滋賀県 余呉湖を歩く
2013年3月30日(土)
賤ヶ岳(約422m)を一つ隔てた琵琶湖の北にある。面積約1.8平方キロメートル・周囲約6.4km、水深13m、三方を山で囲まれた断層盆地にあって、琵琶湖との水面落差が49m近くある。古くは、琵琶湖を大江(おえ)、余呉湖を伊香(いか)の小江と称し、天女の羽衣や龍神・菊石姫の伝説が残る神秘の湖。別名「鏡湖」とも呼ばれる。
白鳥に姿を変えて水浴びを楽しんでいた8人の天女の姉妹のうち、伊香刀美(いかとみ)に羽衣を取られた末妹だけが天に帰れなくなり、夫婦となって2男2女をもうけたという物語。また羽衣を取ったのは桐畑太夫で、菅原道真がその子であると伝える話もある。
余呉湖と琵琶湖にのみ棲息する特産物・イワトコナマズをはじめ、ワカサギ、フナ、コイ、ウナギ、ナマズなど魚類も多くいる。夏は水面近くをフナの大集団が回遊する姿が見られ、冬には水鳥も飛来する。
湖畔には、遊歩道などの施設が完備され、レンタサイクルも利用できる。
久し振りに「青春18きっぷ」を利用し共和駅で乗車し、米原駅で北陸線に乗換え、余呉駅で下車する。まだ高速道路がない頃、故郷福井へ帰省する時この近くを通っていたが、立ち寄る機会はなかった。
余呉駅を出て、時計回り方向で余呉湖を一周する。
余呉湖観光館を見学。
まだ蕾が固い桜並木の湖岸を歩く。
風が冷たく強い。持参したおにぎりを食べる風の当たらない場所を捜しながら歩くが、見つからない。
比較的風当たりの弱い場所を見つけて、美しい余呉湖を眺めながら昼食。

途中私たちと逆回りの、神戸から来たという一人歩きの女性に出会う。余呉湖が大好きで時々訪ねて来るらしい。そのような余呉湖ファンが出来るのも頷ける美しい景観である。

国民宿舎余呉湖荘のレストランで暖かいコーヒを飲む。
余呉駅に向かい後半のウォーキング。
湖岸遊歩道を歩き、アジサイ園を抜ける。
この遊歩道は、残雪のある横山岳を眺めることが出来て美しい景観である。
賎ヶ岳合戦の史跡が所々に残されている。
機会があれば、いつの日か賎ヶ岳山頂にも登ってみたい。
途中公園にいた中学生の子供たちから「こんにちわ!」と元気のよい挨拶を受ける。
今日は土曜日、たくさんの家族連れがわかさぎ釣りを楽しんでいた。
有名な天女の衣掛柳を見て、余呉湖を一周し、JR余呉駅に戻る。

左地図の右湖畔はまだ蕾が固い桜並木が続く。見頃は4月中旬頃であろうか。
左湖畔にはあじさい園がある。見頃は6月末〜7月上旬。
花の季節や、新緑、紅葉の季節に、また来訪したい余呉湖のウォーキングだった。
自宅からの歩行数は1.8万歩

JR余呉駅を出発 標識にしたがい余呉観光館へ 天気は良かったが、風が冷たい
桜並木が続くが、まだ蕾は固い わかさぎ釣りの人々
岩崎山の大岩
岩崎山は湖岸に大岩が突出し、賎ヶ岳合戦には高山重友の砦があった。古代には近くに智者寺・蓮法寺があり、これと並び岩崎の大岩として人々から崇敬されていたが道路拡張で取り除かれた。この岩は当時を偲ぶなごりである。
尾の呂が浜
天正11年4月20日の早朝の雨の中で馬を洗っていた中川清秀方の馬屋係2人が突然現れた佐久間盛政の兵に切り殺され賎ヶ岳合戦の火ぶたが切られた所。
湖の中に生えている木々を見かけるがどうして?
山口誓子の碑 車も、人も少ない
ネコヤナギ キブシ
遠くに見える残雪の山は横山岳1132m 国民宿舎余呉湖荘でコーヒを飲む
7本槍の地
賎ヶ岳合戦の戦いは槍の戦いともいわれるが、特に7本槍で名高い秀吉の若い小姓達が競って功績を立てたのはこの付近であろう。秀吉は賎ヶ岳山頂から見守っていた。
斎部路通の碑 青い空と青い湖が映える
アジサイ園、見頃は6月末〜7月上旬 静かである
菊石姫と蛇の目玉石 後方に横山岳
元気よく「こんにちわ!」と声をかけてくれた地元の中学生。余呉湖畔の清掃ボランティア活動をやったとのこと。この美しい景観が保たれているのは地元の人達のこのような努力のおかげであろう。明るく、人懐っこく、礼儀正しい子供たちは、この美しい自然が育んでくれたのだろうか。
右の写真は、妻の話を興味深く聞いている子どもたちだが、元教員の妻も感心するほど良い子たちで、嬉しい出会いであった。
「余呉早春 雪の下ゆく 水の音」
天女の衣掛柳
往古 天の八乙女が白鳥となって此の所に舞い降り柳の木に羽衣をかけて水浴中、伊香刀美と云う人が白犬を使って末女の羽衣をかくした。天女は羽衣が無くては天に帰れず、仕方なく伊香刀美の妻となって2男2女を生んだ。その子孫が伊香地方を開発した祖と伝えられる。
又別の説によると余呉の豪氏、桐畠太夫の妻となり1男を生んだ。その後天女は羽衣の隠し場所を見つけて天に帰った。残された幼児は母恋しく泣き続けた。
ここより1キロ程北に夜泣石がある。その泣き声が法華経の様に聞こえるので菅山寺の僧が引き取り養育した。菅原是清卿が菅山寺へ参詣された切、その子を養子として引き取られ京都で成人された方が後の菅原道真公である。
又この柳は中国系のものである。学問の神として祀る菅原公はこの衣掛柳の古説と北野神社の旧跡は余呉町の旧跡として保存している。