--no.14254---2014年04月27日(日曜、時分、--

24日の午後の亀崎の古文書。
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此日は進んで、7頁分読破。17b頁は俺の担当。
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調べたのは清見寺。のみ。以下だ。
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この辺りを読んでいると、家康の故郷は駿河だとつくづく感じる。
岡崎でも、浜松でも、江戸でもない。駿河だ。
故郷は幼少時の住んだ所と今の人も思えば、家康も人の子。同じだろう。
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それを考えると、今川義元をそれ程憎んで居たとは、思えない。
桶狭間が無ければ、家康にとって良い師匠となったかも。
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江戸時代の清見寺
 徳川家康公は、幼少時今川氏の人質として駿府に在りし頃、
当時の清見寺住職太原和尚(第一世)より教育を受けました。
又後年大御所として駿府に隠栖した際には、
当時の住職大輝和尚(第三世)に帰依し、再三に渉って清見寺に来遊しました。

 家康公の三女静照院殿よりは、
彿殿の本尊釋迦弁尼仏と大方丈の大玄関の寄進を受けています。
これら諸々の因縁により、清見寺は三葉葵の紋を許され江戸時代260年の間、
二百余石の朱印地を有し徳川一門の帰依を受けるところとなりました。
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16b頁に、飯売ことは所の法度・・とある。
俺の意見は、此処ではコメが余り取れないからだ。
自給自足が限度の米、売れば、値上がりする。
そもそも、江戸幕府は米経済が元。
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以前、さった峠を超えた時、その街道の狭さに驚いた事がある。
ひょっとしたら、年貢は海山物と思う。たぶん。
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旅は、既に駿府。久能山は少し南だが、この時は寄っていない。
が、家康、幕府に敬意を払い記入だろう。そこが、武士の紀行文。
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駿府に入る、去年、城跡は公園だが、神社は山裾に古墳と共に立派なのが有った。
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芭蕉の歌がある、
ところで、茶は駿河で、遠州森町石松は少し外れかも。
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=====d20140424古文書亀崎.mem===========
三河記

りさらば、昼飯仕らん、いえいえ、茲では、飯は上げぬ
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是は、一興とはどふじや、飯売ことは所の法度、肴
で、酒を上ッて下んせ、こりやむごい、しからばそ様の
まいるのを、無心ながらも、所望いたそふ、一ッ杯
つつ、御報志あれ、夫れは、成程、お安いこと、朝飯の残り
がある、一ッ杯つつ、あげませふ、こりゃ、忝ない、もりもよし、
買つた飯より、又うまい、殊にそ様の、お給仕で、わし
ばっかりが、片思ひ、鮑の貝焼きでも、うましうまし、乙女の
前垂れ襷、下たには、おかぬ、壺焼きは、サザエなことでも、手
練なり、此つぼ焼の、焼かげん、汁のかげんも、食かけん
腹のかげんも、よふなって、かくなん
 昼すぎで、よい壺焼に、もらいめし
  さった一ッ杯、腹はふくらに
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はらいも、お礼も、相済んだ、扨最前より、唐つ腹で、景
色診る、ひまもなし、実に童の小唄にも、花より
田子の浦、伝ひ塩焼、煙立、登り、富士の煙りは、空に
消え、渚に海士のかしよなく、ぬるる袂や、袖しが浦
千船百船、帆を上げて、ほのかに三保の松原や、
岸打つ浪は、親しらず、子も白波に、打ち寄する、吊
のみ残りし、昔のみち、難や、天和の頃、今此道を
開かれたり、又山上に、地蔵尊、まします故に
此山の、さった峠を、真っ下り、興津川腹、打越て、右に
身延の参詣道、興津の宿は、清見潟、むかしは茲
に、関をすへ、清美関と、詠じても、むべなる哉、茲に
-------------------------p017b--------私---------------
宿を過れば、清見領、三百五拾石、吊産処、張付、吊声
雪舟の筆とかや、三穂の松原、田子の浦、此の座敷より、
ひとめに、見ゆる、庭上に、拾七間の梅が樹あり、大神
君の召れし、御駕籠なり、拜すべし、拝すべし、門前の
茶屋にて、蕎麦切り(吊物也)、所の神もばつたべた、膏薬店
は、八右衛門、吊物女子のことはも、横須賀過ぎて、海の面
外に類ひは、ありとの浜、べつたり下に、いばら村、いばら
茅原おしわけ、枯れ葉残りし、薄が島、あれ、見よ、
三穂の松原は、竪え一里、広さ二十余丁、といへり、東へ
長く西は地に、続くが、此の島の松の、葉、三穂なり、羽衣
明神社領百石、宮の後ろに楠あり、拾六畳敷と
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いふ天の羽衣、神主、紊置しといふ、秘物なり
吹上の浜とて、明神より、十町斗り、南に、羽衣
の松の梢、目の下に、さながら青海波に、にたり、
北に富士、愛鷹山、東に伊豆の出先き、西に当たりて、
久能山、近くは清水の港、家々悉く、見へて
景色、言語に絶かたく、おもわず歩む、尻軽く
江尻の宿の豊心丹、江戸見馴れねば、めずらしく、
左りの方に、久能山へ、行く道あり、清水の港へも、是より
入る、久能山へあは、江尻より、三里、府中よりは、三里といふ、
九とせいぜん、公務によつて、悉く、拝見す、佐て
茲に記す
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抑、久能山と申奉るは、元和二年
東照大神君御鎮座まします御山の東西屏風
を立たるごとく、北は谷深く、万獣の、道をたつ、南に
西に十七曲りの、御坂を登り、一の御門は、御櫓造り
番士、武器を備へて、厳重也
御宮、御本社、御拝殿、金銀をちりばめて、廻廊
唐門、御玉篭二重の楼門、五重の塔、以誠に、広大の、
御造立に、番しょう?の匠を顕し、四時の花鳥、数千の猛
獣、生がごとくの彫工の手を尽し、絵所の筆
ふるふ、朝日輝、金物は、駿ん造に?の海上にきらめき
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御存の、御重器に、御宝物、数多、紊めるる、唯恐多く
筆に顕すことを憚り、善尽し、美を尽し、
結構は言語に述難し、御社領は三千石、榊原越
中守、代々守り、御別当、徳音院と云、江尻の宿
を出放れて、左りの方、十町斗り、脇道に入ッて
草なぎ明神の社あり、日本武の尊、東夷征
伐の時、賊徒、野火を放つ、尊劔をもって、切払ひ給へ
は、放火、忽、静りしと也、小吉田を過て、国吉田、茲に
駿河の府中の宿、左りに久能え、行道あり、御城は
宿のうら通り、当城むかしは、今川家代々の居城
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なり、其後
神君、御在城、寛永年中、御番城となる。御城
の西に、当りて、浅ん間ンの社あり、社領二千六百石、先年
参詣して、悉く拝見す、二重拝殿、本社末社、楼
門、唐門、甊をならべ、大造の御造立也、金米山
宝蔵院、通りより、左りに、見ゆる地蔵尊、三百石
御神殿并宝蔵院殿、御霊屋あり、御城下の町
綺麗也、吊物は駿河細工いろいろ、桐油、蒔絵、其外
芦久保の茶、吊物也
 ばせおの句
  駿河路や、花たしばなも、茶匂ひ
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