橋本國彦/交響曲第2番のCDを聴いて

                             岡崎 隆  (2011.11)


      (NAXOS 8.572869J) 
      (CD 画像提供/ナクソス・ジャパン)


 2011年11月9日、橋本國彦の「交響曲第2番」 (1947) のCDが、ついに発売された。
さっそく購入し聴いてみた。2月の東京藝大奏楽堂で立ち会わせていただいたレコーディングの情景が、鮮やかに甦って来た。
その時もさすがに上手いオケだと思っが、CDを聴き改めてその腕達者振りに驚いた。イギリスのフィルハーモニア管弦楽団を想起させるアンサンブルの粒立ち・音色の良さ、各パートの均一性。木管や弦のソロも申し分ない。何より演奏から同じ日本の、いや母校の先輩に対する敬意のようなものが感じられるのが快い。
限られた時間の中でこれだけの水準の録音を産み出せたのは、オケの実力もさる事ながら指揮の湯浅卓雄氏の手腕に依るところも大きいと思う。
私は橋本國彦が指揮したベートーヴェンの第九交響曲・第4楽章のレコードを持っているが、几帳面そのものの演奏だった。日本人固有の几帳面さはクラシック音楽演奏の場合、時として音楽を面白くないものにしてしまう場合も多いが、今回のCD演奏にはそれがない。橋本も雲上で、さぞや喜んでいるに違いない。
「そうか ! 録音に使用された楽譜がとても見やすかったから、こんないい演奏が出来たんだ ! 」と、私は勝手に一人悦に入っている。
(何を隠そう、この交響曲第2番の録音で使用されたスコア・パート譜は、すべて私が一人で作ったのです・・・) 
 なお「藝大のオーケストラ」ということで、学生によるオーケストラではないかという推測がネットを中心に駆け巡っているが、「藝大フィルハーモニア」は「管弦楽研究部」に所属する、学生オーケストラとは異なるれっきとしたプロ集団であることを、ここに書き添えておく。

 今回のCDはこれまでの「日本作曲家選輯」とは異なり、制作は全て東京藝術大学が中心となっており、平成23年度文化庁芸術祭にも参加している。片山杜秀氏の名調子が読めなくなったのは残念だが、藝大教育研究助手の三枝まりさんによる曲目解説 (分析?) は、たいそう誠実なものだ。
昭和22年に初演されて以後、一度も日の目を見る事がなかったこの「交響曲第2番」。まさかこのような形で日の目を見る事になろうとは、正直予想だにしていなかった。
「国彦先生・・・本当に長かったですね」
私は嬉しい気持と共に今から10年以上も前、この忘れ去られていた交響曲と初めて出会った日の事を、いま懐かしく思い出す。

 NAXOSへファンレターを送ったことから知遇を得た当時の日本代理店・IVYの社長・西崎敦さんに頼まれ、「天女と漁夫」の浄書譜を作らせていただいたことから、私は橋本國彦という作曲家に興味を持つようになった。他の作品も知りたくなった。人づてに「東京・芝にある日本近代音楽館という所に行けば、日本のいろいろな作曲家の楽譜を見せてもらえる」と聞き、私はさっそく上京した。
「感傷的諧謔」(1928)、弦楽合奏曲「特徴ある3つの舞曲」 (1927) など初期の作品、そしてこの「交響曲第2番」のスコアを初めて見せていただいた時の感動を、今も忘れる事ができない。 橋本の「交響曲第1番」のことは前から知っていた。紀元2600年を記念して書かれ、最終楽章に紀元節の主題が用いられている交響曲だ。NAXOS「日本作曲家選輯」第1巻としてリリースされた時、「世界初録音」と謳われていたが、たしか初演当時の橋本自身が指揮した演奏のSPが出ていたような気がする。(かって名古屋の丸栄のレコード市で見かけ、「買おうかどうしようか」と悩んだ事をよく覚えているから・・・でも、ひょっとしたら私の勘違いかも知れない)
 話が横道にそれてしまった。「交響曲第2番」である。マイクロフィルムからプリントアウトしていただいた自筆スコアは擦り切れ、所々にテープが貼られ、時の流れを感じさせられる古めかしさで、判読が不可能な箇所もあった。
 第1楽章の最終ページを見た時、ハッとさせられた。
「1947年3月4日起稿 - 3月26日脱稿 (Beethovenの命日)」 
当時橋本は「作曲に専念したい」という理由で、長年勤めた東京音楽学校主任教授の職を辞したばかりであった。 (戦時中の経緯もあり、辞めざるを得なかったという説もある)  「交響曲第2番」初演の2年後には胃癌を発病し、この世に別れを告げる事になる。ひょっとしたら橋本は自らの行く末を予感し、このような書込みをしたのではなかろうか・・・そう思った時、私はこの「交響曲第2番」を何が何でも現代に復活させたいと思った。もともと誰も他人がやらない事を一人でコツコツとやるのが性分で、また優れた作品を残しながら、その死後忘れ去られている作曲家を調べる事が大好き、そして本業がオーケストラ奏者にも拘わらず楽譜を作るのが大好きな私は、まるで「蜘蛛の糸」のカンダタの如く、天上から差し伸べられた橋本の糸をしっかりと握りしめたのである。

