〜 高田三郎の管弦楽曲 〜


1. 1941年秋/東京・上野 


 上野の杜の紅葉は、いつもの秋と同じように日々その数を増していた。しかしこの年は何かが違っていた。
分厚い紙袋を大事そうに抱えた若者が、落葉をカサカサと踏み締めながら歩いて行く。つばの大きな帽子をかぶり、小奇麗な背広をまとったその若者の傍らを、国民服に巻脚絆の群れが横切る。そう、この場所にも確実に戦争の影は忍び寄っていたのだ。
 1941年 (昭和16年)11月、東京音楽学校奏楽堂。その窓から、緊迫した世相をひととき忘れさせる、オーケストラの優しく美しいメロディーが流れ出て来た。中に目をやると客席には、じっと床に目を落としながら涙を流し続ける、さっきの若者の姿が・・・。
指揮者はタクトを止め、客席に向かって大きな声で叫んだ。
「タカタさん、いかがですか ! 」
若者は何も答えず、首を何度も縦に振るばかりだった。
「素晴らしい出来映えです。よく頑張りましたね・・・」
両手を横に上げ微笑む指揮者に、若者はやがて、はにかんだようなぎこちない笑顔を向けた。

2. 山形民謡によるバラード


 若者の名は高田三郎、28歳。
音楽の志を抱いて故郷・名古屋を後にし上京し早や9年、念願だった東京音楽学校研究科を修了するために作曲した管弦楽曲「山形民謡によるファンタジーと二重フーゲ 」が、作曲・指揮の師・フェルマー指揮する学生オーケストラにより、初めて演奏された瞬間である。
 この時の事を高田は、のちに次のように書いている。

「最初の音が鳴りだした瞬間、目から涙が溢れてきてとまらず、私は最後までうつむいたままきいていた。私が初めて私自身に会う事ができた時だったのだ、と今思うのである」

「山形民謡によるファンタジーと二重フーゲ 」
は11月15日、初演の時を迎える。その客席で、熱心に演奏に耳を傾ける女性がいた。

「なんと美しい作品だろう・・・このような曲を書く人と、もし共に人生を歩めたら、私はどんなに幸福なことだろうか」

 女性の名は森留奈子・22歳。東京音楽学校ピアノ科の卒業演奏会でのバッハのシャコンヌ (ブゾーニ編) 演奏で高い評価を得た、将来を嘱望されるピアニストだった。
2年後、高田と森は結ばれる。時まさに日本は米英との戦争の真っただ中。その宴は簡素なものであったことだろう。
「山形民謡によるファンタジーと二重フーゲ 」は高い評価を受け、翌1942年 (昭和17年) に日本楽譜出版社からスコアが刊行された。これは日本人作曲家としては当時、実に画期的な事であった。
 ある日、銀座の楽譜を扱う店に立ち寄った高田は、ベートーヴェンやモーツァルトなどの大作曲家と同じ書棚に、「山形民謡」の背表紙を見つける。

「これはいかん !!」

というのが、その時の作曲家の思いのすべてであった。「古今の大家のスコアと並んで、私の作品などが」
高田は足早に店のドアに向かった。そして、一刻も早くその場所から離れたいという一心で、どこまでもどこまでも歩き続けたという。作曲家の謙虚さ、誠実さを物語る、美しいエピソードだ。
「山形民謡によるファンタジーと二重フーゲ 」はその後、指揮者・ローゼンシュトックのアドバイスを受けてコーダが追加され、1965年 (昭和40年) に音楽の友社から改訂版のスコアが出版された際に、曲名も「山形民謡によるバラード」と改題された。

