京都にはない、金沢にもない、あまりにもなにもない。だから面白い。(広告大賞コピー) | |||
一乗谷DISCOVERY PROJECT より | |||
|
2011年9月27日(火)久しぶりに一乗谷にある朝倉遺跡を訪ねた。何度も訪ねているが今までは閑散としていた遺跡に、全国から多くの観光客が来ているのに驚いた。観光客が急増しているのは、一乗谷を舞台にした携帯電話のCMが流れ始めた6月以降、一乗谷全体への入り込み数の目安となる復原町並入場者数は、過去最多だった昨年を上回るハイペース。特に7月は前年同期比2倍となった。市や同遺跡保存協会は「今回のCM効果でさらに知名度が上がった」と期待を膨らませている。 復原町並入場者数は、東日本大震災直後の3〜5月は伸び悩み、前年同期比76〜85%にとどまった。6月に入ると同129%の1万2648人、7月は同206%の1万5214人、8月は同160%の1万8440人を記録。1〜8月の総数は7万6千人を超え、年間10万人を初めて突破した2010年を現時点で約1万人上回っている。 観光客が急増し始めた6月は、ソフトバンクの新CMがスタート。“白い犬のお父さん”の故郷と設定された一乗谷で、断続的にロケが行われ随時放映された。同協会や市によると、県外のバスツアーが急増。CMに登場する伝統的民家の近くで記念撮影をする姿も目立つという。 同社のCMは、市がクリエイティブディレクターの佐々木宏さんに一乗谷朝倉氏遺跡の観光デザイン制作を依頼し、 「京都にはない、金沢にもない、あまりにもなにもない。だから面白い。」のコピ−が広告大賞に選ばれ、ポスタ−から、同氏が手がけるこのCMへ発展していった。 9月からは新バージョンのCM放映が始まり、ソフトバンクのホームページでも一乗谷の紹介映像が閲覧できる。 首都圏のJR主要駅への広告掲出や、福井駅からの直行バス運行事業に力を入れる市観光開発室は「一乗谷を印象づけるチャンス。リピーターを増やしたい」と期待。同遺跡保存協会の岸田清会長は「国の特別史跡、特別名勝、重要文化財の3重指定を受けている遺跡の魅力と一乗谷の自然の豊かさを、さらにPRしていきたい」と話している。 |
![]() 今回訪ねたのは赤枠内の朝倉館と復元街並 |
朝倉氏の歴史 朝倉氏の祖先は、兵庫県養父郡の豪族で、南北朝時代に朝倉広景が主家の斯波高経に従って越前に入国した。朝倉孝景の代、1467年の応仁の乱での活躍をきっかけに一乗谷に本拠を移し、斯波氏、甲斐氏を追放して越前を平定した。以後、孝景、氏景、貞景、孝景、義景と5代103年間にわたって越前の中心として繁栄し、この間、京や奈良の貴族・僧侶などの文化人が下向し、北陸の小京都とも呼ばれた。義景は、足利義昭を南陽寺に迎え観桜の宴を催した。しかし天下統一の戦いの中で1573年織田信長に敗れ、朝倉氏は滅び、城下町も焼討ちにあい灰燼に帰した。 一乗谷朝倉氏遺跡・庭園 一乗谷は、福井市街の東南約10kmにあり、戦国時代朝倉氏の城下町の跡がそっくり埋もれていた。遺跡の発掘調査は、昭和42年から進められ、昭和46年には一乗谷城を含む278haが国の特別史跡に指定された。また、平成3年には諏訪館跡庭園、湯殿跡庭園、館跡庭園、南陽寺跡庭園を含む4,205m2が特別名勝に指定された。 |
駐車場は他県ナンバーのバスや車が多い | 現在も発掘中がある遺跡案内板 | 朝倉館入口の唐門 |
![]() |
![]() |
![]() |
唐門 義景館跡の正面、濠に面して建つ唐門は五代義景の菩提を弔うために 建てられた松雲院の寺門。豊臣秀吉が朝倉義景の善提を弔うために寄進したものと伝えられ、幅2.3mの向唐門形式で、質素な中にも堂々たる気品を伝えている。(但し、朝倉時代の遺構ではないので注意) 朝倉氏遺跡関係の写真として必ず登場する定番品。春には門の内側にある桜の満開にあわせて写真をとるため混雑しる。 現在のものは何らかの理由で江戸時代中頃に建て替えられたもので、門内の上部には朝倉家の「三ツ木瓜」の紋と豊臣家の「五三の桐」が刻まれている。 堀にはたくさんの鯉が泳いでいた。 |
||
![]() |
![]() |
![]() |
朝倉館跡と館跡庭園 第5代当主朝倉義景が住んだ館の跡で、6,500m2程の敷地があり三方は土塁と濠で囲まれている。常御殿、主殿、会所、茶室、花壇のほか、台所、厩、蔵などが整然と配されていた。東側の山際にある館跡庭園は力強い滝石組、護岸石組を持ち、その洗練された石組に京都との交流が偲ばれる。 |
||
![]() |
||
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
