エッセイ「日本の作曲家」あれこれ

このページでは、私がライフワークにさせていただいている「日本の作曲家の管弦楽曲浄書譜作成」の過程で、いろいろ体験した事や思った事などを、綴って行きたいと思います。なお文中では基本的に敬称を略させていただいています。どうかご了承ください。なお一部ブログに掲載したものと同じ文章も含まれていますが、悪しからずご了承下さい。

「別にお前なんかに宣伝してもらわなくてもいいよ」

 日本の作曲家の研究をライフワークとし、いろいろと研究させていただいている過程で、残念ながら最近「これで、本当にいいのだろうか?」と、悲しい思いをさせられる事が続いている。きっと私の方にその原因があるとは思うのだが、今回はそのやるせない思いを書いてみたい。
 それは、戦前の作曲家の自筆譜を保存している学校法人などの施設を訪れる時などに、特に多い。こちらは「作曲家について、いろいろ知りたい」という素朴な願いから、自筆スコアなどの資料閲覧を申し込むのだが、少し込み入った話になってくると、例外なく「この作曲家については、必ずこの方のご了承をいただく必要がある」みたいな方が出て来て、話がスムーズに進まなくなるのだ。
 とある作曲家の自筆譜の保存をしている学校法人を訪ねた時のことだ。かなり名の知られた作曲家にも拘わらず、その演奏用パート譜の状況は決して万全なものではなかった。そこで私は、自分のこれまでの経歴をすべてお話しし、「もし宜しければ、ボランティアで浄書パート譜を作成させてください」と申し出た。この作曲家は個人的にとても好きだったし、また一演奏家として、現場のプレイヤーがこの作曲家の作品を少しでも見やすい、演奏しやすい譜面で演奏してほしい、という素朴な思いからだった。当初は学校の方も「願ってもない事です」と言ってくださり、自筆スコアのコピーを提供して下さった。私はただちに譜面の作成にとりかかった。ところが数日後、突然「浄書譜の作成は結構です」という連絡が入った。どうも学校の上の方の人から、ストップがかかったような印象だった。その後ある筋から、その学校の偉い人が「その人は浄書譜を作って、何か商売に利用しようとしているんじゃないか?」みたいなニュアンスの事を言っているらしい、という情報が入った。私は余りの事に愕然とし、ただちにこの作業から手を引いた。後味の悪さだけが残った。

 これもまた、別の作曲家の自筆を保管しているある学校法人を訪ねた時のことだ。ここでは自筆譜をすべて電子ファイル化するなど、体系的に保管作業をされている。
 しかしここも、外部に対して恐ろしいほど閉鎖的なのだ。
資料の閲覧・複製等は申請書を必ず書かねばならない。これは貴重な文化資料を、やみくもに流布させないためには、ある意味当然必要な事。しかしその後の過程で、この学校は申請者の素性を徹底的に疑う。「何のために譜面のコピーが欲しいの?」と、嫌と言うほど探られ、少しでも疑わしいと思われたら、その後はガラッと対応が冷たくなる。私は、私の知人に「あの人は、一体どういう方なのですか?」という、探りの電話まで入れられた。電話を受けた方は「全面的に信頼しております」と言って下さり、涙が出るほど嬉しかったのだけれど・・・。
 ところで最近、この学校がこの作曲家のコンサートを主催するというニュースを新聞で知り、私は自分の拙いホームページに「コンサート情報を紹介させてください」と学校に申し出た。ところが、これが断られてしまったのである。「ホールの収容人員が少なく、また一回目のコンサートはすでに完売間近なので、結構です」という理由で。
 私はとても悲しくなった。そして「この閉鎖性は一体何なんだろう」と考えさせられてしまった。