3. 作曲家・高田三郎


 高田三郎は1913 (大正2) 年12月18日、名古屋市中区矢場町に生まれた。南久屋尋常小学校を経て愛知県立第一中学校 (現・旭ヶ丘高校)に進学後音楽の道に進む決心をし、1932年 (昭和7年) に上京、武蔵野音楽学校 ( 現・武蔵野音楽大学 ) に入学する。1935年 (昭和10年) に卒業後、ただちに東京音楽学校(現・東京藝術大学) 作曲部に入学し、同校を研究科 (現在の大学院) まで終え、さらに聴講科の指揮部に進み、信時潔、細川碧、片山頻太郎、プリングスハイム、フェルマー、グルリット、ローゼンシュトック、クロイツァーらに師事する。1943年 (昭和18年) 聴講科指揮部を修了後、作曲・指揮活動を本格的に開始した。1948年 (昭和23年) に平尾貴四男、安部幸明、貴島清彦らと作曲グループ「地人会」を結成し、共同で作品発表を行なった。
1954年 (昭和29年)に作曲された弦楽四重奏のための「マリオネット」を境に、高田の創作の中心は声楽作品へと移って行く。
 日本語の美しさを基調とし、誠実な人柄が滲みでる高田の合唱作品は多くの共感と支持を得、その後「水のいのち」をはじめ「心の四季」「わたしの願い」など、全国の合唱団のレパートリーに欠かせない傑作の数々が生まれ、またその晩年にはカトリック音楽の分野でも数多くの作品を遺した。

4. 初期の管弦楽曲


 このように、今日では日本の合唱音楽を代表する作曲家としての評価が定着している高田三郎であるが、冒頭で記したように、その作曲の原点は、「山形民謡によるファンタジーと二重フーゲ 」という管弦楽曲である。

 高田はその創作初期に、次の10曲の管弦楽曲を生み出している。

、 ファンタジーと二重フーゲ (山形民謡による) (1941/1965に改訂し、「山形民謡によるバラード」と改題)
☆ 管弦楽のための組曲 (1941)
、 組曲「季節風」 (1942)
、 ヴァイオリンと管弦楽のための譚詩曲 (1944) 
☆ 交響的楽章「アラマルチア」(1944)
、 間奏曲 (1944)
、 舞踏組曲「新しき泰」 (1945/ 戦後「新しき土と人と」と改題)
、 狂詩曲第1番「木曽節」 (1945)
、 狂詩曲第2番「追分」 (1946) 
☆ 扉 (1946)


(註/自筆譜面の所在 、=確認、☆=未確認  2009.11 現在)

「山形民謡によるファンタジーと二重フーゲ 」と同じ1941年 (昭和16年) に書かれた「管弦楽のための組曲」は4楽章からなり、作曲当時は「幻想組曲」という題名が付けられていた。(演奏時間約20分) ところがこの作品は、1945年 (昭和20年)4月13日、マンフレッド・グルリット指揮する中央交響楽団 (現・東京フィルハーモニー交響楽団) による上演に先立つリハーサル終了直後練習場が空襲にあい、スコア・パート譜とも焼失してしまう。幸いな事に第1楽章のフーガは、直後に作曲された「山形民謡によるファンタジーと二重フーゲ」の後半部分にすでに転用されており、焼失後作曲者は記憶をもとに、2曲を「狂詩曲」として、新たに再編している。
 東京音楽学校在学当時から高田の才能に注目したのが、同校の先輩で当時日本放送協会 (現・NHK) で海外放送音楽プロデューサーをつとめていた沖不可止であった。沖は高田に、放送用の管弦楽曲を次々に依頼する。
 現在その自筆譜のほとんどが、NHKアーカイブスに残されている。
1944年 (昭和19年)、沖は高田に「山形民謡によるファンタジーと二重フーゲ 」の間に、「インテルメッツォ」を挿入することを提案した。「山形民謡によるファンタジーと二重フーゲ 」の素晴らしさを評価しつつも、第1曲の日本情緒あふれる「ファンタジー」のすぐ後にフーガが続く構成に、沖は違和感を感じていたのだ。
 そこで生まれたのが、管弦楽のための「間奏曲」(演奏時間5分) である。しかし「山形民謡によるファンタジーと二重フーゲ 」が後年「山形民謡によるバラード」として改訂された際、高田はこの「間奏曲」を取り入れる事はなかった。
現在この「間奏曲」は、留奈子夫人によって筆写された譜面が、東京・芝の日本近代音楽館に寄託されている。

