第2次世界大戦中、ナチスドイツの迫害から逃れるユダヤ人に、独断でビザを発行した杉原千畝の記念館を訪問する。崇高な精神と偉大な功績を称え、その人間愛の記録を後世に伝えるため、生誕の地、八百津町の人道の丘公園こ記念館がある。 杉原千畝の「命のビザ」を手に、ユダヤ人難民約6000人が私の故郷福井県の敦賀港に上陸し、市民から温かいもてなしを受けたらしい。高校生までを福井で暮らしたが、そのような話を聞かされたことはなかった。 |
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真実を見つめ、千畝が書き続けた幾枚もの『命のビザ』を重ね、希望の光りを反射させながら空へとのびていくモニュメント。千畝が教えてくれた「人間愛」の心が響くように、訪れる一人ひとりの手によって平和への鐘を世界へ、そして次世代へ向かって奏でる。 私たちも願いを込めて三つの鐘を奏でる。 | |||
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命のビザモニュメント丘からの市内展望 | |||
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公園のシンボルであるモニュメントは“世界平和”をテーマに“平和を奏でるモニュメント”として八百津町から“世界に平和の光と音楽を”のメッセージを発信している。モニュメントは、東海地方の主要産業でもある“セラミック”を素材にパイプオルガンをイメージし、コンピューター制御により噴水・照明とともにセラミック楽器による“平和を願う音楽”を奏でる。セラミックパイプは全部で160本、パイプの大小は世界の国々をあらわし、高さ最高6.85m、幅10mで2列に半円状に並び放物線を描いて中央で交差している。演奏曲目は“大きな栗の木の下で”“故郷の空”“今日の日はさようなら”の3曲。 | |||
人道の丘公園石碑 | シンボルモニュメント | 杉原千畝像 | |
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杉原 千畝(1900年 -
1986年) ミスター・スギハラの名前を知っていますか。世界中のユダヤ人から日本のシンドラーと呼ばれて全世界の人たちから尊敬の念をむけられている八百津町出身の外交官。 1940年7月18日、第2次世界大戦のさなか、リトアニアの日本領事代理をしていた杉原は異様な雰囲気の中で目をさました。領事館から外を見ると周囲をたくさんの人がとりまき、血走った目をして何かを叫んでいる。すべてがユダヤ人。ナチスの迫害から逃れるため、日本の通過ビザを求めて集まってきた人々だった。前年にはナチスドイツがポーランドに侵攻、イギリス、フランスがドイツに対して宣戦布告をして戦火はヨーロッパ中に拡大。ナチスはユダヤ人を捕まえて次々と強制収容所に送り込んでいた。収容所に入れば悲惨な運命が。大量虐殺…ホロコースト。そのナチスから迫害の魔の手を振り切ってきたユダヤの人たちが杉原のもとに押しよせた。当時のユダヤ人たちの逃げ場はたったひとつ。オランダ領キュラソー島。しかし、ここに行くためにはソ連、日本を通過する以外道はなかった。このとき日本とドイツは同盟関係。ユダヤ人を助ければドイツに対する裏切り行為になる。杉原はビザ発行の許可を得るために日本の外務省に電報を打ったが返事はない。何度も何度も打った結果、やっと返ってきた回答は「ノー」。「私の一存で彼らたちを救おう。そのために処罰をうけてもそれは仕方がない。人間としての信念を貫かなければ」と決心した杉原は、それから懸命にビザを書き続けた。腕が腫れあがり、万年筆がおれても杉原は書き続けた。 杉原千畝は、ユダヤ人へのビザ発給により約6千人もの尊い命をナチス・ドイツの迫害から救った外交官だが、ごく一般の環境と家庭の中で育った普通の人だった。その普通の人が、自国の文化を愛しながらも他国の人と共感できる国際人としての資質を持ち、ユダヤ人大虐殺が行われた第二次世界大戦という特異な環境の中で、人間として偉大な行為を行った。 1900年1月1日、八百津町で誕生。小さい頃からおとなしくて優しい性格。それでいて一度自分で決めたことは必ずやり通すという熱血漢一ミスター・スギハラ。ユダヤの人たちは、この名前を今でも忘れていない。 |
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千畝の紹介展示 | 決断の部屋(執務室) | 展望塔からの眺め | |
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次に近くにある旧八百津発電所資料館を訪ねる。ここは既に閉鎖された発電所であるが、現役時代に4台あった発電機のうち1台が、私の故郷福井の足羽発電所に移設され、現役で稼働していることを知る。驚きである。 | |||
資料館のある諸田公園(楓の広場)の美しい紅葉、流れる大河は木曽川 | |||
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ヨーロッパ風建築の面影を残したモダンな建物、優雅さと風格に満ち溢れたレンガ造りモルタル塗の堂々たる外観は、訪れる人を歴史浪漫の世界へタイムスリップさせる。旧八百津発電所は、明治44年(1911)に木曽川水系初の本格的な発電所として建設され、明治・大正・昭和の3代にかけて、産業の近代化への道のりを支えてきた。しかし昭和49年(1971)、新しい丸山発電所の完成により閉鎖となり、63年に渡る発電の歴史に終止符を打った。 平成10年(1998)5月1日、日本の水力発電の歴史を物語る貴重な資源として国の重要文化財に指定され、それにあわせて資料館としてオープンした。水力発電のルーツを知る場、電化による生活様式の移り変わりを知る場、さらに木曽川の歴史を知る場として、再び産声を上げた旧八百津発電所資料館、新しい使命をたずさえて、多くの人々に愛されている。 親切な館員の丁寧な説明を受けて、良く理解することが出来た。ここで足羽発電所に1台移設されていたことを知る。また筏陳列の場所で、昔の木曽川筏下りの解説を受けて、伐採から困難な運搬方法までの詳細を知ることが出来、興味深い一日となった。 |
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本館発電機 本館の建物は、発電設備のある発電棟と送電設備のあった送電棟が一体になっている。 発電棟は、放熱性を考慮した軒高12mの広い空間があり、送電棟は、一階の母線室と二階の配電室に分かれ、配電室の床が高電圧に耐えられる耐火床になっている。 発電棟には、大きな水車に発電機を直結した発電装置が3組(現役時代は4組)設置されている。 水車は、当初の米国モルガン・スミス社製の水車が破裂したので、それに代わる大正12(1923)年電業社製横軸単輪複流渦巻型フランシス水車。 発電機は、明治44(1911)年の米国ジェネラル・エレクトリック社製で、大正12(1923)年に芝浦製作所がコイルを巻替えたもの。 最大9,600kwを発電した。 |
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