自己紹介
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平林良一 61歳 農業 東浦町議会議員(7期) 農業委員(9期)
愛知県知多郡東浦町大字石浜字廻間38-1
0562-83-4379 fax0562-84-4168
略歴
東浦町立片葩(かたは)小学校、東浦中学校、 県立刈谷高校、名古屋大学農学部卒業
名古屋木材(株)に12年間勤め 、退職後に町議選に立候補。34歳で初当選。学習塾を10年、現在は ,町会議員と稲作農業。
職業 稲作農業、耕作面積123アール、
田植え機4条植え、耕運機、トラクター(29馬力)、バインダー、ハーベスター、散布機各1台、草刈機2台
家族
母 85歳、妻 長男は東京で就職、次女就職、次男は大学生(1年間海外を放浪)
趣味 読書、映画、カラオケ、ラジオの英会話講座、ナンバープレイス(ナンプレ)
スポーツ 歴 柔道、水泳、スキー、ソフトボール
団体への参加
ひがしうら九条の会、南医療生協、消費税をなくす会、 介護をよくする会、知多革新懇談会
東海自治体問題研究会、石浜子丑会(同年会)、農民連、あいち知多農協正組合員
生い立ち
1948年(S23)生まれ 兼業農家の長男 生まれも育ちも東浦町石浜
1953年(5歳) 開園したばかりの石浜保育園に入学。やんちゃ坊主だったらしい。
1959年(11歳) 伊勢湾台風来襲。床が持ち上がり、雨戸が飛ばされないようにみんなで押してがんばった。すんでのところで家が倒れるところだった。
1967年(18歳) 刈谷高校卒業、名古屋大学農学部に入学、名大柔道部に所属
1969年(20歳) 父が交通事故死 加害者への賠償請求調停
1970年(21歳) 大学自治会に参加、民主青年同盟に加盟
1971年(22歳) 名古屋大学農学部卒業、同時に名古屋木材(株)入社
1971年(22歳) 東浦町の町議選で広瀬候補を応援、日本共産党の初議席実現、
東浦町に民主青年同盟班結成
1971年(23歳) 日本共産党に入党、現在党歴38年
1975年(26歳) 結婚
1976年(27歳) 長男誕生
1977年(28歳) 町議補欠選挙に立候補
1979年(30歳) 長女誕生
長坂悦次町長、不正利得事件で逮捕・辞職
出直し町長選挙に立候補 、このとき当選した井村徳光町長は現在7期目
1982年(33歳) 会社を退職し、学習塾をはじめる (10年続けて、やめる)
1983年(34歳) 町会議員に初当選、以来連続7回当選 長女事故死
1984年(35歳) 農業委員に初当選、以来連続8回当選 次女誕生
1987年(38歳) 次男誕生
1989年(40歳) 42歳厄払い行事に参加、19俵のもちをつき、初午でもち投げ
1990年(41歳) 後厄(あとやく)で打ち上げ花火
1996年(47歳) 刈谷高校の19期生同窓会に参加
1997年(48歳) 東浦中学校の17期生同窓会を有志の協力で38年ぶりに開く
1999年(50歳) 緒川実盛山地区の農地改良を実施
2000年(51歳) 東海豪雨で災害復旧に奔走
2001年(52歳) 不況の生活相談が増えて、奔走。
2002年(53歳) 新年早々、交通事故に遭遇、右足を骨折する。完治まで半年かかりました。
2003年(55歳) 79歳の母が脳梗塞で入院。意識は正常 、左半身麻痺で、どこまで回復できるか心配。
2004年(56歳) 母、8ヶ月ぶりに退院。自宅から通所でデイサービスを受ける。妻の父親がリューマチで入院
2005年(57歳) 35年ぶりに大学柔道七帝戦を観戦。
2006年(58歳) 知多北部3市1町の合併が破綻。妻の父死去81歳
2007年(59歳) 町議選、同年が立候補して、厳しい状況の中、7選を果たした。妻が教職を退職
2008年(60歳) 還暦 鹿児島へ同年会で1泊旅行
2009年(61歳) 妻が風邪で2週間検査入院
平林(ひらばやし)
私の住んでいる石浜地区では「平林」という姓が一番多い。平林という苗字は平家の落ち武者の末裔といわれますが、落ち武者は京の政権の追っ手をのがれて暮らしていたはずですから、ここ尾張の国と三河の国の境に住むようなことはないと思います。明治時代に苗字が許されたときに、みんなで「平林」とつけたのではないか。石浜字平林と地名にもあります。地形が台地状になっていてそこに木が茂っていたことから平林とつけたと思われます。同じ苗字が多い所では、同姓同名が生まれ易いという問題もあります。
全国的に見て「平林」は長野県と京都府丹後に多いようです。ほかにどこかあれば、お教えください。
稲沢市の北部に「平林」がたくさんあります。
落語「 平林」では平林の読み方がいろいろ出てきます。「たいらばやし」か「ひらりん」か、「一八十の木木(いちはちじゅうのもくもく)」 、「ひとつとやっつで とっきっき」と読んだと言う話。
堅物の家系