 1945年 (昭和20年) に入り、高田家は4月、5月と二度の空襲に見舞われた。高田は自らの譜面を常にトランクに詰め、警報が鳴ると直ちに防空壕に放り込んで土をかけ、何と落ちて来た焼夷弾を手づかみで風呂に放り込むなどして、守り通したのである。
 この頃の作品として交響的楽章「アラマルチア」(1944)、「扉」(1946) が伝えられているが、現在譜面の所在は不明である。留奈子夫人によれば高田は80歳の頃それまでの作品のすべてを整理し、遺すべき以外は全て破棄したということで、上記2曲も破棄された可能性が高い。
画家ルオーを連想させるエピソードだが、まことに惜しまれる事である。

5. NHKアーカイブスに残された5作品


 2005年、筆者は高田三郎初期の管弦楽曲の自筆譜が残されているNHKアーカイブスを訪ねた。
 そこはまさに別世界であった。
最適に管理された温度と湿度のもと、望みうる最高の状態で膨大な譜面が保管されていたのである。職員の手によって、古ぼけた手書きの自筆譜が、作曲家自身が作成したと思われるパート譜と共に引き出されて来た時の感動を、今も忘れる事が出来ない。
 アーカイブスで確認された高田の自筆譜は、組曲「季節風」 (1942)、ヴァイオリンと管弦楽のための譚詩曲 (1944)、舞踏組曲「新しき泰 (新しき土と人と)」狂詩曲第1番「木曽節」(1945)、狂詩曲第2番「追分」(1946)の、全5曲であった。
ヴァイオリンと管弦楽のための譚詩曲 以外は、沖不可止の推薦により、海外放送用に委嘱されたものだ。日本放送協会は当時国策に準じ、日本独自の音楽を、積極的に海外向けに放送していた。すべて生放送だったため初演当時の録音等は現在、全く残されていない。そして5曲とも放送初演以後は、ほとんど再演の機会を得ていないと思われた。
 5作品の自筆譜のページを繰るうちに、

「これらの作品を、何とか現代に再演出来ないものだろうか」

という思いが沸き上って来るのを、筆者は抑える事が出来なかった。

 NHKアーカイブスのご好意を得て自筆譜のコピーをとり、さっそく次の日から5曲の演奏用浄書譜の作成に取りかかった。作業には最新楽譜作成ソフト・FINALEを使用した。当初1年程度で完成する目算であったが、思いのほか作業は困難を極めた。演奏者の信頼に足る浄書譜を作成するためには作曲者の管弦楽法をより理解し、その意図を漏らすところないよう全て譜面に込めなければならないからだ。
 2009年 (平成21年) 6月、ようやく5曲の浄書フルスコア・パート譜が完成した。
浄書譜は現在、静かにその再演の時を待っている。

6. それぞれの作品について

組曲「季節風」 (1942) 

 (1.「春/野辺を吹く風」 2.「夏/大海原を吹く風」3.「秋/落葉を誘ふ風」 4.「冬/雪をもたらす風」 )

 1942年 (昭和17年) 4月10日午後6時に作曲者の指揮、東京放送管弦楽団により日本放送協会海外放送初演。演奏時間約14分。
1947年 (昭和22年) に舞踊曲として再演されたが、以後は全く演奏されていないと思われる。
 四季をタイトルとした各曲は、たいそう親しみやすい内容を持っており、「春/野辺を吹く風」の主題は、明らかにシューベルト「冬の旅」第11曲「春の夢」から取られたもの。その愛らしいテーマは、一度耳にしたら忘れられない、まさに夢の世界の音楽だ。
 また「冬/雪をもたらす風」の木枯しを連想させる細かい音の動きは、後年の傑作「心の四季」第6曲「雪の日に」の萌芽とも言えるもので、高田音楽に関心を持つ者なら絶対に聴き逃せない作品だ。

