霞ヶ浦追想    讃井 智恵子



  四月末、霞ヶ浦へいった。かねて一度訪れてみたいと思っていた地であった。予科練のあともさることながら、終戦まぎわ、知人が霞ヶ浦航空隊で殉職したところであった。

 昭和十六年、私は東京音楽学校の選科 (普通、上野の分教場とよばれていた)でピアノを習っていた。
 入学式のとき、黒い詰衿の学生服を着た、作曲科の男の子がいた。童顔の、いやに生っ白いのが印象に残っていた。
 昭和十九年、九州の福岡県、築上郡に疎開した。瀬戸内海に面した穏やかな農村であった。
 家にいると徴用にとられるという話である。近くの築城海軍航空隊で理事生の募集をしていると聞き、徴用にとられるくらいならと、履歴書を書いてだれの紹介もなしに隊にいった。
 もうその年も暮で、予備学生らしい主計見習士官が二人、面接にあたった。
 既に理事生の試験は終ったとのことであったが、どういうわけか採用になった。
 二月ころから、神雷特攻隊などが転戦してきて、にわかに騒然となり、三種軍装に白はちまき、白いマフラー、半長靴、ふき流しなどをなびかせながら闊歩し、練習基地も緊迫した空気がみなぎっていた。
 四月、副官だけ椎田の山深くに疎開した。ある日、帰宅のため、椎田駅のホームにいると、にこやかに近づいてくる見知らぬ士官がいた。
 相手は帽子をとった。額は、はっとするような白さであった。眉から下は黒く、くっきり色分けされた感じである。鬼頭恭一と自己紹介し、入学式の時いっしょだったという。そういえば、こんな人がいたようなという程度の記憶であったが、ともかくその奇遇に驚いた。
 あのあと、本科に入学し、学徒動員で海軍にはいり、空を希望したという。
「同期の團伊玖磨は、陸軍の軍楽隊にはいったが、海の方がなんといってもスマートだから」と、一種軍装が身について満足げであった。
 それから日曜ごとに虎屋の羊かんなどもって朝から訪れた。バッハやベェトーベンなどバリバリ弾く。
 音楽家の常だが、弾き出すと二時間ぐらいとまらない。戦争中の疎開先ではあり、いささか気のひけることであった。が、私も音楽的刺激を受け、作曲など試みるきっかけとなった。
 その当時、五線紙も思うようにない時代である。北九州まで捜し歩き、黄土色のザラ紙同然のをやっと求めた。今、とり出して見ると、まわりはボロボロ欠けているが、インクもあざやかで、じゅうぶん音譜を読みとることができる。戦いにちなんだ詩に作曲したせいか、愁いを含んでもの悲しい。
 戦争と、その人の未来を暗示するかのようだ。
 その人の生家は、名古屋の酒問屋であった。そのころ、商家の男子が音楽を習うということ自体、たいへんなことであったらしい。
 ピアノは姉 (註1) がいたから家にあったそうだが、レッスンに通うのに、二階の裏窓から縄で吊り下ろし、下着に近い格好で家を出、外で着て通い、またなにくわぬ顔で帰り、荷物を二階に吊り上げたそうだ。
 音楽の道に進みたいと決心し父に告げたとき、昔、父が文士になりたかったが実家のことを思い、果たせなかったからとついに許してくれたという。
 選科のころ、満州国奉祝の作品の募集があった。それに入選し、満州国より七宝焼の立派な花瓶が贈られた。
 「ベットに腹ばいになって、角砂糖かじりながら書いた曲がはいって、申し訳ないことしちゃった」
八重歯を見せてすまなそうにいった。それも名古屋の空襲で、生家と共に灰になり、その後行く先々で焼け出され、今は大八車一杯の荷持つしか残っていないということであった。
 六月初め、霞ヶ浦航空隊へ移動の命令が出た。(註2)
 隊からの帰途、椎田駅で別れることにした。小さなひなびた駅で、おたまじゃくしを囲んで話した。
 帰宅しようとすると、突然原語でマダムバタフライの中の「ある晴れた日に」を歌い出した。すき通るようなテナーであった。一点を見つめて、直立不動で歌っている。気はずかしかったが、帰るに帰られず黙って聞いていた。
 七月半ば、「霞空で、練習機に乗っていた鬼頭が、着陸しそこねた銀河のプロペラにはねられ死んだ」(註3)
 ある士官が、こともなげにいった。生と死を貫くシンフォニーを書くといっていたがその暇もなかったのであろう。唐突な死であった。