朝倉義景墓 館跡の東南隅旧松雲院墓地内にある。朝倉義景は、天正元年(1573)8月20日、大野六坊賢松寺で一族の景鏡の裏切りにより自刃。法名は松雲院殿太球宗光大居士。現在大野市にも義景の墓があるが、これは江戸時代に建てられたもの。館跡の墓は天正4年村民の建てた小祠が始まりで、寛文3年(1663)福井藩主松平光通によって現在の墓塔が立てられた。 館跡には当初朝倉氏の菩提寺心月寺が置かれた。朝倉氏滅亡後一時丹生郡に避難していたが、慶長四年館跡に再興された。ところが、慶長6年に北ノ庄に移り、館跡の寺と墓は心月寺の末寺として義景の法名をとって「松雲院」として残されることとなった。 発掘前の館跡地には中央に「松雲院」が、西北部に「足羽町一乗谷支所」が置かれていたが、発掘開始時にそれぞれ移転し、松雲院は心月寺と統合された。 |
||
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
||
復元町並み | ||
町屋群 西の山側には、土塀で囲まれ、門を開く大規模な屋敷が整然と見られるのに対して、東には、小さな建物が連続して道路に接して見られる。最初には、ここも、大規模な屋敷であったようだが、後半になって、今みられるように小さく分割されたことが確かめられている。この一乗谷では、こうした小規模な屋敷は、谷を貫く道路を中心に、数多く発見されており、それらの中には、出土する特殊な遺物から、染物師、鍛冶師、檜物師、数珠師などが住んでいたことが確かめられる。こうしたことから、これらの小規模な屋敷は、町を構成する庶民としての職人や商人の住まいと考えられている。しかし、まだ、刀狩りも実施されておらず、下級武士と農民や職人、商人等の身分は、はっきりとは分かれていないので、朝倉氏等との主従関係を持ち、いざ、戦となれば、戦場に出かけた人々が多かったと考えられている。 ここにみられる、小規模の屋敷は、大きく二つに分けることができる。一つは、南北方向の道路に面してみられるもので、屋敷境に溝があり、各屋敷内には建物と共に井戸、便所を備え、独立性が高いもの。建物の多くは、「妻入り」と呼ばれる建て方で、道路に屋根端、すなわち「妻」を見せている。これが谷の中における一般的な形。 もう一つは、東西方向の道路に面したもので、屋敷の境が必ずしもはっきりとはしていないもの。建物は、「平入り」と呼ばれる建て方で、軒が連続するように続いており、中には井戸や便所を欠くものもある。 なお、この一角に見られる土塀は、大規模な屋敷の時の様子が残されたものと考えられる。 |
||
武家屋敷群 この地区は、「一乗谷の古い絵図」に朝倉氏の有力家臣の名が多く見られる所で、これを裏付けるように、発掘調査では、計画的に造られた道路と、整然と配置された多くの大規模な屋敷が発見された。これらの屋敷は、約30メートル、100尺を基本単位として計画されていたことが知られ、その屋敷の間口の多くは、30メートルもしくはこの1.5倍や2倍となっている。 道路は、この地区の北の端で、戦国時代の城下町を象徴するように、鍵型に折れ曲がっている。 屋敷はこの南北方向道路の両側にあるが、西の山裾側が東の川側に比べて数倍大きくなっている。最も大きな屋敷は、間口60メートル、奥行き70メートル、面積4,200平方メートル (約1,270坪)ある。 各屋敷は、塀の基礎と考えられる石垣で囲まれており、この上に土塀が築かれていたと考えられる。また、道路に対して門が開かれており、その間口は3メートル。この門の建物の跡も明らかで、西の山裾の屋敷では、礎石4個を用いた四本柱の薬医門形式と言われる門があったと考えられるのに対し、東の川側の屋敷で掘立柱2本からなる棟門形式と言われる門であり、格式の差が見られる。 屋敷の中の建物については、削り取られている所が多く、はっきりしない点もあるが、基本的には、正面、南寄りに、接客や主人の住まいとなる建物が設けられ、奥には、蔵や台所、家人の住まいなどがもうけられていたことが分かった。 |
||
![]() |
||
![]() |
![]() |
![]() |
復元町並みに入場する。入場料210円、70歳以上は無料だが半年早くて残念? | ||
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
||
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
||
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
||
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
||
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
「あまりにも何もない。だから面白い。」のフレーズが気に入った。遺跡の芝生に寝転び、何もない美しい風景を眺めながら繁栄した戦国時代に思いを馳せる。思いは果てしなく続く。だから面白い。 願わくば、この何もない情景を、そのままにして置いて欲しい。 私の育った福井の家から近くにあったこの城下町は、織田信長により滅ぼされた。この地方では信長の評判はすこぶる悪い。小さい頃に祖父母からも聞かされていた。私の祖先も信長に痛めつけられたのかも・・・・。 しかし今の私には信長も歴史上の人物でしかない。 |