ヴァイオリンと管弦楽のための譚詩曲 (1944)


1943年 (昭和18年) 作曲。演奏時間約11分。
留奈子夫人によればこの作品は委嘱作品ではなく、自らの内的願望から作曲されたものであるという。それだけに、全編を作曲家の真摯な思いが貫く。恐ろしいまでに地味な作品であるが、その誠実で味わい深い北欧的な情緒はひたひたと心に迫る。もしこの作品を例えば「ノルウェー後期ロマン派の作曲家=スヴェンセンの曲」と告げられたとしても、筆者は全く疑いを持たないだろう。
この作品のスコアを見た師・フェルマーは

「高田さん、上手しました!」

と称賛したということだ。

 初演の具体的な記録はほとんど残されていないが、残されたパート譜への記述から、翌年1月に行われたと見られる。なおヴァイオリン独奏は、後年指揮者として名を馳せた、あの渡邊暁雄であった。 渡邊のヴァイオリンの素晴らしさについては、のちに教えを受けた作曲家・指揮者の山本直純も絶賛している。

舞踏組曲「新しき泰」 (1944/ 戦後「新しき土と人と」と改題)

 (1.「蒼穹」(あおぞら)、 2.「山河」(くにつち)、3.「仰望」(のぞみ) ) 

 1944年 (昭和19年) の日本放送協会委嘱作で、戦時中日本と親交関係にあったタイとの友好をテーマとして作曲された。戦時中に海外放送初演がなされたが、詳細は不明。
 1945年 (昭和20年) 11月29日、「年若き土と人と」と改題され、日比谷公会堂において沖不可止指揮/日本交響楽団 (現・NHK交響楽団) により再演された。その後「新しき土と人と」と再び改題される。演奏時間約18分。
 3曲ともたいそうシンプルで分かりやすい、ライト・ミュージック風の作品である。第2曲「山河」の弦楽器群に付けられた「モルト・ビブラーティッシモ」という指定からは、高田の音楽に対する強い思い入れが伺われる。


 次の「狂詩曲」と題された2曲は、前述のように1945年(昭和20年) 4月13日の空襲で焼失した「管弦楽のための組曲」(1941) を、作曲者が記憶をもとに、再編したもの、それぞれ「木曽節」「追分」をテーマとしており、日本的情緒と躍動感に溢れた親しみやすい内容を持っている。

狂詩曲第1番「木曽節」 (1945)

 日本放送協会委嘱作。 (演奏時間約6分) 作曲当時のタイトルは「長野」であった。
1945年 (昭和20年) 10月18日、日比谷公会堂で行われた「第九回希望演奏会」で、作曲者指揮する松竹交響楽団により初演が行われた。(その際、タイトルは「信濃路」と変更されている)
 序奏の部分 (「木曽節」の主題が登場するまで) の日本的な抒情味の素晴らしさは、まさに絶品だ。こんな素晴らしい作品を、半世紀もの間埋もれさせておく日本の音楽界とは・・・という事まで、改めて考えさせられてしまう佳曲である。 「音楽教室か何かで演奏して貰えたら、きっと受けると思うのに・・・」と、留奈子夫人はその再演を心待ちにしている。

狂詩曲第2番「追分」 (1946)

 1946年 (昭和21年) 作曲。翌年1月14日午前9時より、作曲者指揮する東京フィルハーモニー交響楽団により放送初演が行われた。(NHK第一放送「日本の音楽」/演奏時間約10分)
 オーケストレーションは、たいそうシンプルかつ明解で、日本の祭りを思わせる賑かな盛り上がりが素晴らしい。中でもホルン・パートの主張の強さには注目させられる。実は高田氏、実は1941年 (昭和16年) の紀元2600年管弦楽団にホルン奏者として参加するなど、この楽器の名手でもあったのだ。
 この作品以後、高田三郎は管弦楽曲の作曲から長く遠ざかることとなる。しかしその間も高田は、管弦楽作曲の研鑽を忘れなかった。その成果は名曲「水のいのち」と同じ1964年(昭和39年)に発表された宮澤賢治の詩によるカンタータ「無声慟哭」のなかで、遺憾なく発揮された。高田はこの作品に、何と8年もの歳月を費している。また1972年 (昭和47年) に初演された4幕の歌劇「蒼き狼」をはじめ、前述の合唱組曲「わたしの願い」(1966) や「ひたすらな道」(1979) 、「争いと平和」(1983) 、「ヨハネによる福音」(1985)など管弦楽伴奏付き合唱作品においても、高田の素晴らしいオーケストレーションを聴く事が出来る。 その最後の成果が、実に半世紀振りの管弦楽曲で遺作となった管弦楽のための5つの民俗旋律(2000) なのだ。