 青葉のころの霞ヶ浦は、想像以上に美しかった。湖の面にさざ波が立ち、夏雲が悠々と流れていた。こののびやかな自然は、世の移り変わりとかかわりなく永久に続いていくであろう。自然に比べれば、人間の一生など、朝露のようなものかもしれない。
 飛行場のあとの畦道に立ち、遠くに見えるレーダーの動きをしばらくみつめていた。



 (註1) 恭一に姉はおらず、二人の妹がいた。
 (註2) 築城のあと恭一が転任したのは山形県・神町航空隊で、日付は5月21日頃。 霞ヶ浦に移ったのは7月初め。
 (註3) 「プロペラにはねられ死んだ」のではなく、直前を横切った別の訓練機を避けようとし奄体壕に激突した。



  ただ一人の弟子          讃井智恵子



「作曲しても、今は小学校のベビーオルガンをたまに借りるくらいだけど…ピアノも疎開したの?」
「今度の日曜日伺いたい」
 母にも了解を得て次の日曜から…
音楽家にとって、どんなにピアノを弾きたいか言われなくても痛切に分かる。
 時折、レッスンの後、胸のポケットから写真をとり出し、「おデコだけど、可愛いでしょう」といって若い女性の写真をちらと見せては、そそくさとしまわれる天真爛漫なところがあった。
「一寸、見せて」とわたくしは、好奇心も手伝ってその写真をサッとひきぬく。色白の鬼頭さんは、耳たぶまでポッと赤く染めて取り返された。鬼頭さんは先を予見するかのように、音楽生の頃知り合ったその方と早々に結婚されたのだった。(註1)
「今に戦争も終る。それまで生き延びなくっちゃ」

戦争中、こういう言葉は禁句だったが、堂々と言って憚らなかった。そして、生と死をつらぬくシンフォニーを書きたい、というのが鬼頭さんの夢でもあった。私は、目的意識をはっきり持ち、心をこめて作曲に励む先生の、小さな応援団になっていた。身内の人のように頑張れと応援したくなったのを覚えている。
 6月始め、鬼頭さん達は茨城県の霞ヶ浦海軍航空隊に移動することになった (註2)。隊からの帰途、ひなびた小さな駅の待合室で、音楽の楽典の本を囲んで話しながらお別れすることにした。まとまった話をするでもなく、楽譜の音程の隔たりを目で追いかけながら頁をめくっていた。ただ時間だけが静かに過ぎて行くように思われた。かつての音大生が二人そこにいた。構内は、ゲートルをつけたおじさんや、モンペを着たおばさん達であふれていた。が、不思議に海軍士官はいなかった。
 もう帰らねばと思い、立つと、鬼頭さんも立って突然、原語でプッチーニのオペラ「蝶々婦人」の中の「ある晴れた日に」を歌い出した。透き通るようなテナーであった。遠い一点を見つめて、直立不動で歌っている。その声は神々しいまでに澄んで美しかった。まわりの人たちは、一瞬戸惑いを見せたが、海軍の士官さんが歌うておられるけんと、鷹揚に構えてくれていた。私も気恥ずかしかったが、帰るに帰られず黙って俯いて聞いていた。歌が終ったのをきっかけに、私は軽く会釈して下り線のホームの方へと足早に去った。
 7月末、副官部に来た一人の士官が、
「霞空(霞ヶ浦航空隊の略)で、秋水に乗っていた鬼頭が着陸しそこねて死んだ」 (註3)
誰にいうともなく、大きな声で言うとサッと出て行った。何かの間違いではないだろうか。二ヶ月前築城から移動されてすぐ、葉書で丁寧な礼状が届いた。本当にきちんとした方だった。
 後で聞いたことだが、事故当日お父上と、新婚まもない鬼頭夫人と霞ヶ浦航空隊に面会にいかれた。 (註4)
「只今飛行訓練中なので、終了までお待ちいただきたい」とのことで待っていらしたが、次にはいってきたのは殉職との知らせであったという。亡くなられてわずか十七日で戦争が終ったのはなんとも悲痛な思いがする。どんなにか、生きて後世に残る仕事をしたかったであろうのに。
 不肖の弟子は、思い出したようにピアノピースなど書いたりするが、心をうつような曲は未だ無い。作曲と演奏が、一体となるような生命感あふれる曲を書いたら、鬼頭先生はほめてくださるだろうか。
 生きてるのだから、しっかり書きなさいと励ましてくださるような気がする。