 近代音楽館で「資料用」としてコピーしていただいたスコア片手に、私はさっそく橋本氏のご遺族に「演奏のための浄書譜作成」の申し出をした。言うまでもないが、全てボランティアである。ご遺族の許可をいただき、楽譜作成ソフト・FINALEで音符の入力に取りかかった。全134ページ、演奏時間約35分、3管編成の大曲のパート譜とスコアを、たった一人で作ろうと言うのだ・・・何と無鉄砲な話であろう。当時私は名古屋フィルハーモニー交響楽団のコントラバス奏者という本職があった。多忙な演奏活動の合間に、よくこのような作業ができたものだ、と今改めて思う。楽譜作成の作業は、演奏とは違った形の音楽に接する喜びを与えてくれたし、普段自国の作品など全く取り上げようとしない日本のオーケストラ界の実情に対する苛立ちもあった。

 そんなこんなで半年もした頃だろうか、ようやく全曲の音符入力が終り、MIDIでプレイバックをしてみた。
結果は・・・正直なところ、あまりいい曲には聴こえなかった。ショックだった。一体自分は何のために人生の貴重な時間を費やしていたのだろう・・・とさえ、一時は思ったのである。
しかし、せっかく全ての音符を入れたのだ。この交響曲は「日本国憲法公布記念」という歴史的な要素を持った作品である。いろいろな人に宣伝したら、ひょっとしたら誰か興味を持ってくれるかも知れない・・そう思った私は以後、名フィルに来演する指揮者という指揮者に、片っ端からこの交響曲のことを宣伝した。

    Qunihiko Hashimoto


 時は無情に流れ、名フィルを定年退職した2年後の初夏のこと。暇を持て余していた私のもとに突然、指揮者の湯浅卓雄さんから電話がかかってきた。あの「交響曲第2番」をNAXOSの「日本作曲家選輯」で取り上げたい、という。しかも東京藝術大学のオーケストラで ! とても嬉しかった。でも作品の事をよく知っている (つもりだった) 私は、正直不安だった。
「ひょっとしたらあれ、あまりいい作品じゃないかも知れませんよ」・・・受話器の向うで困惑する湯浅さんの表情が見えるようだった。
「・・・でも、一度お作りになったスコアを見せていただけませんか?」 
私は真っ青になった。音符こそ全て入力済みとはいうものの、まだスコアとしてレイアウトしていなかったからだ。 実はこれが大変手間のかかる作業なのだ。
「分かりました。浄書したスコアは手許にありますが、録音という事でしたら今一度見直してからお送りしたいと思いますので、少し待っていただけますか」
湯浅さんにはそう答えたものの、浄書スコアはまだ1ページも作られていなかったのだ !
「天下の藝大オケが演奏してくれるのだ。 ヘタなものは渡せない」
翌日から私の悪戦苦闘が始まった。橋本の自筆譜はたいそう美しく書かれているが、コピーでは見辛い部分も多く、ページによっては判読不明なパートすら存在する。しかしそうした部分の多くは、他のパートの音の動きから解決できた。この調子なら夏のうちには湯浅さんにお送り出来るだろう・・・そう思っていたところ、世の中とは皮肉なものだ。暇で仕事が欲しくて仕方なかった私のもとに譜面の作成を始めたとたん、秋以降のオーケストラのエキストラのお話が、まとまって舞い込んで来たのである。
スコアのあとには、パ−ト譜作成も行わねばならない。さて、どうするか・・・。
 重い気持ちでレイアウトを始めた私であったが、作業を進めるうちに、いつの間にか橋本の優れた管弦楽法を実感する楽しみに心奪われていた。

