毛利オフ報告 2003.3.21〜3.23

【天文12年毛利元就退却ルートオフ】

吉田郡山籠城戦と尼子晴久敗退をうけて、出雲・石見・備後の国衆が大内義隆に出雲遠征を要請した。

天文10年(1541)尼子経久死去、翌年大内義隆は山口へ進発する。

当初圧倒的に有利と思われた大内方であったが、途中で吉川興経をはじめとする国衆が陣抜を行い

一気に勢力が逆転、毛利元就は大内軍の殿をつとめ、命からがら吉田郡山城へ帰還する。

※このオフは毛利元就が命からがら逃げ帰ったとされるルートを歩くことに主眼を置いた。

※ルートには諸説ありますが、慌てる元就さんの詳細な資料を元に、福原さんにオフ企画をして頂きました。

※ルート上にあるお城がその時「味方だったか、敵だったか」にも思いを馳せるのも楽しいと思いませんか?

 

1日目 着陣、敵城、そして退却ルートへ

午前9時半JR安来駅集合、まずは大内本陣へ。

・京羅木山城塞群(大内義隆が陣を張ったところ)

大内義隆は出陣するに際して、様々なところへ奉納を行い、なかなか尼子の月山富田城まで陣を進めることが

出来なかった。天文12年(1543)2月着陣。

ついてみると、確かに月山富田城のまん前に構える位置であり、道は険しく陣を構えるにふさわしい場所

といえる。だが、月山富田城との間には飯梨川があり、攻めるのは簡単そうではない。

 

・月山富田城(尼子本城)

尼子の本拠地だけあり、非常に堅固かつ広大な戦国期の山城である。

元就は3月14日に菅谷口蓮池繩手にて牛尾・河副らと交戦。

有名だけに参加者の半数以上が2度以上登城しているので、自由解散とする。

切り開いてある郭そのものが広く、石垣も立派。

 

・富田八幡宮(毛利元就が陣を張ったところ)

飯梨川がすぐ前にある八幡宮。この奥の方(富田城下河本屋敷)に陣を張ったといわれる。

陰徳によれば、川向こうに孤立した自軍を救援する為に川に飛び込んだという美談があるが真偽は不明。

車で行くも、道が細くわかりにくい。

 

大内方から有力国衆の見事な陣抜け(三沢、三刀屋、本城、吉川、山名、江田、山内、多賀山、宮、久代)

先陣を切るといいつつも月山富田城へそのままなだれ込み、大内方は一挙に不利に。

天文12年5月7日 午前4時大内軍退却開始、毛利勢は殿(しんがり)をつとめる。

 

・岩坂通〜乃木〜古志

殿は困難を極めた。乃木で陶隆房と遭遇。落ち合ったとする見方もあるが、追手と間違えて当初射合ったという記載もある。

乃木は中海沿いの街道と岩坂通の合流する交通の要所であり、元就は5月8日には乃木で伏兵にあう。

古志は公民館により、看板を見る。

 

・神西城

有名なスセリ姫を祭神とする神社がふもとにあるこじんまりとした山城。

出雲ならではの祭神、池があり、夕日を拝見。城からみる夕日は素敵である。

 

多岐(宿泊 キララ多岐)

田儀氏の本拠であり、交通の要所。宿泊施設は公共のログハウスで1棟ごとにサウナまで完備している。

目の前は日本海。宴会飛び入り参加者もいて、夜中まで楽しく騒ぎました!1日目終了。

 

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