--no.13990--2014年03月23日(日曜、時分、--

22日、二時から間に合うように行って、
講義の最後の写真は、16時19分。
多分、4時に終わる予定だったと思う。
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で、其の後から、展示の説明。
実は、2時の講義が始まる前も少し見ていた。
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その、前の段階で、詳しそうなひとがいて、
その人に少し訪ねていた。
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口縁が、Sの字は、蓋、木の蓋がついてたとも聞いた。
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4時過ぎの、女の若い学芸員の説明が始まる。
各土器の違い、此処の説明は色々有った。
だが、おれは、何故、交流していたかが、疑問に絶えず残って居た。
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タイトルは大交流時代だ。
3世紀にはこれだけ交流していたのだけは解った。
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土器を船に乗せて、何故、遠くまで行くのか。
先ず第一が、土器は見本という例。
その二として、土器に物を詰めて運んだ、結果。
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先のマニヤは、人が行って、作る。
そう言えば、その線が交流の中心かも。
土の組成か、なんかで、その辺り、しらべられないかな。
人の移動は、結婚が多いかも・・と言うと、その人・・それ重要・・という。
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閉館のチャイムがなる中、それでも説明は続いていた。
5時18分頃、車に乗る。
東浦のイオンを過ぎたのは、18時10分頃。
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結局、3世紀、大和朝廷は、相当な範囲で、友好的に、繁栄していたと思える。
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俺は、この国家の成立は、文化的で、あまり武力勢力では無かったと結論づけたい。
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序でながら、この交流、出雲が無いのが気になるが・・・
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