(註1)  恭一と写真の女性はこの頃許嫁の関係で、結婚はしていない。
(註2)  築城のあと恭一が転任したのは山形県・神町航空隊で、日付は5月21日頃。 霞ヶ浦に移ったのは7月初め。
(註3)  この当時まだ「秋水」本体は完成しておらず、恭一が滑空訓練をしていたのは訓練機 (九三中練?) だった。
(註4)  恭一の父と恭一の婚約者が霞ヶ浦に面会に行ったのは事故当日ではなく翌日。
    水永浩雄「霞ヶ浦に散った音楽生徒」でも、面会に行ったのは事故当日と誤記している。
    水永の文では「面会に行ったのは恭一の母と妻」と、これまた事実と異なる表記をしている。
    また恭一は、この女性と結婚はしていなかった。

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讃井 智恵子 (1924〜2015)   福岡県門司市生まれ。

   (昭和19年 写真提供/讃井優子)


1941年、東京音楽学校選科入学。翌年退学し帰郷後、昭和20年5月頃築城航空隊に理事生として勤務中に、同航空隊で訓練をしていた音楽学校同期生の鬼頭恭一と奇跡的な再会をし、約1か月の間音楽的な交流を持つ。讃井はこの時の恭一との交流を上記「霞ヶ浦追想」「ただ一人の弟子」で書き残しており、築城時代の鬼頭恭一を知る貴重な資料となっている。

 
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  惜別の譜        代田 良


 昭和二十年八月二十六日のことである。
 すでに十数日前に日本は連合軍に無条件降伏し、勝者である米軍総司令官のダグラス・マッカーサーが、神奈川県の厚木基地へ進駐してくる日が四日後にせまっていた。
 私はこの日郷里信州へ復員するため、茨城県の百里原基地を朝早く出た。
 常磐線で上野へ出て、新宿駅から中央線まわり名古屋行きの列車に乗った。車内は一般の乗客で混み合っていたが、まだ、本格的な復員が始まっていなかったためか、復員軍人はそれほど多くはなかった。
 やっとの思いで列車の一角に席をしめると、前の席に英霊とかかれた、白布につつまれた箱を抱いた一人の娘さんがすわっていた。白い洋服をきた美しい少女のようなひとであった。終戦という思いもよらない事態となった今、戦歿者の遺骨を抱いているこの娘さんに、私はふと八月十五日前の戦争が続いている時とは違った痛ましさを感じた。
 列車が新宿を出てしばらくしてから、私は遠慮がちに「英霊」はどこで亡くなられたのか、彼女にたずねた。
彼女は折り目正しく、
「霞ヶ浦の航空隊でございます」
と答えた。私は敗戦により、こうして生きてかえるうしろめたさに似たものを感じながら、
「やはり、海軍の飛行機乗りであられましたか」
というと、彼女はうなずき、
「学徒出身でございました」
という。私はもしやどこかの航空隊か、基地で一緒だった人ではないかと思って、何期の人かたずねた。彼女は第一期の予備生徒出身だといった。一瞬私は血が逆流するような思いがした。たたみかけるように、
「一期の誰れですか」
と、思わず私の声は大きくなった。
「鬼頭恭一と申します」
 彼女がこたえた。
 彼女の語るところによれば、去る七月二十九日に、霞ヶ浦の航空隊で飛行訓練中、事故で死んだのだという。そして霞空まで遺骨を受取りに行き、いま鬼頭の郷里である名古屋へ帰るところだとのことである。
 私は自分が鬼頭と海軍の同期であり、福岡県の築城航空隊で一緒に訓練をうけ、生活をともにしたことを話した。あまりの知遇に驚きながら彼女に、
「失礼ですが、鬼頭中尉 (註1) の妹さんでしょうか」
とたずねた。彼女は美しい少女のような顔を一瞬紅潮させて、
「鬼頭の妻でございます」
とこたえた。(註2)
 私は自分の耳をうたぐった。そして何ともいえない感動にうたれ絶句した。
 自分と同じ二十二才にちがいない同期の鬼頭恭一に、こんな幼な妻があったのかと、いいしれぬ悲しみを覚えた。
 私が鬼頭恭一を知ったのは、三重空での基礎教程が終って、ともに操縦の練習航空隊である福岡県の築城空へ移ってからのことである。上野の音楽学校 (現東京藝術大学) 作曲科に学び、学業途中で海軍に入った彼は、築城空では音楽学校出身だということで、軍歌演習の指導をも受け持たされていた。築城空での軍歌演習は日曜日の夕方、上陸から隊へ帰ったあと行われるのが常であった。軍歌集を高く揚げて、歌いながら行進する二百数人の同期生の大きな輪の中央に、彼がすっくと立っていた。
「如何に強風」とか「黄海の海戦」とかの海軍特有の軍歌をまず彼が一節づつうたった。同期の総員は恭一が一節をうたうと、それに続けて声をはりあげた。作曲科出身の彼にとっては、この役目は必ずしも嬉しくはなかったと思うが、われわれからみればその時の彼は誠にさっそうとしていた。
 築城空では、私は彼と操縦訓練のペアが違っていたので、特に親しいというほどの仲ではなく、また言葉を交わす機会もあまり多くはなかった。しかし、厳しい訓練にあけくれた飛行時間の合間に、あるいは夜のわずかな休憩時間に、生徒館の一隅で端正な顔をかたむけて、ひとり五線紙にペンを走らせている彼をみることがあった。そんなとき実のところ私は、この激しい訓練の中にあって、なお物に憑かれたように作曲にはげむ彼の姿に、驚きと畏敬にも似たものを感じないわけにはゆかなかった。そして彼が自分とは別の社会の人のようにさえ思えた。

