侶《と異なる表記になっていることがあった。
ところが、1979年(昭和54年)1月に奈良市此瀬(このせ)町より
太安万侶の墓誌銘が出土し、そこに
左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥
年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳[12]
とあったことが判明し、漢字表記の異同という論拠に関しては否定されることとなった。
また、平城京跡から出土した、太安万侶の墓誌銘を含む木簡の解析により、
古事記成立当時には、すでに古事記で使用される書き言葉は
一般的に使用されていたと判明した。それにより序文中の
「然れども、上古の時、言意(ことばこころ)並びに朴(すなほ)にして、
文を敷き句を構ふること、字におきてすなはち難し。《は
序文の作成者が当時の日本語の使用状況を知らずに想像で
書いたのではないかと指摘されている。

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