  
  


7. 管弦楽のための5つの民俗旋律 (1977/2000)


 1995年 (平成7年) 11月、82歳の高田は、急性心不全で倒れる。12月末、何とか退院に漕ぎ着けるが、その際主治医から「この病気は治る見込みがない。無理をしないで静かに天寿を全うするか、やりたいだけ仕事をして命を縮めるか、それは、本人の決定に任せるしかない」と告げられてしまう。
 躊躇なく高田は後者を選び、以前にも増して仕事に没頭するようになった。遅くまで依頼原稿に打ち込む夫の容体を心配し中止をすすめる留奈子夫人に対し高田は
「この仕事を、いやいやながらやっていると思っているのか !」
と、鋭い目で見据えたという。
5つの民俗旋律は、高田がその最晩年、限られた命を燃やし尽し、まさに振り絞るようにして生み出した作品なのだ。
 「5つの民俗旋律」はもともと1977年 (昭和52年) 、ドイツの音楽大学に留学した愛娘・江里のために書かれたピアノのための「五つの民俗旋律」がベースとなっている。高田はこれを管弦楽に編曲しようとしたのである。
 しかし運命は残酷であった。あと終曲のホルン・パートの僅か23小節の内声部を残すのみという段階に至った2000年 (平成12年)、作曲家は心臓発作のため、天に召されてしまう。若き日に副科でホルンを専攻し、ベートーヴェン「フィデリオ序曲」の冒頭のソロで指揮者から誉められた体を持つ高田は、恐らく「じょんがら節」の一番重要な部分でホルンを存分に活躍させよう、と最後までその構想を錬っていたのではないか。
 作曲者の思いはトーマス・マイヤー・フィービッヒ (国立音楽大学教授) に引き継がれ、2005年 (平成17年)に全曲が完成した。

5つの民俗旋律は、東北・北海道の民謡を主題とした、次の五曲からなる。
 (1. 北海荷方節 2. かくま刈 3. 子守唄   4. かんちょろりん 5. じょんがら節)

 ダイナミックなオーケストレーション、意表をついた和声の転換、そして何よりも心に沁み入る日本的情感・・「五つの民俗旋律」からは、高田三郎がその生涯をかけて追求し続けた作曲法の成果を、余すところなく堪能する事が出来るのだ。
「お前の曲はなぜ、そんなにNORDISCHなのか!」と、かつて師・フェルマーが感嘆したエピソードに表されるように、高田はその主題の多くを、北方の民謡に求めた。それは常に自らの心の最も求めるものを追求する、という、彼自身の生き方そのものであった。高田自身の次の言葉が、それを実証している。

「私は、自分がそれを作曲している途中に死んでもいい、と思える作品しか書きません」

「五つの民俗旋律」
は、2005年9月18日、愛知県芸術劇場コンサートホールで開催された「高田三郎作品によるひたすらないのち 愛知演奏会」において小松一彦指揮する南山大学管弦楽団により初めて演奏され、2010年4月16,18日の両日、内藤 彰指揮するメキシコ国立交響楽団定期演奏会でプロ・オーケストラによる初演が行われた。2010年11月12日には、東京ニューシティ管弦楽団第71回定期演奏会(東京芸術劇場)で再演されることが決定している。