 この年の七月、すでにサイパンは陥落し、戦局はもうどうにもならないところまできていた。十月下旬、レイテ方面に、はじめて神風特別攻撃隊が出撃した。急がなくては、と誰れもが思った。こうした情勢の中にあって、昭和十九年の暮、私たち一期の 予備生徒は、少尉候補生に任官した。
 そして私は艦上爆撃機の操縦の特修科学生として、大分県の宇佐空に移った。機種が違う鬼頭のその後について私は知る由もなかった。
 彼が霞ヶ浦で死んだということ、しかも終戦を旬日にひかえた七月二十九日に事故で死んだとは、容易に信じられなかった。
 彼がB29邀撃用の「局地戦斗機」として、当時試作中であった、日本ではじめてのロケット推進の「秋水」に乗るべく、昭和二十年六月築城から霞空にある三一二空に転勤したこと。そして「秋水」搭乗に備えて霞空で相当の高度から練習機のエンジンをとめ、滑空により着陸する練習をしていて、不慮の死をとげたことを聞いたのは、終戦後十数年たってからのことであった。

 私たちを乗せた中央線の汽車はゆっくり進んだ。車窓から見る甲府盆地や八ヶ岳は、二年前までの学生時代に東京から帰省するときに見た景色と少しも変ることがなかった。「国敗れて山河あり・・・」と、しみじみ感じた。 
 私は鬼頭の遺骨を抱く彼女に、久し振りに会った肉親に対するような思いでいろいろ語り合った。
 やがて私たちは別れる時が来た。私は郷里である飯田へ帰るため、中央線の辰野で飯田線の電車に乗り換えねばならなかった。
 そのまま、中央西線まわりのこの汽車で、名古屋の生家へ還る鬼頭の遺骨や彼女と、私は辰野の駅でひっそり別れた。
 彼女たちを乗せた列車が西の山峡に消えてゆくまで、私はホームに立って見送った。人影のなくなったホームにたたずみ、私は暗然たる思いで、あすからの祖国日本を思い、また彼女のこれからの人生を思った。