「別にお前なんかに宣伝してもらわなくてもいいよ」

と言わんばかりの対応を受けると言う事は、きっと私の方にも落ち度があったのだろう。
 この作曲家の音楽は、決して分かりやすいとは言えない。
しかし、他の作曲家にはない非凡さ、きらめきを一杯に秘めている。私は少しでも多くの方々にその音楽の素晴らしさを伝えて行くお手伝いをさせていただきたいという願いだけから、この学校にコンタクトを求めたのだが・・・。
 そのような訳で私は、最近はこの作曲家から距離を置かざるを得なくなっている。そうは思いたくないが、この学校のなかに「この作曲家については、私が第一人者なのだから」という思いが強すぎる方がいて、結果的に自分のステータスを邪魔する恐れのある相手に対しては排他的になっている、としか思えないのだ。これは作曲家本人にとっても、何と不幸な事だろう。真に芸術的な価値以外の要因で、その芸術を多くの人々が享受出来る可能性を、一番大切な立場にいる者が邪魔している訳なのだから・・・。
 芸術は分け隔てなく、広く一般に享受されるものでなければならない。まして、こんにち忘れられてしまっている戦前の日本の作曲家などは、まずその作品を知ってもらう努力を、何よりしなければならないのだ。そんなところで「私の目を通さなければ」みたいな偏狭な縄張りを主張してどうするのだ。
 私は私自身も含め、このような体験を他山の石とし自戒せねばならないと思っている。 (2009.11.28)


「日本近代音楽館」が2010年3月に閉館

 「日本近代音楽館(東京都港区)が、来年3月をもって閉館」というニュースを今日の夕刊で知り、大ショックを受けている。
 日本近代音楽館は音楽評論家・遠山一行氏が遠山音楽財団付属図書館として1962年に開設、1987年に現在の名称となった。日本の作曲家の自筆譜10万点をはじめ、書簡、原稿、プログラム、録音資料など、その資料は全部で50万点にも及ぶという施設だ。このような凄い施設をこれまで一個人の力で、よくここまで続けて来られたものだ、と心から思う。ただ奏楽堂の別館が閉鎖されたあたりから、私も日本近代音楽館の運営について、少なからぬ危惧の念を抱いていた。数年前、国会で公明党の議員が「日本近代音楽館がやっているような事業は、本来国が責任を持って行なうべき性格のものではないか」と質問したこともあり、私はそのような可能性に淡い期待を抱いていたのだが、事ここに至り「ついに、来るべき時が来た」と、万感迫る思いだ。幸い明治学院が引き取り先として決まっているという事だが、果たして今後どのように推移していくのだろうか。
 私が近代音楽館に初めて足を運んだのは、今から10年ほど前のことだ。橋本國彦の「天女と漁夫」という管弦楽作品の演奏用譜面作成を頼まれた事がきっかけでこの作曲家に興味をもち、「何でも東京タワーのすぐそばに、日本の作曲家の自筆譜をいっぱい保管している施設があるそうだ」という事で訪れたのだ。

 そこは私にとり、まさに別世界であった。

これまで日本作曲界を担って来た数多くの作曲家の自筆譜が、マイクロフィルムでいくらでも閲覧出来る。また初演当時の貴重な音源なども、惜し気も無く聴かせてくれる。日本で初めてヴァイオリン協奏曲を書いた呉泰次郎という、聞いた事もない作曲家の「主題と変奏」という管弦楽曲のSPを聴いた時、私は目の前に先人の息吹が大きく拡がるのを感じた。こんな貴重なSPをかけてもらっていいの? 溝が減ってしまうでしょ・・・と心配しながら・・・
 また日本近代音楽館は、申請さえすれば作曲家のご遺族の連絡先を教えてくれ、興味のある作品の自筆譜のコピーも複製してくれた。こうして私は日本近代音楽館で次々に様々な過去の日本の作曲家たちと出会い、またご遺族の許諾を得て、何曲かは演奏のためのパート譜をも作らせていただいた。

 近代音楽館の職員の方々は皆、とても親切だった。
「信時さん」という方がおられたので「ひょっとして?」とお尋ねしたら、案の定「海ゆかば」の信時潔氏のお孫さんであった。(この方には本当にお世話になりました) 運営スタッフの小宮さんは、安部幸明、尾崎宗吉、清瀬保二といった作曲家たちに関する貴重な資料を、何と無料でお送りくださった。また事務局長の林淑姫さんからは、作品の権利関係や手順などについて、時には厳しい示唆もいただいた。本来は国や公共施設が行なうべき事業を、限られた予算 (それでも年間5000万円かかるという) の中で続けて来た日本近代音楽館の苦闘は、おそらく想像を絶するものであったに違いない。

