メンゲルベルクのページ
最近さまざまなレーベルから、メンゲルベルクの未発表録音が次々とリリースされている。
彼のファンの方ならば、もうすでにご承知の事ばかりであると思うが、以下にまとめて御紹介したい。
「メンゲルベルク/未発表録音集(1)」
ベートーヴェン/交響曲第2番 (1943.3.21)
ベートーヴェン/交響曲第3番「英雄」(1942? 3.5)
ベートーヴェン/交響曲第8番 (1943.5.13)
ブラームス/交響曲第1番 (1943.4.13)
最近仏TAHRAより発売された、メンゲルベルクの未発売録音ばかりを集めた3枚組のCD
(TAH-391〜3)。管一氏のディスコグラフィーによってその録音の存在は知られていたものの、これまで耳にすることが出来なかったものばかりで、ファンにとっては待望のリリースである。
なお近く続編 (TAH-401〜2) が発売される予定で、そのブックレットは先頃相次いで発売されたフルトヴェングラー、チェリビダッケと同様の縦長のもので、メンゲルベルク唯一のカラー写真
(おそらく追放にあい、スイスの別荘に隠遁を余儀無くされた晩年のものと思われる)が添付されるということである。
メンゲルベルク/放送録音集
ベイヌムの未発表放送録音のセット物で大きな話題を呼んだ「Q DISC」というオランダのレーベルが、このたびついにメンゲルベルクの10枚組みのセットを発売してくれた。
このセットの素晴らしいところは、彼の指揮姿を納めたDVDが添付されていることであろう。
画質は当時としてはまことに素晴らしいもので、これまで断片的にしか知られていなかった彼の指揮姿が堪能できる。
曲目の内容は、かってワルター協会盤 (カーテンコール/cc-234)や、英ARCHIVE-DOCUMENTで初めて紹介されたものとそのほとんどが重複するが、特筆したいのはベートーヴェンの「皇帝」(P:
デ・クロート/1942.5.9)である。これまでこの録音は原盤劣化のため、今日ではその一部しか残されていないとされていた。(以前出たプライベート盤も、途中までしか収録されていなかった)
しかし、今回のこのCDではその全曲がちゃんとした形で収録されていたのは、大変有り難かった。
「AUDIOPHILE CLASSICS」
♪ ベ−ト−ヴェン/交響曲第1番 (1940.10.27)、交響曲第3番「英雄」(1942.3.5)
(APL 101540)
第1番はその日付けから、当初未発売録音のものと思われた。(「レコード芸術」に連載された管一氏のディスコグラフィーにもこの日の録音が残されていることが書かれている。) しかし「クラシック・プレス」第7号の平林直哉氏にによれば、この「第1」はPHILIPS盤でおなじみの4月18日録音のものとまったく同じものだということである。今回私も両者を聴き比べてみたが、冒頭の木管のアコードの背後にかすかに聞こえる聴衆の咳が全く同一であった。第3番は最近発売されたTAHRA盤
(上記紹介分)と同じ演奏で、メンゲルベルク最後の「エロイカ」録音。録音状態は「第1」に比べ、かなり落ちる。
♪ オランダの現代作曲家の作品集 (メンゲルベルク、PUPER、ヴァレリウス、ドッパー、レントゲン、アンドリーセン、ワーゲナール)
(1924〜1940) (APL 101541)
個々の曲目が明らかにされていないため詳細は不明だが、かつて日TELEFUNKENから発売された「オランダ音楽コンサート」と題されたCD(K30Y256)
と同内容と推察される。しかし、未発表録音が含まれる可能性も否定できない。
♪ ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番 (1940.10.31)、トラップ/ピアノ協奏曲
(1935.10.24)、ベートーヴェン/「エグモント」序曲 (1943.4.29)
ギーゼキング(P) (APL 101542)
トラップのピアノ協奏曲が未発表の録音。録音状態も良く、若き日のギーゼキングのテクニシャン振りが十二分に堪能出来る。しかし曲自体はあまりインパクトがない。
ラフマニノフはよく知られたもの。「エグモント」はワルター協会原盤として初登場後、広く流布した録音である。
♪ ラヴェル/「ダフニスとクロエ」第2組曲 (1938.10.6)、コダイ/「孔雀」による変奏曲
(1939.11.23)、ドビュッシー/ピアノと管弦楽の幻想曲 (1938.10.6)
ギーゼキング (P) (APL 101549)
すべて既発売済みの録音だが、現在入手困難なものばかりである。
♪ 「オペラアリア (蝶々夫人、オベロン他)、歌曲、宗教曲集」(1936〜43)
蘇る伝説の巨匠
ウィレム・メンゲルベルク
1
「彼のヴァイタリティ、オーケストラ養成についての知識、霊感あふれる情熱、それらは
独自の高みに達していた。音楽の分野において、これほどの巨人は稀である」
( レオポルド・ストコフスキー )
マグマの底から全人類の祈りが、絶望的な悲しみを超えて沸き上がって来るかのような、壮絶を極める曲冒頭の合唱の渦・・・・そして第四十七曲。エヴァンゲリストの悲痛な訴えに続き、静やかに奏されるヴァイオリン・ソロの、何と優しく、また哀しいことだろう。よく耳を澄ますと、聴衆の嗚咽すら聞こえて来る。音楽というのはこれ程までに、人の心に訴えかける力を持っていたのか!
