惜別の譜        代田 良

                         (鬼頭恭一と築城航空隊で同期)


 昭和二十年八月二十六日のことである。
 すでに十数日前に日本は連合軍に無条件降伏し、勝者である米軍総司令官のダグラス・マッカーサーが、神奈川県の厚木基地へ進駐してくる日が四日後にせまっていた。
 私はこの日郷里信州へ復員するため、茨城県の百里原基地を朝早く出た。
 常磐線で上野へ出て、新宿駅から中央線まわり名古屋行きの列車に乗った。車内は一般の乗客で混み合っていたが、まだ、本格的な復員が始まっていなかったためか、復員軍人はそれほど多くはなかった。
 やっとの思いで列車の一角に席をしめると、前の席に英霊とかかれた、白布につつまれた箱を抱いた一人の娘さんがすわっていた。白い洋服をきた美しい少女のようなひとであった。終戦という思いもよらない事態となった今、戦歿者の遺骨を抱いているこの娘さんに、私はふと八月十五日前の戦争が続いている時とは違った痛ましさを感じた。
 列車が新宿を出てしばらくしてから、私は遠慮がちに「英霊」はどこで亡くなられたのか、彼女にたずねた。
彼女は折り目正しく、
「霞ヶ浦の航空隊でございます」
と答えた。私は敗戦により、こうして生きてかえるうしろめたさに似たものを感じながら、
「やはり、海軍の飛行機乗りであられましたか」
というと、彼女はうなずき、
「学徒出身でございました」
という。私ははもしやどこかの航空隊か、基地で一緒だった人ではないかと思って、何期の人かたずねた。彼女は第一期の予備生徒出身だといった。一瞬私は血が逆流するような思いがした。たたみかけるように、
「一期の誰れですか」
と、思わず私の声は大きくなった。
「鬼頭恭一と申します」
 彼女がこたえた。
 彼女の語るところによれば、去る七月二十九日に、霞ヶ浦の航空隊で飛行訓練中、事故で死んだのだという。そして霞空まで遺骨を受取りに行き、いま鬼頭の郷里である名古屋へ帰るところだとのことである。
 私は自分が鬼頭と海軍の同期であり、福岡県の築城航空隊で一緒に訓練をうけ、生活をともにしたことを話した。あまりの知遇に驚きながら彼女に、
「失礼ですが、鬼頭中尉 (彼は死亡と同時に進級して中尉になっていた) の妹さんでしょうか」
とたずねた。彼女は美しい少女のような顔を一瞬紅潮させて、
「鬼頭の妻でございます」
とこたえた。
 私は自分の耳をうたぐった。そして何ともいえない感動にうたれ絶句した。
 自分と同じ二十二才にちがいない同期の鬼頭恭一に、こんな幼な妻があったのかと、いいしれぬ悲しみを覚えた。
 私が鬼頭恭一を知ったのは、三重空での基礎教程が終って、ともに操縦の練習航空隊である福岡県の築城空へ移ってからのことである。上野の音楽学校 (現東京藝術大学) 作曲科に学び、学業途中で海軍に入った彼は、築城空では音楽学校出身だということで、軍歌演習の指導をも受け持たされていた。築城空での軍歌演習は日曜日の夕方、上陸から隊へ帰ったあと行われるのが常であった。軍歌集を高く揚げて、歌いながら行進する二百数人の同期生の大きな輪の中央に、彼がすっくと立っていた。
「如何に強風」とか「黄海の海戦」とかの海軍特有の軍歌をまず彼が一節づつうたった。同期の総員は恭一が一節をうたうと、それに続けて声をはりあげた。作曲科出身の彼にとっては、この役目は必ずしも嬉しくはなかったと思うが、われわれからみればその時の彼は誠にさっそうとしていた。
 築城空では、私は彼と操縦訓練のペアが違っていたので、特に親しいというほどの仲ではなく、また言葉を交わす機会もあまり多くはなかった。しかし、厳しい訓練にあけくれた飛行時間の合間に、あるいは夜のわずかな休憩時間に、生徒館の一隅で端正な顔をかたむけて、ひとり五線紙にペンを走らせている彼をみることがあった。そんなとき実のところ私は、この激しい訓練の中にあって、なお物に憑かれたように作曲にはげむ彼の姿に、驚きと畏敬にも似たものを感じないわけにはゆかなかった。そして彼が自分とは別の社会の人のようにさえ思えた。

 この年の七月、すでにサイパンは陥落し、戦局はもうどうにもならないところまできていた。十月下旬、レイテ方面に、はじめて神風特別攻撃隊が出撃した。急がなくては、と誰れもが思った。こうした情勢の中にあって、昭和十九年の暮、私たち一期の 予備生徒は、少尉候補生に任官した。
 そして私は艦上爆撃機の操縦の特修科学生として、大分県の宇佐空に移った。機種が違う鬼頭のその後について私は知る由もなかった。
 彼が霞ヶ浦で死んだということ、しかも終戦を旬日にひかえた七月二十九日に事故で死んだとは、容易に信じられなかった。
 彼がB29邀撃用の「局地戦斗機」として、当時試作中であった、日本ではじめてのロケット推進の「秋水」に乗るべく、昭和二十年六月築城から霞空にある三一二空に転勤したこと。そして「秋水」搭乗に備えて霞空で相当の高度から練習機のエンジンをとめ、滑空により着陸する練習をしていて、不慮の死をとげたことを聞いたのは、終戦後十数年たってからのことであった。