 あれから三十年たった。公務員である私は、五十年七月札幌から名古屋に転勤した。赴任の途中、私の乗った羽田へ向う飛行機は茨城県の上空から次第に高度を落とし始めた。機上から霞ヶ浦やそれにつながる利根川が美しく見えた。そしてコバルト色に輝く大平洋も昔のとおりであった。私は鹿島灘に面したかっての百里原の基地と思われるあたりを目で追った。そうだ名古屋へ行ったら鬼頭恭一の墓参りをしなければとふと思った。
 彼の命日には間に合わなかったが、八月下旬の日曜日に、築城でも一緒であった名古屋出身の稲垣弘賢の案内で、同期の者数人と、市内八事霊園の一角にある鬼頭の墓を訪れた。
 墓地は美しい赤松の木にかこまれた丘の上にあった。鬼頭恭一個人の墓碑はなく、「鬼頭家の墓」という墓石が立っていた。名古屋市内の酒問屋の長男に生まれた彼の、音楽学校進学に理解を示してくれた彼の父親や、彼の祖先の墓とともにここに眠っていた。私たちは鬼頭の遺影を墓石の上に飾り焼香した。死者の特権であろうか、一種軍装の彼の遺影は、いつまでも二十二才のままであった。墓には百日紅の紅い花がこぼれ、盛んに法師蝉が鳴いていた。
 それから数日して、稲垣弘賢が鬼頭恭一の実弟哲夫氏を通じて、昭和二十年五月、築城時代に鬼頭が編曲した楽譜を手に入れてくれた。哲夫氏によれば、鬼頭は入選した「満州国奉祝」の作曲をはじめ七、八編の曲を遺しているが、これはそのうちの文字どおり最後の作品である。この作品は、昭和十六年当時、同じ上野の音楽学校で鬼頭と一緒に学んだことがある讃井智恵子という女性の原曲を、鬼頭が編曲した「惜別の譜」である。この讃井さんは、昭和十九年に福岡県築上郡に疎開し、近くの築城航空隊に「理事生」として勤務していた。
 そして鬼頭は偶然の機会から築城でこの女性に再会することになるのである。讃井智恵子さんの随筆「霞ヶ浦追想」に、その時の模様が次のように書かれている。

「四月、副官だけ椎田の山深くに疎開した。ある日、帰宅のため、椎田駅のホームにいると、にこやかに近づいてくる見知らぬ士官がいた。
 相手は帽子をとった。はっとするような白さであった。眉から下は黒く、くっきり色分けされた感じである。鬼頭恭一と自己紹介し、入学式の時いっしょだったという。そういえば、こんな人がいたようなという程度の記憶であったが、ともかくその奇遇に驚いた。」
 その後鬼頭は、日曜日の外出の都度、讃井さんの疎開先を訪れて、音楽を語りピアノを弾いていたそうである。讃井さんは「霞ヶ浦追想」の中で、この頃の様子を、

「音楽家の常だが、弾き出すと二時間ぐらいとまらない。戦争中の疎開先ではあり、いささか気のひけることであった。が、私も音楽的刺激を受け、作曲など試みるきっかけとなった。」

と書いている。
 やがて昭和二十年の六月、鬼頭は霞空にある三一二空へ移ることになる。(註3)

「六月初め、霞ヶ浦航空隊へ移動の命令が出た。
小さなひなびた駅で、おたまじゃくしを囲んで語った。帰宅しようと立つと、突然原語でマダムバタフライの中の「ある晴れた日に」を歌い出した。すき通るようなテナーであった。一点を見つめて、直立不動で歌っている。気はずかしかったが、帰るに帰られず黙って聞いていた。」
(讃井智恵子「霞ヶ浦追想」)

 霞空へ彼が出発する二週間前、讃井さんが小曲をつくり、鬼頭がそれを編曲した。これが「惜別の譜」である。(註4)
 その時期の日本と、彼自身の運命を象徴するかのような、むしろ暗い胸をうつ曲である。

(註1) 恭一は死亡と同時に進級して中尉になっていた。
(註2) 恭一はこの女性と結婚はしていなかった。が、遺骨を胸に「鬼頭の妻」との思いを強くしていたのではないか。
(註3) 恭一が築城から転任したのは5月下旬で、行き先は山形県・神町航空隊。霞ヶ浦航空隊に移ったのは7月初め。
(註4) 「惜別の譜」の譜面には5月17日と記されているので、転任の二週間前ではなく直前に書かれたことになる。  


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代田 良  築城航空隊での鬼頭恭一の同期生。昭和50年当時、愛知県民生部年金課長。
昭和50年9月23日、名古屋で開かれた「鬼頭さんをしのぶ会」では大きな役割を果たした。

※ 現在代田氏の消息をご存知の方を捜しております。
同期生の稲垣弘賢氏とともに、もし情報をお持ちの方は是非ご一報ください。(TEL 090-8458-8521 岡崎)