 最近も全国プロ・オーケストラのライブラリアン会議と共同で「日本の管弦楽作品のデータベース作成」に取り組むなど、日本近代音楽館はその使命を果たす努力を続けている。願わくばこうした貴重な事業が明治学院に引き継がれた後も、さらに発展して行く事を私は願って止まない。
 「ありがとう、日本近代音楽館!」・・・・私は警察官が盾を持って常駐するロシア大使館の前を抜け、ひんやりとした同館の玄関を訪ねる時のほのかな緊張感を、永遠に忘れない。  (2009.7.26)



 川島博/弦楽のためのセレナード


 今日ようやく完成しました!! 川島博先生の「弦楽セレナード」の浄書スコア、パート譜を・・・・
この知られざる名曲が今後再演される日が来る事を、願わずにはおれません。
川島博「弦楽セレナード」は今から10数年前 (具体的な資料が手元にない!!) 、名古屋音楽大学作曲科教員演奏会で黒岩英臣氏の指揮、名古屋パストラーレ合奏団の演奏により初演されました。現代風のケッタイな (失礼!!) 曲ばかり続く中、この作品の溢れるばかりのロマンティシズムは、当時の演奏者の心を大いに和ませたのを記憶しています。(「まるで、トトロが出てくるような曲ね」と言ってた楽員がいたけど、言い得て妙だね。)
 その後この曲は平成8年に愛知県芸文センターで、川島氏自身の指揮、名古屋フィルによって再演され、その時はわたくしもオケの一員として演奏に参加しました。譜面は川島先生ご自身による、当時としては最新のコンピュータ譜面で、手書きにある程度の自信を持っていた私は「何でパソコンなんかで譜面を作るんだ!!」と、大いに反感を持ったものです。それが今じゃ・・・ね。
 この曲がまた、ホントいい曲なんですわーーーもうロマンティックの極みというか、ちょっと女々しくて、クッサいくらいリリシズムが溢れてて・・・あー、たまらん!! ピアノ協奏曲ではバルトーク的な作風を見せた、同じ作曲家の作品とは信じられないっ。
 以後私はこの曲がとても気に入り、ある日、パストラーレの録音を何とナクソスの日本代理店に送った事があるのです。すると「ナクソス社長のクラウス・ハイマンがその録音を聴いて、「素晴らしい曲だ!!」と言っている」という連絡が来るじゃないですか。嬉しかったなあ!! その後ナクソスでこの作品を中心としたCDを出そうかなんて話もあったんだけど、結局ボツになっちゃって・・・世の中なかなか上手く行きません。でも私はこの曲の素晴らしさを、少しでも多くの人々に広めたい、とずっと思っておりました。
 昨年、コンサートのロビーで久しぶりに川島先生にお会いしました。
「あのセレナード、本当に素晴らしい曲です!! 是非僕に浄書譜を作らせて下さい!!」
すぐさま快諾をいただき、それから約1年、なんやかやと忙しい (実は結構ヒマな) 折りに入力をし、ようやく完成させたという訳です。
 このうえは絶対に再演させるぞおっ、そして川島先生には「弦楽セレナード」第2番を書いてもらうんだ!!!! (2009.5.19)