「ごちゃごちゃ書き込まず、オケがバランス良く鳴るように書かれている。こんな職人的なオーケストレーションは日本の作曲家では珍しいな」
「第2楽章の第1変奏、まるでブラームスのハイドン・ヴァリエーションだ」
「おお、コーダはブルックナーぢゃないか ! カンタータ「光華門」と同じ手法だっ」

 こうして8月の終りには何とかレイアウトを終了し、ファイルを藝大の方へ送る事ができた。
その後、私はエキストラで参加させていただいた演奏旅行にもパソコンを携行し、ホテルなどで時間がある時にパート譜の作成作業を進めた。
遂に完成したパート譜を抱え、私はただちに東京藝大へと向かった。上野駅を降り文化会館の横を通り過ぎ、並木の下をひたすら歩いて行く。
今から70年前、まだ音楽学校の学生だった高田三郎も、きっとこの同じ道を「山形民謡によるバラード」の譜面を抱えながら歩いたのだろうな、などと考えているうちに藝大に着いた。湯浅さんは私をとても暖かく迎えてくださった。
「岡崎さん、大丈夫です。あの交響曲、なかなかのものですよ」
実はレイアウトの過程で私も感じていたのだが、この「交響曲第2番」、橋本の名に恥じない作品だと思うようになっていた。
「すごく見やすいパート譜ですね、音符が濡れるようにきれいだ」
湯浅さんは人を喜ばせるのがとても上手だ。私もついつい長いこと話し込んでしまった。
しかしその後、私が作った譜面について湯浅さんから何度も疑問点や間違いの指摘をメールで受け、そのたびに私は平謝りすることとなる。
こうして2011年2月10日、待望のレコーディングを迎える事となった。

 厚手のコートをまとい、楽器を抱えた人々が次々と藝大奏楽堂に集まって来た。私は旧奏楽堂しか知らなかったが、新しい奏楽堂もたいそう音響が良さそうだ。
湯浅さんはタクトを持たず、本当に自然な指揮スタイル。
 第1楽章冒頭、いきなり憧れに満ちた主題でこの交響曲は始まる。何と美しいテーマ、そしてハーモニーだろう。
続いて16分音符のリズミカルな要素を含む主題と聴音の課題のような不思議な音型の主題が続き、167小節に至りヴァイオリンに得も言われぬ美しいメロディが現れる。
カリンニコフの交響曲第1番第1楽章の第2主題を想起させる、ふるい着きたくなるような魅力的なテーマだ。曲はこれら4つの主題を有機的に絡ませながら進行する。中間部の2つの主題がいま一つ魅力的なものだったら、と惜しい気もするが、聴きごたえのある音楽だ。
 第2楽章は主題とヴァリエーション、そしてスケルツォとコーダだ。CD解説で三枝さんが書かれているように、この第2楽章は通常の古典・ロマン派交響曲の第2,3,4 楽章の要素を持っている、と捉えることも出来よう。ただそう考えるには、第3楽章にあたるスケルツォ (242〜326小節)と、第4楽章にあたるコーダ (327〜374小節) がいかにも短い。
冒頭の主題は「勇者の入場」的な雰囲気を持っており、例えが適切ではないかも知れないが「ドラクエ」などのゲーム音楽にもそのまま使えそうな、たいそう分かりやすいものだ。このテーマが6つのヴァリエーションとして展開して行くのだが、ここに橋本の管弦楽技法の見事さを存分に楽しむことができる。第1変奏など、ブラームスの「ハイドン変奏曲」を聴くようだ。続くスケルツォが約80小節と短く盛り上がりが足らないまま、いきなり華やかな鐘を交えたコーダに入るのが、やや唐突に感じられる。「まだそこまでこちらの気分は盛り上がっていないのに・・・」という思いにさせられるのだ。「新憲法公布」を素直に祝うには、日本人の覚悟が未だ十分に固まりきっていなかった、という事なのだろうか。ただその後に続く終結部 (361小節〜) は素晴らしい。弦のトレモロに乗ってホルンとクラリネットがスケルツォの主題を荘重に奏でるさまは、まるでブルックナーの交響曲の終結部を聴くようだ。ただそれも、わりとアッサリと終ってしまう。これも民族性の違いなのか。
 このように部分的にはいろいろ感ずるところはあるものの、そのオーケストレーションは当時の日本の作曲家の中では間違いなくトップレベルであり、オーケストラの好演もあって「交響曲を聴いた」という満足感を十分に得られるCDであることは間違いない。

