第35回 2SOB会ハイキング

鳥羽三山とその周辺を歩く


鳥羽三山は鳥羽市内にある日和山69m、樋の山(ひのやま)160m、城山24mをいう。
2011年2月19日(土)
(参加者) 隊長:寺倉 隊員(あいうえお順):稲垣、加藤、園原、乗木 
隊長の寺倉さんは今年80歳、老いて益々盛ん。メンバーも負けずについていかねば・・・
NO 行程
1 JR共和駅で青空切符2500円を購入し乗車
2 JR名古屋駅関西線ホームに集合、7:49発鳥羽行き快速に乗車
3 9:38関西線鳥羽駅に到着、鳥羽市内ハイキング開始
4 日和山遊歩道を歩き、日和山展望台へ
5 賀多神社、常安寺を見学し山道を歩いて、金刀比羅宮鳥羽分社へ
6 金刀比羅宮鳥羽分社で持参したお弁当の昼食
7 その後、樋の山山頂に登る
NO 行程
7 樋の山を下山し、途中「めだかの学校」を見学
8 市内を歩き、「鳥羽みなとまち文学館」を見学
9 「御木本幸吉生誕地」を通り、「鳥羽城址&城山公園」へ
10 鳥羽城三の丸広場へ
11 JR鳥羽駅前のおみやげ店で買い物
12 15:11発の快速に乗車し、17:01名古屋駅着 
13 18時頃JR共和駅に戻る 本日の歩行数 1.4万歩
JR関西線鳥羽駅で下車 日和山遊歩道を歩き、見晴台に向かう
日和山見晴台からの鳥羽の海と島々(左から答志島、神島、菅島、坂手島)の美しい展望
一つ目の山 日和山(69m) 山頂の「幸せの鐘」の前で記念撮影
方位石は見晴台にあり、市の文化財に指定されている。鳥羽港は明治中期までの帆船時代に風待ち港として栄えたが,船頭が明日の天気を見るために日和山に登ったと伝えられている。この方位石はよく研磨された本場神戸の御影石で,八角柱の上に円形の方位盤を載せた特別な形をしている。日和山の地名は的矢湾にも有り,同じように方位石がおかれている。この地方が昔から船の往来が盛んであったことを示している。

日本における電話の発祥は、1890年(明治23年)のことであるが、三重県で電話交換が始まったのは10年後の1900年(明治33年)であった。電話が鳥羽で開通するのは更に遅れて1910年(明治43年)のことである。電話の開通は遅かった鳥羽であるが、無線電話は世界で初めて実用化され、日和山に「無線電話発祥記念碑」が建てられている。

賀多神社
日和山のふもとにある賀多神社の縁起は古く、鳥羽城主の九鬼嘉隆が戦勝を祈願したと言われる由緒あるお宮。
九鬼氏ゆかりの神社であり境内には竜灯(りゅうとうのまつ)、相生松(あいおいのまつ)、連理樹(れんりのき)の三神木があり、九鬼嘉隆は日本丸を建造する際にこの竜灯松で船床を作り、その後に杉1000株をこの山に植えたといわれる。これを九鬼の千本杉と言い、境内に残る一老杉がその内の一本。
御鎮座は724年といわれ古くは八王子社と称されていたが、明治4年に郷社賀多神社と改められ、明治40年に12社を合祀し現在に至る。
鳥羽の春祭りには神社の例祭が行われ、境内では美しい薪能が奉納され、この薪能に使われる能面や衣裳、舞台は三重県の有形文化財指定されている。
一般家庭の玄関に「笑門」の飾りが 古い家並み 常安寺に向かう

常安寺
志摩国第一の巨刹であり、九鬼家の菩提寺。九鬼家の廟と、嘉隆の業績が漢文で刻まれた石塔などがある。西南戦争の際には鳥羽港に寄港された明治天皇が奥書院に宿泊された。 もとは大福寺と呼ばれ九鬼嘉隆の菩提寺だったが、嘉隆の逝去後、菩提供養のためにその息子守隆が改築し常安寺と改められた。
境内には市指定文化財として、九鬼守隆が父嘉隆の菩提を弔うために寄進した石灯籠や、守隆が寄進した鰐口、九鬼家の廟所、稲垣氏歴代の墓碑などがある。また九鬼嘉隆が自害に使ったと言われる短刀や、九鬼嘉隆画像、鐘楼などもある。本尊は釈迦如来座像で、境内には改築された本堂をはじめ、山門、薬師堂、庚申堂、十王堂、地蔵堂、鐘楼などの諸堂もある。