 須賀田礒太郎の「皇軍」


 連休を利用して、奥さんと浜名湖へ一泊旅行に行った。浜松の「楽器博物館」を訪れることが第一目標だったが、今話題の「どこまで乗っても1000円」という高速道路体験をしてみたかった事もある。
 伊勢湾岸道路から高速に入ったのだが、予想通り豊田ジャンクションあたりで渋滞に巻き込まれた。
「この先どうなるんかしらん・・・」
案じてはみたものの、岡崎インターから先はスイスイ走れ、無事浜松西インターに辿り着いた。
インターを出たとたんだ。見覚えのある顔がそこら中に貼られている。おお、城内実さん!!・・・頑張ってるなあ。前回の衆院選で郵政民営化に反対し、小泉陣営から片山さつきという刺客を送られた結果、僅差で涙を呑まれた方だ。 衆院議員当時「たけしのTVタックル」にも何度か出演されたので、ご存知の方も多いのではないか。
 実はその城内氏から昨年、私は突然メールをいただいた。何と、須賀田礒太郎の行進曲「皇軍」のSPを持っておられるという。須賀田の残された音源といえば、数年前に埼玉・彩の国ホールで半世紀振りに再演された「台湾舞曲」だけだと思っていたため、私の喜びは凄まじいものだった。SPは当時のJOCK (現NHK)が放送用に作成したもので、市販品ではないためその制作枚数は十数枚程度だったと推測される。(当時は盤が何度もかけると磨り減って再生不能になるため、複数のディスクが作成された) その貴重な音源が、SP蒐集マニアでもある城内氏のもとに、同好の友人から流れて来たということだっだ。
 城内氏は東大卒業後外務省に入省し、長くドイツの日本大使館に勤められ、現地で本場の演奏も数多く耳にされている。そんな城内氏がこの「皇軍」を初めて聴いた時、「日本にもこんな素晴らしい行進曲があったのか」と感動されたという。そして須賀田礒太郎のことをもっと知るべくネットで検索をし、私のHPに辿り着かれたという事だった。
 氏から送られて来た音源を初めて聴いた時、正直なところ私はあまりピンと来なかった。
ところが、である。何度も何度も繰り替えし聴くうちに「これはただものではないぞ」と思うようになった。そう、オーケストレーションが職人芸の極みで、日本の作曲家の作品によく見られる「懲り過ぎた結果、結局何が言いたいのかサッパリ分からない」類いとは、全く次元が異なっていたのだ。シンプルな響きは強い説得力を持ち、その曲想は明解の極みだ。そして演奏がまた凄い。オケの技術は今日とは全く比較にならないはずなのだが、とにかくその音ひとつひとつに込められたパワーが凄いのだ。私はふと、信時潔の「海道東征」の2種類の録音のことを思い出した。1940年代の初演当時に録音されたレコードと、つい最近オーケストラ・ニッポニカにより奇跡的に再演されたライブ録音を聴き比べ、その内面に込められた「魂力」というか、そういったものがあまりにも違うのに驚いたのである。「音楽に対する心からの共感」が、その演奏の説得力にどれほど大切なものであるか、という事を改めて思い知らされた、貴重な体験であった。
 ところで「皇軍」は、開戦1年前 (昭和15年) の作品とは思えない、優雅な気品を持っている。「軍艦マーチ」や「愛国行進曲」のような勇壮な曲がラヂオから次々と流されていた当時、この「皇軍」は一体どのように国民に受け止められていたのだろう・・・想像するだけでも楽しいではないか。なおSP盤面には演奏/東京交響楽団とだけ記され指揮者の名前が無いが、残されている当時の放送記録から、どうも坂西博信がタクトを取っているようだ。
 今回浜松で城内氏のポスターを何度も見て、私は「よーし、家に帰ったら「皇軍」の演奏用浄書譜を完成させるぞ!」と、改めて自分自身に言い聞かせた。実は最近「皇軍」自筆譜の欠落部分の「譜面起こし」を友人の愛知県立芸大出身の作曲家に依頼し、音符を楽譜作成ソフトにすべて入力し、あとはレイアウトを残すのみ、となっていたのだ。しかし、楽譜を完成しても実際に演奏される当ては全くない・・・この事実が、私の制作意欲を萎えさせ、なかなか完成させられずにいた。今回、浜松で見かけた城内氏のポスターは、そんな私を叱咤激励してくれたのである。氏も間近に迫った衆院選めざして、粉骨砕身頑張っているではないか! (桜井よしこさんや福岡さんなんかも応援に来てくれてるんですね) 私も、自分の出来る事からまず頑張らなくては!! 須賀田礒太郎だって戦後、何も演奏のあてもないのに、ただただひたすら作曲に没頭していた。20歳になるかならないかの頃、結核という当時は不治の病に犯された須賀田は、作曲だけが自らの生きている「証」だったのだ。
 ところで全然違う話になり恐縮だが、いま私の息子は京都の某大学の大学院の博士課程で、「さんすう」の研究に励んでいる。
「そんなに勉強して、将来どうするの?」
ある日息子に、面白半分に聞いたことがある。息子の返事は予想外のものだった。
「世の中の誰もやらない、何の役にも立たない事をひたすら研究して、ある日研究室で朽ち果てているのが発見される、そんな一生を送りたい」
私はいたく感動した。今「皇軍」の演奏譜を作ろう、なんて思っている人物は、おそらく日本中で自分一人しかいないだろう。よーし、息子に負けないように頑張るぞぉーー!! 
そんな訳で今日、晴れて「皇軍」の演奏用浄書フルスコア・パート譜一式が完成致しました。誰か演奏してーーーー!!