 ところでレコーディング当日、東京新聞の記者さんが取材に来られていた。「交響曲第2番」の事を、憲法記念日に記事にしてくださる、という。
長く音楽界のみならず母校・藝大でも忘れられて来た橋本について、記者さんはたいそう熱心に取材して下さった。
レコーディングの合間に藝大の食堂で記者さんと昼食をご一緒した時、「岡崎さんの写真を撮らせていただいてもいいですか?」と聞かれた。
何も考えずに応じたのだが、これが後日禍根を残すことになろうとは・・・・・。

 無事に録音も済み名古屋に戻った私は、憲法記念日の東京新聞の記事、そして「交響曲第2番」のリリースを心待ちにしていた。
そこへあの「東日本大震災」が・・・・3月11日を境に、日本中がすべて変わってしまった。
その余波は、震災から2ヶ月近く過ぎた憲法記念日の頃も変わらなかった。
これではとても橋本の記事など掲載されないだろうと予感したが、現実はその通りになった。
記者さんから「こんな時勢なので、まことに残念ではありますが掲載することが出来なくなりました。でも、いつか必ず実現しますから」という連絡があった。
もし録音が震災後に予定されていたら当然中止となり、再開の見込みも立たなかったことだろう。震災で犠牲になられた方の事を思った時、このような言い方は適切でないかも知れないが、2月に収録が済んでいたのは何よりなことであった。

 夏頃だったろうか、大手レコード店のHPに「交響曲第2番」リリースの第一報が掲載された。
同じ頃、湯浅さんから「いろいろありましたが、遂に11月にリリ−ス出来そうです」という連絡が来た。しばらくしてHMVの予約ページに11月9日発売という具体的なクレジットと共に、CDの画像と内容がUPされた。

 「何と高級感溢れる、渋いジャケット! 」

 同ページでこのCDについてのレビューを募集していたので、私は早速書き込みを行った。少々長過ぎるかとも思ったが、無事UPされた。
時を同じくして、東京新聞の記者さんからも「11月3日の文化の日に、例の記事を掲載します」との連絡があった。東京新聞は中日新聞傘下の新聞社なので、名古屋でも中日新聞に掲載していただける、との事だった。
3日の朝、遠足を楽しみにする子供のように早くから目がさめた私は、急いで郵便受けの中日新聞を開いた。
「どこにも記事がない・・・」
そこで東京新聞のWEBページを検索してみた。たいそう素晴らしい内容の記事が目に飛び込んで来た・・・正直、嬉しかった。
その2日後、古巣・名フィルのエキストラとして朝早くから三重県の方に車で向かっていた私の携帯に、家内からメールが届いた。
「中日新聞に記事出てるよ、橋本さんのカッコいい写真のすぐ下に、おとうの変な顔・・・」
私はあわててコンビニに駆け込み、中日新聞を購入した。見て驚いた。何て緊張感のない、不細工な顔 ! 橋本氏のダンディーな写真のすぐ真下では、完敗だった。
オケに行ってから「岡崎さん、新聞出てましたね」と8人に言われた。その後顔を出したアマオケでも5人に同じ事を言われた。本来喜ぶべき事にも拘らず、私はこの日、一日中冴えない思いに包まれた。
 私事を延々と書き並べてしまった。その数日後、東京新聞を記者さんが届けてくれた。社会面トップとして、たいそう大きく取り上げてくださっているのに驚いた。
また、橋本氏の写真が私のより数倍も大きく載っていたので、ちょっと安心した。
湯浅さんからも、CDリリースについて何度もお知らせのメールをいただいた。ある時には朝の4時にメールが届きピックリ、これはきっとヨーロッパの方でも行っておられるのだろうと想像していたら、案の定デンマークからのメールであった。はるか離れた地から気配りのこもったメールを届けて下さった湯浅さんに、そっと私は心の中で頭を下げた。
 今はこのCDが一人でも多くの方々のお耳に、そしてお心に届く事を願うばかりだ。
またこのCDを聴かれたご感想、そしてもし演奏してみたいと思ってくださる方がいたら、是非私の方に連絡 (pasAma.medias.ne.jp /「A」をアットマークに変えて下さい。) をください。

      
                 (2011.11.12   岡崎 隆)