8. 「水のいのち」管弦楽伴奏版


 つぎに高田三郎の代表作である合唱組曲「水のいのち」の、管弦楽伴奏版についても触れておきたい。
高田三郎の名を不朽のものとしているこの名曲を「オーケストラの伴奏で歌いたい」と願う声は、その生前から何度も作曲者のもとに寄せられていた。しかし高田は、頑としてその首を縦には振らなかった。この作品のピアノ伴奏部分が、「無駄な音は一つもない」と作曲者が断言するほどの完成度を持っていたことも起因していたのであろう。
 しかしその最晩年、高田作品の指揮を積極的に行っていた指揮者・小松一彦からの熱心な提案を受けた作曲者は、ついに「やりましょう!」と答える。
しかし、それは永遠に果たされる事はなかった。

 2005年 (平成17年) 9月、愛知県芸術劇場コンサートホールで3時間にわたり開催された「高田三郎作品によるひたすらないのち/愛知演奏会」で、「水のいのち」の管弦楽伴奏版はついに初演の時を迎える。編曲の筆をとったのは、遺作「五つの民俗旋律」を補筆したトーマス・マイヤー・フィービッヒであった。また2009年 (平成21年) 2月には、高田三郎直弟子の今井邦男による2種類の編曲版 (管弦楽伴奏版、弦楽とピアノ伴奏版) が完成し、トーマス版と併せ、これまで全国各地での上演は12回を数えている。

9. 高田三郎/没後10年を迎えて


 2010年 (平成22年) は高田三郎没後10年にあたり、全国各地でさまざまな演奏会が企画されている。
「水のいのち」管弦楽伴奏版も、本年だけで8回の上演が決定している。しかし「水のいのち」以外にも、高田にはカンタータ「無声慟哭」や、4幕の歌劇「蒼き狼」などの大作のほか、「山形民謡によるバラード」をはじめとした初期の魅力的な管弦楽曲の数々、そして限られたいのちを捧げるようにして生み出された遺作「五つの民俗旋律」などの作品があることを、是非多くの方々に知っていただきたいと思う。
 今後名曲「水のいのち」管弦楽伴奏版の上演をきっかけとして、高田三郎の管弦楽曲が広く演奏され多くの人々のこころに届くようになる事を、筆者は願ってやまない。

10. 終章〜故郷・名古屋


 1932年 (昭和7年)、音楽の志を抱いた19歳の青年は故郷・名古屋を後にし上京した。
念願だった東京音楽学校を卒業し数多くの作品を発表、作曲家として不動の地位を築き自作の指揮で全国を飛び回り、また国立音楽大学で後進の指導にあたる高田であったが、その胸の内には、常に故郷・名古屋があった。
 その最晩年の10年の間に、高田三郎は自らの作品上演の指導のために実に7回も名古屋を訪れている。

「私は名古屋に行くのを嫌だと思った事は、一度もありません」


 故郷・名古屋には、高田の誠実な人柄・美しい音楽を心から尊敬し愛する、数多くの人々が待っていた。
こうした人々との交流を通じて作曲家は、自らの原点を見つめようとしていたのかも知れない。


(取材協力/監修) 高田留奈子 
(資料提供) NHKアーカイブス、日本近代音楽館 
(参考・引用文献)「来し方」(高田三郎・著/音楽の友社・刊)、
「ひたすらないのち」(高田三郎・著/カワイ出版・刊)、
「ひたすらないのち愛知演奏会」プログラム(2005.9.18/南山学園、高田三郎作品による「ひたすらないのち愛知演奏会」実行委員会・刊)、
「日本の管弦楽作品表1912〜1992」 (楢崎洋子・編著/R日本交響楽振興財団・刊)、
「日本の作曲家」 (細川周平・片山杜秀・監修/日外アソシエーツ・発行)、
「人物書誌体系31/高田三郎」 (国立音楽大学附属図書館・編/日外アソシエーツ・刊)、
「日本の作曲20世紀」(音楽の友社・刊) 

            (文中敬称略)