伝説の指揮者・メンゲルベルクによる、一九三九年四月の棕櫚 (しゅろ ) の日曜日におこなわれた演奏会の実況録音のバッハ「マタイ受難曲」。私はこのレコードを学生時代に初めて耳にした時、ひざがガクガクと震え、わけもなく涙が溢れてきて仕方がなかった。そして、このバッハの音楽、それにこの指揮者の演奏が、これからの自分自身の人生に、決して欠かせないものになるだろうという、確信のようなものを抱いたのである。
早いものだ。あれからもう三十年になる。案の定、バッハの音楽は私の心の糧として今も大活躍してくれているし、一方、指揮者メンゲルベルクに対する愛着の念も、日増しに強まるばかりだ。
ヴィレム・メンゲルベルクは、一八七一年に生まれ、一九五一年に没したオランダの名指揮者である。彼は一八九五年、わずか二十四歳の若さで名門アムステルダム・コンツェルトゲボウ管弦楽団
(現・ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 )の第二代常任指揮者となり、一九四五年第二次世界大戦の終結と共に、ナチス・ドイツに協力したかどで、その地位を追われるまで、実に五十年の長きにわたって、このオーケストラを世界一流のアンサンブルに鍛え上げた。
彼と同世代の指揮者フルトヴェングラー、トスカニーニらが戦後も活躍し、急速に発達した録音技術によって、現在でもかなり明晰な音質でその芸術が堪能出来、現在でも多くのファンを持っているのに対し、メンゲルベルクは先に述べたたように、その活動時期が第二次世界大戦集結までのSPの全盛期に限られているため、残された録音の音質面でのハンディは覆うべくもない。
メンゲルベルクの名は戦後の一時期、我が国はおろか本国オランダでさえも、急速に忘れ去られていった。フルトヴェングラー、トスカニーニ亡きあとも、ワルター、クレンペラーら後期ロマン派スタイルの指揮者がステレオ期まで生き延びて活躍し、その後はカラヤン、バーンスタインといった時代の寵児ともいうべきスターたちの活躍が、クラッシック界の話題の中心となった。一方メンゲルベルクの録音はまったくの過去のものとして、まるで「なつかしのメロディ」のごとくに、時折思い出したように断片的に発売されるのみだったのである。
ところが一九八〇年代以降、レコードがCDに取って変わってから、状況は一変する。スターの時代は終わり、指揮者の名前だけではCDが売れない時代になったのだ。世界的にオーケストラの演奏技術や指揮者の棒振りのテクニックは高まった反面、強烈な個性を発散する指揮者は影をひそめ、またオーケストラのカラーもは世界的に均一化の傾向を見せるに至り、それに飽き足らない現代の多くのファンたちは、いきおい過去の巨匠たちの録音を求めるようになって来た。
また、レコード時代とは比べ物にならない位の低コストで制作できるCDというメディアが普及したことにより、従来はメジャーのレコード会社主流で、スタンダードなレパートリーしか流通し得なかったレコード市場に、個性的な企画を売り物とするマイナー・レーベルが数多く参入するようになった。そして最新のデジタル・リマスタリング技術により、古い録音でもノイズを軽減するなどして、比較的良好な音質で過去の巨匠たちの演奏を楽しめるようになって来たのである。
このような状況の変化により、メンゲルベルクの録音も見違えるような良い音質で続々と復刻され、これまでの単なる「なつメロ」としてではなく、現代人にとってまったく新鮮なスタイルの演奏として、抵抗なく受け入れられつつある。
一時期、時代に迎合することが得意な一部評論家たちから、メンゲルベルクの演奏が「十九世紀の遺物」「時代遅れのロマンティシズム」と決め付けられていたのが、いかに誤りであったかということが、多くのファンに認識される日も近いのではないだろうか。なぜならばたとえ時代は変遷しても、人間の「感動する心」は、いつまでも不変なのだから。
では次に、メンゲルベルクの芸術に具体的に触れてみることとしよう。
2
