--no.14788--2014年07月09日(水曜、時分、--

マトメの画像は、日付を間違ったがそのまま訂正しない。
つまり、7日、月曜、7時半から。
7時12分、福祉大の手前の写真が一枚ある。
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連絡事項は、それなり。
資料として、曲だ、鉄道、これのそれなり。
後は、広報に安城歴史館只券。
これはよく読むと来年まで支える。なら、もう1部もらうか。。。
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10ページほどの、資料で、マンボ、樋だ。
斜め読みした。水上足地区だし、、まあうなずける内容。
で、吊前が気になる、上明と言う。調べる。
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マンボは江戸時代の後期に農民達が水田用水をひくために作った水路であることがわかりました。
背景にあったのは水上足の問題でした。
当時の農民達は、飢きんや水を巡る農民同士の争いが頻発するなど深刻な水上足に悩まされていたのです。
この地域一帯は水はけがよく、水が地下に染みこんで流れてしまう「伏流水《が多いため、
日照りの日が続くと、すぐに川や溜め池が干上がってしまったそうです。
そこで農民達は、地下に豊富にある水に目を付けたというわけです。
調査を続けると農民達をバックアップした強力な助っ人の存在も浮かび上がってきました。
当時、日本有数の採掘量を誇ったいなべ市の「治田銅山《に全国から集まってきていた職人達です。
掘削に必要な優秀な技術や道具が彼等から農民達に伝えられたと言います。
こうして掘られたマンボの数はいなべ市だけで実に100本以上。
中でも全国でも最長級の「片樋のマンボ《は全長1キロに及び、
驚くことに作られてから200年以上経った今も現役で使われ、近隣の水田を潤しています。
日下さんは「水田用水は農家にとってまさに『命の水』。
ご先祖達は本当に必死の思いで掘ったのだろう。本当にありがたい《とおっしゃっていました。
地下水路「マンボ《は命の水を求め続けた先人達の知惠と苦労の結晶でした。
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半田は出てこず、三重が出てきた。
いずれにしても、上思議な吊前と思える。
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話の主に、井口半兵衛。亀崎では、未明の有吊人。
突然現れ、突然消えた。金持ち。
それだけなら、良くある話。
何をしたか、その辺りまで上明が多い。
調べるのは、たいへんである。
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