(2009.5.6)

 大阪フィル/貴志康一コンサート


 3月31日、一家3人で大阪・シンフォニー・ホールの「貴志康一コンサート」を聴いた。素晴らしい演奏会であった。大阪まで駆け付けた甲斐があった、と今しみじみと感動を新たにしている。特に交響曲「仏陀」では、オーケストラの「底力」を感じる事が出来た。近年、全国のどのオーケストラでもコントラバス・パートに女性の進出が著しいが、大フィルのバス群は今なお奇跡的に全員が男性で、その分厚い響きはまことに素晴らしく、貴志が実際に耳にしたであろう戦前のベルリン・フィルのバスの「風圧」を、見事に体現していた。また冒頭のピアニッシモのトレモロやホルンのリズムに、これまで感じた事がなかった貴志康一とブルックナーとの相似性を発見し、思わず胸が熱くなった。これはやはり朝比奈隆のオーケストラだからこそ、気付く事が出来たのだと思う。
 当初7楽章で書かれる予定だったこの作品の続きを永遠に聴く事が出来ない悲しさを、今回も私は痛いほど感じさせられたが、実はその思いは、ブルックナーの第九のアダージョを聴き終えた後の思いとまったく同じなのだ、という事を教えてもらった事が、今回のコンサートでの私の最大の喜びであった。
 昨年9月、甲南学園の貴志康一資料室を初めて訪れた際、「仏陀」をはじめほとんどの管弦楽作品の演奏用楽譜が決して十全とは言えない実情に私は驚いた。貴志の音楽がこれほど認知され、研究者も数多く出ているのにも拘わらず、そのスコア・パート譜は到底今日の演奏現場での使用に耐え得るものではなかったのだ。貴志の音楽が今後もっといろいろな場で広く演奏されて行くためにも、その早急な整備が求められる。
 ところで当日の指揮をとった小松一彦氏がプレトークで、「都響で初めて貴志康一のCDを出してから、もう15年も経ってしまいました」と語っておられたが、その当時の事を私は今も鮮やかに覚えている。直ちにそのCDを購入し、名フィル演奏会のゲネプロ前、池下の厚生年金会館駐車場の車の中で胸弾ませて聴いたこと、そしてその直後、小松氏が大府市のコンサートのために名古屋フィルに来演された際、「先生、貴志のCD買いましたよ」と話しかけたところとても喜ばれ、そばにいた事務局の人に「ねえねえ君、貴志康一って作曲家知ってる? 僕こないだそのCDを出したんだけどさ、この人ね、そのCDを買ってくれたんだって!」と、本当に嬉しそうに話しかけておられたこと、などなど・・・。その後私は、小松氏と神奈川フィルの須賀田礒太郎コンサートや名古屋での高田三郎コンサートなどでご一緒させていただくことになるのだが、縁というものは本当に奇なものだ。ひょっとしたら数多くの戦前の作曲家たちが私を導いてくれているのでは、と思う事さえある。これもきっと音楽の持つ力なのだろう。
 最後に、今回貴志康一コンサートを実現された大阪フィルに、心より謝意を表したい。日本の作曲家の作品を取り上げる事はいろいろ困難も多いと思うが、それを乗り越え、今後もぜひ斬新な企画を検討されんことを心より願うものである。なお奇しくもこのコンサートは、朝比奈隆の懐刀であった小野寺昭爾事務局長の退任の日でもあった。氏は今後しばらくは大フィル事務局に留まり、これまでの資料の整理作業に取り組まれるという。最近その第1弾である小冊子「朝比奈隆 オペラ指揮記録」を拝読したが、まことに興味深いものであった。
小野寺氏の今後のご活躍を、心からお祈りしたい。 (2009.5.3)