メンゲルベルクの使用したフル・スコアの写真を見ると、実に様々な書き込みがなされているのに、まず驚かされる。彼は演奏に先だって事前に徹底的にスコアを研究し、テンポ、強弱・バランス、アーティキレーション等すべてにわたって、念入りにスコアに書き込んだ。また必要と思われる場合は、オーケストレーションの改変も積極的に行なっている。そしてそれをオーケストラの各パートに伝達し、厳しいパート練習をへて、初めてオーケストラ全体の練習を行なった。オーケストラ練習の際でも、メンゲルベルクはその曲の解釈について、楽員たちに長々と講釈をするのが常だったという。
また、練習前のチューニング ( 音合わせ )も非常に厳しく、チューニングだけでリハーサルが終了してしまったというのも、有名なエピソードである。
メンゲルベルクのこうした演奏に対する姿勢から伺われるのは、その徹底した職人気質である。例えばフルトヴェングラーは、聴衆を前にした演奏会における「即興性」を重視した指揮者だった。そのため、指揮者・オーケストラ・聴衆の三者が一体化した時には、素晴しい名演となるが、反面出来不出来も多い。それに比してメンゲルベルクの場合はたとえ何百回演奏しても、その演奏レベルは常に全く同じであった。かといって「作り物」くささは微塵もなく、実際に聴いた人々の証言によると「たった今生まれて来たばかりのような、霊感に満ちた演奏だった」という。徹底的に事前の作業をやり尽くし、しかも本番の時に、そのことをすこしも聴衆に感じ取らせない。職人冥利につきるというのは、こうした演奏のことを言うのだろう。
こうした彼の演奏の特質は、名盤の誉れ高いチャイコフスキーの「悲愴交響曲」(
一九三七年十二月二十一日録音/テレフンケン原盤 )を聴くと一目瞭然だ。自由自在なテンポの変化、まるで一人で奏いているかのようなヴァイオリンの甘美な音色、録音年月を思わず忘れてしまいそうになる絶妙なバランスなど、一流レストランのシェフの味にも通ずる、まさに職人芸の極致である。
ところでメンゲルベルクの演奏を語る上で、よく取り上げられるのが弦楽器のポルタメント奏法
( 音をずり上げ・下げする奏法 ) である。メンゲルベルクの演奏を「時代遅れ」呼ばわりする人々の多くが真っ先に問題にするのが、このポルタメント奏法であるが、実は今世紀半ば頃までは、この奏法は弦楽器奏者にとっては全く自然で、当り前のものだった。それが今世紀の中頃から、次第に新古典主義的・即物主義的音楽感が演奏スタイルの主流を占めるようになり、ポルタメント奏法は「時代おくれ」の烙印を押され、次第に姿を消して行くこととなる。
しかしながら、後期ロマン派の音楽を語る上で、このポルタメント奏法は決して無視することは出来ないのである。たとえば後期ロマン派の偉大なシンフォニスト、グスタフ・マーラー
( 1860〜1911 ) の交響曲のフル・スコアには、このポルタメント奏法をわざわざ指定してあるところが何箇所もある。
メンゲルベルクによるマーラーの交響曲の録音は、第四番のライブ録音 (1939年11月9日
) と、第五番の有名なアダージェット (1926年5月 ) のみであるが、特に後者など、むせび泣くようなポルタメントが、この音楽の本質を語るうえに、いかに欠かせないものであるか、ということを実感させる貴重な証拠である。
マーラー自身も、彼の交響曲の演奏では今日一般に最も評価の高い直弟子のワルターよりも、メンゲルベルクの演奏の方をより高く評価していたと伝えられている。そのことは、マーラーがのちに「第五」「第八」の二曲をメンゲルベルクに献呈したことからも充分に伺い知ることが出来るし、メンゲルベルクもそれに対して、マーラーの交響曲・全曲演奏シリーズという史上初の取り組みで答えた。
また、ノルウェーの生んだ大作曲家エドゥアルト・グリーク (1843〜1907 ) は、メンゲルベルクが指揮するコンツェルトゲボウ管弦楽団の演奏を聴き、感動のあまり椅子の上に立ち上がり、その指揮ぶりを絶賛して、「諸君、我々はこのような芸術家の存在を誇りに思うべきである」と演説したと伝えられている。
メンゲルベルクはグリークの作品では「ペール・ギュント」の第一組曲 ( 1943年4月15日
) と、「二つの悲しき旋律」( 1931年6月3日 ) の二つの録音を残しているが、特に後者では、甘くやるせないポルタメントにより、過ぎ去った春の日々と自らの青春の日々とを重ね合わせて涙するグリークの心が、切々と聴き手に伝わってくる、まことに素晴しい演奏である。近年この曲は、特に第一曲目の「胸の傷み」など、やたら深刻ぶった「北風」のような演奏が蔓延しているが、グリークが真に望んでいたのは、メンゲルベルクのように心の底から優しく暖めてくれる「太陽」のような演奏だったのだ。