 私たちを乗せた中央線の汽車はゆっくり進んだ。車窓から見る甲府盆地や八ヶ岳は、二年前までの学生時代に東京から帰省するときに見た景色と少しも変ることがなかった。「国敗れて山河あり・・・」と、しみじみ感じた。 
 私は鬼頭の遺骨を抱く彼女に、久し振りに会った肉親に対するような思いでいろいろ語り合った。
 やがて私たちは別れる時が来た。私は郷里である飯田へ帰るため、中央線の辰野で飯田線の電車に乗り換えねばならなかった。
 そのまま、中央西線まわりのこの汽車で、名古屋の生家へ還る鬼頭の遺骨や彼女と、私は辰野の駅でひっそり別れた。
 彼女たちを乗せた列車が西の山峡に消えてゆくまで、私はホームに立って見送った。人影のなくなったホームにたたずみ、私は暗然たる思いで、あすからの祖国日本を思い、また彼女のこれからの人生を思った。

 あれから三十年たった。公務員である私は、五十年七月札幌から名古屋に転勤した。赴任の途中、私の乗った羽田へ向う飛行機は茨城県の上空から次第に高度を落とし始めた。機上から霞ヶ浦やそれにつながる利根川が美しく見えた。そしてコバルト色に輝く大平洋も昔のとおりであった。私は鹿島灘に面したかっての百里原の基地と思われるあたりを目で追った。そうだ名古屋へ行ったら鬼頭恭一の墓参りをしなければとふと思った。
 彼の命日には間に合わなかったが、八月下旬の日曜日に、築城でも一緒であった名古屋出身の稲垣弘賢の案内で、同期の者数人と、市内八事霊園の一角にある鬼頭の墓を訪れた。
 墓地は美しい赤松の木にかこまれた丘の上にあった。鬼頭恭一個人の墓碑はなく、「鬼頭家の墓」という墓石が立っていた。名古屋市内の酒問屋の長男に生まれた彼の、音楽学校進学に理解を示してくれた彼の父親や、彼の祖先の墓とともにここに眠っていた。私たちは鬼頭の遺影を墓石の上に飾り焼香した。死者の特権であろうか、一種軍装の彼の遺影は、いつまでも二十二才のままであった。墓には百日紅の紅い花がこぼれ、盛んに法師蝉が鳴いていた。
 それから数日して、稲垣弘賢が鬼頭恭一の実弟哲夫氏を通じて、昭和二十年五月、築城時代に鬼頭が編曲した楽譜を手に入れてくれた。哲夫氏によれば、鬼頭は入選した「満州国奉祝」の作曲をはじめ七、八編の曲を遺しているが、これはそのうちの文字どおり最後の作品である。この作品は、昭和十六年当時、同じ上野の音楽学校で鬼頭と一緒に学んだことがある讃井智恵子という女性の原曲を、鬼頭が編曲した「惜別の譜」である。この讃井さんは、昭和十九年に福岡県築上郡に疎開し、近くの築城航空隊に「理事生」として勤務していた。
 そして鬼頭は偶然の機会から築城でこの女性に再会することになるのである。讃井智恵子さんの随筆「霞ヶ浦追想」に、その時の模様が次のように書かれている。

「四月、副官だけ椎田の山深くに疎開した。ある日、帰宅のため、椎田駅のホームにいると、にこやかに近づいてくる見知らぬ士官がいた。
 相手は帽子をとった。はっとするような白さであった。眉から下は黒く、くっきり色分けされた感じである。鬼頭恭一と自己紹介し、入学式の時いっしょだったという。そういえば、こんな人がいたようなという程度の記憶であったが、ともかくその奇遇に驚いた。」
 その後鬼頭は、日曜日の外出の都度、讃井さんの疎開先を訪れて、音楽を語りピアノょ弾いていたそうである。讃井さんは「霞ヶ浦追想」の中で、この頃の様子を、

「音楽家の常だが、弾き出すと二時間ぐらいとまらない。戦争中の疎開先ではあり、いささか気のひけることであった。が、私も音楽的刺激を受け、作曲など試みるきっかけとなった。」

と書いている。
 やがて昭和二十年の六月、鬼頭は霞空にある三一二空へ移ることになる。

「六月初め、霞ヶ浦航空隊へ移動の命令が出た。
小さなひなびた駅で、おたまじゃくしを囲んで語った。帰宅しようと立つと、突然原語でマダムバタフライの中の「ある晴れた日に」を歌い出した。すき通るようなテナーであった。一点を見つめて、直立不動で歌っている。気はずかしかったが、帰るに帰られず黙って聞いていた。」
(讃井智恵子「霞ヶ浦追想」)

 霞空へ彼が出発する二週間前、讃井さんが小曲をつくり、鬼頭がそれを編曲した。これが「惜別の譜」である。
 その時期の日本と、彼自身の運命を象徴するかのような、むしろ暗い胸をうつ曲である。