 高田三郎「山形民謡によるバラード」の弦楽四重奏版


 「水のいのち」の高田三郎氏が東京音楽学校時代に書いた「山形民謡によるバラード」は、知る人ぞ知る名曲だ。この作品が同音楽学校のオーケストラで初演された時高田氏は、「やっと自分自身に巡り会う事が出来た」と涙されたという。また「こんな美しい作品を書く人なら・・・」と留奈子夫人が結婚を決意されたという素敵なエピソードを持つ。
 最近この名曲があまり実演で取り上げられなくなっている事が残念だが、是非この叙情味あふれる名曲を一人でも多くの方に知っていただきたいと思う。
 その「山形民謡によるバラード」に、作曲者自身が編曲した弦楽四重奏版があることをご存知だろうか。(第1曲には弦楽合奏版も残されている) 私はこのたび、高田三郎氏奥様の留奈子様のお許しを得て、この弦楽四重奏版の浄書譜を完成した。今後是非いろいろな方にこの譜面を使って演奏していただくことを心より希望している。
 なお譜面は留奈子様のご意向で当面、レンタルでご要望に対応させていただく予定である。 (2008.5.25)


 尾高尚忠の交響曲第1番/新発見の第2楽章を聴いて


 まったく偶然につけたテレビのN響アワーで、これまで第1楽章のみと思われていた尾高尚忠 (1911〜51) の「交響曲第1番」(1948)の、新たに発見されたという第2楽章を放送しているのを見かけました。そしていろいろ感じ、考えました。(指揮/外山雄三,2006.9.2)
 その響きを聴いてまず感じたのは、日本の作曲家の作品とは思えない、美しく洗練されたオーケストレーションでした。
響きはあくまで清澄でロマンティック。私は一瞬、ワーグナーの「トリスタン」を連想させられました。でも何かが違うのです。そう、ワーグナーの音楽から「コレステロール」を抜き取り、「お茶漬け」にしたかのような趣き。これが私たち日本人が持っている根源的な感性なのでしょうか。
 山田和男の「交響的木曾」や、橋本國彦の「交響曲第1番」を聴いた時にも感じたのですが、尾高尚忠は早くから山田や橋本と同様、日響(現N響)を何度も指揮した経験から、オーケストラの楽器の用法について、同時代の作曲家より一歩抜きん出ていたように思われます。なお番組で紹介していた自筆譜は、まるで浄書屋が書いたかのように美しく、私は是非実物を見たい思いで一杯になりました。
 尾高はその短い生涯 (39歳!! )の中で、名作「フルート小協奏曲」(1948) をはじめ、日本組曲「子供の生活より」(1936)、狂詩曲 、小交響曲 、交響詩「芦屋乙女」(いずれも1937)、交響的幻想曲「草原」(1944)など、20曲にも及ぶ管弦楽作品を残しています。今回新発見の交響曲第1番の第2楽章を聴いて、尾高の他の管弦楽作品も是非一度聴いてみたい、という思いを強くしました。また、この「日本の作曲家」のコーナーでも是非近い将来尾高について研究し、取り上げさせていただきたいと思っています。
 なお尾高尚忠の2人のご子息 (惇忠氏、忠明氏)はそれぞれ作曲家・指揮者として第一線で活躍されています。
そのためか、なかなか父君の楽譜のをじっくり整理をされる時間がないのでは、と想像します。
 だとしたら、まことに残念な事でなのですが・・・。
                                    (2006. 9. 3)