杵築市
杵築市(きつきし)は、大分県の北東部に位置する市。自然環境を守り、歴史・文化を大事にしつつ、進出企業や地場産業の発展を図り、古いものと新しいものとの調和・バランスのとれた発展をめざしている。
江戸時代は杵築藩松平氏3万2000石の城下町として栄え、廃藩置県まで国東半島の政治・経済の中心地であった。日出藩の分家、交代寄合旗本木下氏の陣屋が山香町の立石陣屋に置かれた。 |
杵築城 1393年の築城以来、600年もの間この町を見下ろしてきた杵築城。模擬天守とはいえ、城跡にそびえる三層の天守閣は在りし日のこの城の姿を偲ばせる。
室町時代初期、木付氏によって八坂川の河口にある台山の上に築かれたこの城は、北は高山川、東は守江湾といった天然の要害に囲まれた城であった。その後の天災、震災などで城も場所や形を変えながら、主もまた前田、杉原、細川氏と入れ替わり、その後の小笠原氏、そして松平氏を最後に江戸の時代も終わりを告げ、杵築城は新たな城主を迎えることなく今に続く。現存するのは一部石垣など。
現在では山上が城山公園として整備され一般にも開放(有料)されていて、市内のあちこちで発見された国東塔など貴重な石造物を野外展示している石造物公園もある。築城当時“木付城”と命名されながら幕府朱印状に誤って“杵築城”と記されて以来「杵築城」に。また島津の猛攻撃に2か月も耐えたことから別名「勝山城」とも呼ばれている。 |
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北台武家屋敷通りと磯矢邸
上級武士たちの屋敷跡が並ぶ北台武家屋敷通り。勘定場の坂を上った所に、藩主の休息所として設けられた御用屋敷の「楽寿亭(らくじゅてい)」。その一部、玄関の間、客間の座敷、茶室の三部屋が磯矢邸として現在も残っている。
建築は文化13年(1816)、当主となった次席家老の加藤与五右衛門がその後増改築を繰り返す中で現在の形になって行った。楽寿亭の役割が“休息”であったように、屋敷のいたる所には“癒し”のおもてなしが用意されている。
最もそれをよく表しているのが庭。屋敷中のどの部屋からも眺めることのできる庭の風景に、この屋敷のこだわりと心配りが見て取れる。全ての窓枠からそれぞれ違った庭の風景が映り、例えば、床柱にはもたれかかっても痛くないような「背ずり」と呼ばれる工夫がなされるなど、その粋な計らいは手水鉢(ちょうずばち)や欄間にまで至る。庭に置かれた敷石の位置、計算され尽くした樹木の配置や種類、そして屋敷のあちらこちらに、200年の時を超えて語りかけて来る奥深い精神がある。観光客は少ないが、絵になる美しい景観であった。 |
勘定場の坂 |
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北台武家屋敷通り |
藩校の門 |
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能見邸 |
土塀 |
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大原邸 |
絵になる土塀 |
北台武家屋敷通り |
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磯矢邸 |
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竹田市 
竹田市(たけたし)は、大分県西部に位置する市である。中心市街地は大分市から南西約55km、熊本市から東北東約73kmの場所に位置する、周辺はくじゅう連山・阿蘇山・祖母山・傾山などの1,000m級の山岳に囲まれた、竹田湧水群や久住高原を持つ自然豊かな市である。奥豊後に位置する城下町で、滝廉太郎が「荒城の月」の構想を練った岡城があることで知られる。 |
岡城跡  岡城は中世では志賀氏の居城となり、天正14年(1586)には島津藩3万7000人もの軍勢に対し、わずか1,000人で撃退した。その戦いぶりに豊臣秀吉から感状を与えられたという。難攻不落の名城は、文禄3年(1594)、中川公の入封によって岡藩の城となった。
現在残されている城郭は、中川公によって築城されたもので、本丸、二の丸、三の丸、西の丸などの主な曲輪(くるわ)から成っている。趣味人であった藩主は、城の北側にある絶壁を三日月型にくり抜き、その中に明かりを灯して、月のない夜も月見の宴を楽しんだ。毎年秋、稲葉川の水上舞台では幻想的な薪能(たきぎのう)が催され、往時をしのぶ風流なひとときが流れる。
入場料300円を支払い入場したが、広大な城跡を別ルートで退場し迷子になる。が、このルートから入場すれば、入場料は不要だが、道は険しい。スマホで現在地を確認しながら歩いていたら、地元の親切なおばさんが、車で駐車場まで案内してくれた。おばさんありがとう! |