金刀比羅宮鳥羽分社(樋の山)に向かう
金刀比羅宮鳥羽分社(樋の山)
讃岐金刀比羅宮鳥羽分社は香川県の讃岐金刀比羅宮の6分社の1つで,昭和31年(1956)に創祀された。現在も四国金刀比羅本宮の分社として宮司が派遣されている。鳥羽の「みなとまつり」の日が讃岐金刀比羅宮の例大祭で,行宮祭(あんぐうさい:仮の拝殿で神事を行う形)や紅白で飾られた船を連ねての海上渡御等の神事が行われる。
鳥羽湾を一望できる樋の山公園の一隅にあるこの神社は、漁業・海運関係から厚い信仰を集めている。
また、ここからの眺望は素晴らしく、春には淡い桜の花が辺りを飾っている。花越しに見る鳥羽湾の風景は、多くの方に愛される名所の一つとなっている。
暖かい陽射しのある広場で持参したお弁当の昼食
樋の山山頂に向かう
二つ目の山 樋の山(160m) 山頂で記念撮影
山頂からの鳥羽湾展望
手作りの「樋の山山頂」標識がたくさん
次の目的地「めだかの学校」に向かう
扇野の鐘ー幸せを呼ぶ鐘ー
ひとりで鳴らせば良き人に会い
共に鳴らせば結ばれて
再び鳴らせば旅のはじまり
めだかの学校
樋の山の中腹にあるホテル扇芳閣の一角にあり、メダカ池や藤棚、無料の足湯などが設けられ、憩いの場となっている。 春になると、1万匹のメダカが群れをなして泳ぎ、夏から秋にかけてはトンボが飛び交う自然を体験することが出来る。
扇芳閣の谷口仙二氏によって管理されているビオトープである。平成16年には鳥羽商船学校の学生達によってつくられた水車も動き始めた。大人も子供も“ホッ”とする時間を過ごすことが出来る空間である。
ホテル扇芳閣の前を通り、元来た道に戻る
鳥羽みなとまち文学館
この文学館は、画家であり風俗研究家であった岩田準一がその大半を過ごした家でもある。館内には、彼の絵画や研究資料、交流のあった江戸川乱歩・竹久夢二などとの書簡が展示されている。
岩田準一は、明治33(1900)年に鳥羽に生まれ、絵を竹久夢二に師事。民俗学分野では志摩地方の「海女」や「はしりかね」と呼ばれる船遊女をテーマにした民俗研究でも成果を残している。また、男色研究では、南方熊楠や江戸川乱歩と共に文献収集や研究活動を続けた。著書に『本朝男色考』、『男色文献書志』、『志摩のはしりがね』、『志摩の海女』、『鳥羽志摩の民俗』など多数を残している。昭和20(1945)年、45歳の生涯を閉じた。
他に準一に関する文献として『南方熊楠−岩田準一往復書簡』平成3年 八坂書房発行、南方熊楠と岩田準一の往復書簡『浄のセクソロジー』中沢新一編 平成3年 河出書房新社発行等がある。
御木本幸吉生誕地
世界の真珠王 御木本幸吉は安政5年(1858年)鳥羽市大里のうどん屋「阿波幸」の長男として誕生する。
1871年、13才で青物行商を始める。1893年(35才)相島で半円真珠を完成する。1905年(47才)真円真珠を完成する。1954年没、享年96才。
鳥羽城跡&城山公園に向かう
鳥羽城跡&城山公園
城山公園は鳥羽城址の中の北側にあり,高台になっていて、鳥羽の港が一望できる。海抜18mと24mの2段になっていて,遊具もあり,整備されていて,散歩には好適で、市民の憩いの場。春は桜が満開。多少木立が邪魔しるが、城跡の様々なところから、鳥羽の市街や鳥羽湾の景色をを楽しむことが出来る。目の前に水族館、その先に真珠島。観光船やフェリーが発着し,時折近鉄線が横切る。
三つ目の山 城山(24m) 山頂にある三角点で記念撮影
鳥羽城三の丸広場に向かう
鳥羽城三の丸広場
鳥羽城は戦国時代から安土桃山時代に活躍した戦国武将である九鬼嘉隆(−1604)が1594年に作った城で、海戦に秀でた嘉隆らしく、天然の要害を巧みに生かした城になっている。嘉隆は8年かけて城を作りながら、関が原の戦いで親子が東西に分かれるという悲劇のため、実際に住んだのは6-7年だったようだ。城のあった所と 内陸側とは堀と川によって隔てられていた。高台の部分に今は廃校になった鳥羽小学校と運動場、城山公園、少し下がって市役所、幼稚園、大山淀神社がある。
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