今日、特にバロック音楽の世界ではオリジナル楽器で演奏される事が当り前のようになり、楽曲が作曲された当時の演奏スタイルについて、実に様々な研究がなされている。しかし反面、今まで取り上げてきたマーラーやグリークなど後期ロマン派時代の音楽については、それが今日でも広い人気を持ち数多く演奏されているにも拘わらず、ポルタメント奏法をはじめとする作曲当時の演奏スタイルが、現在まったくと言ってよいほど顧みられていないのは、私にはとても不思議な気がするし、また残念である。なぜならば、マーラーもグリークも彼等が生きていた頃のオーケストラの音
〜 例えばメンゲルベルク指揮するコンツェルトゲボウ管弦楽団のような響き 〜
を念頭において作曲していたはずなのだから。
いまメンゲルベルクの録音が貴重なのは、これまで述べてきたように、「今日ナマの演奏会では絶対に聴くことのできない音と演奏スタイル」を持っているからに他ならない。現代のような音楽状況が、もしこれからも続くとすれば、メンゲルベルクの録音はますます存在価値を持って、その輝きを増すことだろう。
ところで、メンゲルベルクの演奏を語る時、真っ先に述べなければならないのは、冒頭で触れた1939年のバッハの「マタイ受難曲」だが、作家・柳田邦男氏がそのエッセイ集「かけがえのない日々」(
新潮文庫 ) のなかで、メンゲルベルクの「マタイ」について、まことに感動的な文章を記しておられる
ので、機会があれば、ぜひお読みいただきたい。
( なお、このエッセイの一部は「レコード芸術」一九九八年六月号の「マタイ受難曲」特集の中でも紹介された
)
「人類の至宝」とも言うべきメンゲルベルクの貴重な録音の数々が、今後一枚でも多く復刻され、一人でも多くの方々に聴いていただけることを、私は心から願ってやまない。
主要参考文献/
管 一 著・「ウィレム・メンゲルベルク」
ディスコグラフィー
( 音楽の友社刊「レコード芸術」
誌掲載 )
管 一 著・「メンゲルベルクのEMI
録音 (東芝EMI発売/メン
ゲルベルクの芸術CD添付 )
ヴィレム・メンゲルベルク/略歴
〔1871・3・28〕
オランダ・ユトレヒト市に生まれる。
両親共ドイツ人で、先祖はドイツの名家の出。
〔1888〕
ユトレヒト昔楽学校に学び、のちにケル
ン音楽院に入学。同音楽院のピアノ料、指揮科、作曲科をそれぞれ首席で卒業・ケルンのギュルツェニッヒ管弦楽団を指揮して、指揮者としてデビュー。
〔1893〕
八十名の候補者の中から選出されて、ルツェルン市音楽監督に就任。
〔1895・10・24〕
アムステルダム・コンツェルトゲボウ管弦楽団の第二代常任指揮者に就任。グリーク、マーラー、R・シユトラウス、ハンス・リヒターに認められる。
〔1898〕
アムステルダム・トーンキュンスト合唱団指揮者に就任。コンツェルトゲボウを率いて、ロシア、ノルウェー、イタリアに演嚢旅行
〔1899〕
パルム日曜演奏会で、バッハの「マタイ受難曲」を演奏。その後毎年の恒例となる。
〔1903〕
初のオランダ音楽祭開催。
〔1904〕
マーラーをコンツェルトゲボウに招く。
その後マーラーは、メンゲルペルクに「第五」「第八」を献呈した。
〔1905〕
アメリカに渡り、ニューヨーク・フィルを指揮。
〔1922〜1930〕
新編成ニューヨーク・フィルの常任指揮者に就任。
〔1928〕
二ューヨーク・コロンビア大学名誉博士号を受ける。
〔1933)
ユトレヒト大学音楽教授に任命される。
〔1938・1・27〕
ロイヤル・フィル協会の招きにより、ロンドン・フィルを指揮。
〔1945〕
第二次大戦終了後、戦特中に政治的に無知だったメンゲルベルクが、両親や先祖と同国人のドイツ人に協力して、国内及びドイツで指揮を取ったかどで迫放され、スイスに亡命。
〔1951・3・21〕
追放解除の噂がチラホラ聞こえ出した頃、スイスの別荘で淋しくこの世を去る。
( 管 一著・「ウィレム・メンゲルベルク」ディスコグラフィー
〔音楽の友社刊行「レコード芸術」誌〕による )