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瀧廉太郎記念館
瀧廉太郎は明治時代の著名な作曲家。主な曲は「春」、「箱根八里」、「荒城の月」、「鳩ぽっぽ」などがある。東京生まれで、ドイツに留学中結核を発病し、両親が暮らす大分市で療養中、23歳の若さで生涯を終えている。瀧廉太郎の父親は内務省に勤めていた関係で転任が多く、12歳から14歳までここ瀧廉太郎記念館で暮らしていた。ここ竹田の町で音楽の道へ進むことを決心し、竹田小学校を卒業後に東京音楽学校へ入学した。代表曲の一つ「荒城の月」は、竹田にある岡城趾がモデルになったという事でも知られている。記念館には手紙、楽譜、写真などが展示されている。また、廉太郎の生涯を紹介した15分間のビデオが見れる。 |
廉太郎トンネル、音楽が聞こえる |
記念館案内標識 |
記念館入口 |
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館内 |
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高千穂峡 
高千穂峡(たかちほきょう)は、宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井にある五ヶ瀬川にかかる峡谷である。国の名勝、天然記念物に指定されている。
阿蘇カルデラをつくった火山活動によって、約12万年前と約9万年前の2回に噴出した高温の軽石流(火砕流の一種)が、当時の五ヶ瀬川の峡谷沿いに厚く流れ下った。この火砕流堆積物が冷却固結し熔結凝灰岩となり、柱状節理が生じた。熔結凝灰岩は磨食を受けやすいため、五ヶ瀬川の侵食によって再びV字峡谷となったものが高千穂峡である。高さ80m〜100mにも達する断崖が7kmにわたり続いており、これを総称して五ヶ瀬川峡谷(高千穂峡)と呼ぶ。
写真でよく見る景色を自分の目で確認する。もっと広範囲だと想像していたが・・・ 絶景であった。 |
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阿蘇山周辺 
外輪山の内側を中心として阿蘇くじゅう国立公園に指定されている。温泉や観光・レジャースポットが点在する有数の観光エリア。 |
阿蘇麓草千里ヶ浜の雄大な景色を眺めながらドライブ |
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阿蘇火山博物館3階展望台から草千里の眺め |
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阿蘇山ロープウェイ乗り場 |
米塚 |
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仙酔峡
仙酔峡(せんすいきょう)は、熊本県阿蘇市一の宮町にある峡谷。阿蘇山高岳の北麓にあたる。 標高は約900mで、眼下には阿蘇カルデラの北側に当たる阿蘇谷と北外輪山が一望できる。春にはミヤマキリシマが咲き乱れ、多くの観光客が訪れる。東阿蘇観光開発(株)が運行している仙酔峡ロープウェイ(平成22年5月2日以降、休止中)の駅や、阿蘇の自然等を紹介するインフォメーションセンターがあり、阿蘇高岳、中岳への登山の拠点である。
仙人が酔うほど美しい峡谷であることからこう呼ばれている。付近には、単純温泉の仙酔峡温泉もある。
今年はミヤマキリシマの開花が早かったようで、すでに終わりかけていたが、それでもまだ美しい花も残っていた。 |
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阿蘇神社 
阿蘇神社(あそじんじゃ)は、熊本県阿蘇市にある神社。式内社(名神大社)、肥後国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。全国に約450社ある「阿蘇神社」の総本社である。古くは「阿蘓神社」とも記されていた(現在も銘板が存在)。阿蘇山の北麓に鎮座する。全国的にも珍しい横参道で、参道の南には阿蘇火口、北には国造神社が位置していると言われている。中世の戦国期に肥後中部で勢力を誇示していた阿蘇氏と縁の深い神社である。
一の神殿・二の神殿・三の神殿・楼門・神幸門・還御門の6棟は国の重要文化財に指定されている。また、楼門は日本三大楼門の一つに数えられる。
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