わが家は昔から堅物の家系です。4代前の曽祖父は「金作」という名前でしたが、金持ちではありませんでした。私の祖父は「後高」といい、次男でしたが跡取になりました。祖父の兄は「家康」という名前で、半田市亀崎の榊原家に養子に入りました。 祖父の後高は地域の顔役で通っていましたが、本業の農業は家族任せで、その分、祖母はよく働く人でした。戦後の「農地解放」 の時、たまたま農地委員を務めていて、地主から解放された農地を小作に分ける作業に携わっていました。自分はいい農地を手に入れられる立場にありましたが、役目に忠実で、いい所は人に分け、自分は不便な農地をもらいました。私も子供時代に自分の田んぼに通うにどれほど 苦労をしたかしれません。私の父も次男でしたが、長男が戦死したため、あとを取ることになりました。父もあまり農業が好きでなかったようで、戦前と終戦直後に警察官でした。父の場合、軍に召集されましたが、内地勤務で、九州の方に行っていたようで、その頃の話はほとんどしませんでした。警察勤めも 私が3歳頃にやめ、高野精密という時計会社に20年ほど勤めました。農業だけではとても生活できませんでしたが、父の会社づとめの収入のおかげで、私は大学まで行くことができました。その父が、交通事故で急死したときは、一家の生活はどうなるのか途方にくれました。
農家の長男
私の家は、祖父が農協役員や農業委員、区長、町議を務めていたため、家族がずいぶん苦労しました。緑内障で目が不自由だった祖母は大変気性の激しい人で、 私たち兄弟は学校から帰ったら農作業を手伝わされました。よその子どもは遊べるのにうちはなぜ遊ばせてくれないのか、と悲しい思いをしました。父はずっと会社勤めをしていたため、母がほとんど農作業をやっていました。長男の私は当然のように後継ぎに期待されていましたので、上の学校へ進学などは考えたことがありませんでしたが、中学校に入ってから成績が伸び、母の熱心な後押しで、高校進学を決めました。母の実家も貧しい農家でしたので、女学校に行きたくても行かれない時代に育ったため、息子の私にはできる限りの学歴をつけたいと思ったようです。おかげで大学まで卒業させてもらいました。
刈谷高校
地域の名門校・刈谷高校に入学することができました。入学した喜びも覚めやらぬうちにいかめしい顔をした先生が、「ここの授業は名古屋大学に進学する人に合わせて授業をやりますので、そのつもりでいてください」と言われて、ついていけるかしらと不安になりました。2年生の頃に進路を決めるのですが、わが家は就職が当然のような雰囲気でしたが、勇気を出して進学に決めました。しかし、3年生になって周りが受験勉強一色になると席次が下がり始め、あせりました。ラジオから聞こえてきた、「受験生ブルース」のような生活になりました。何とか、名古屋大学農学部に入学できましたが、高校がうまく押し込んでくれたような感じでした。私の長男も刈谷高校に入りましたが、親としてPTA総会に出たら、先生は昔とほとんど同じようなことをいっていました。最近、刈谷高校から20人ほど東京大学に入るようになったそうですが、 国立大学入学の予備校化してるのではと心配です。トヨタの地元で卒業生がトヨタグループ会社の重役になったりしています。
名古屋大 学柔道部
運動オンチの私は中学、高校では運動部をやったことがなく、なんとなく、コンプレックスを持っていましたので、一度やってみたいと思っていた柔道 を選びました。名古屋大学柔道部は寝技を中心にした柔道で有名で、文字通り柔軟なからだと持久力を身につける練習でした。レスリングのように相手を畳に仰向けにして押さえ込んで勝敗を決するものです。おかげで耳はこすれて 腫上がり耳たぶの形が崩れてしまいました。見た目に華々しさはないが、立技のように一瞬のミスで敗れることはありません。オリンピックなどの国際大会ではあまり寝技がみられないのは残念です。柔道部は概して古風な伝統があって合宿のたびに旧制高等学校の寮歌や柔道部歌を合唱して、つらさを吹き飛ばしたものです。2年生の合宿の時に父が交通事故で死ぬということがあり、1年間中断して復帰しましたが、もう後輩にも勝てず、ブランクの大きさを実感しました。私としては唯一の運動部の経歴です。
20歳で喪主
父親に早く死なれ たので、若いうちに喪主を務めることになりました。伊丹十三の映画「お葬式」のように何から手をつけたらいいのかわからないものです。簡単に済ましたいと思っても、親戚が多いのでそれもできず、隣近所の人の助けで、何とか務めることができました。そのあと、21歳で祖母の葬儀、27歳で祖父の葬儀、34歳で長女の葬儀に喪主を務めました。
化石木の成分分析(卒業論文)
大学の専攻は林産化学で木材の成分分析でした。木材はセルロースとリグニンが主成分でセルロースは分解されやすいがリグニンは分解されにくいため、条件によって木材が長持ちする要素となってい ます。ところが、リグニンの分子構造がなかなかわからなくて、人工的に作られない。私の卒業研究は化石木の成分を分析して、 セルロースとリグニンの組成変化、化石木が埋まっていた地層の状況を推測しようというもので した。当時、高蔵寺付近の宅地造成地から化石木が出土して、それを研究資料にしましたが、元の地層が破壊されていて、いつ頃の時代の物かがあまり正確につかめなかったこと、他の多くの地域の化石木との比較ができていなかったなど、残念ながら十分時間をかけて研究できませんでした。
民主青年同盟(民青)
民主青年同盟は日本共産党の指導を受けた青年組織です。学生自治会活動を通じて民青同盟に加盟しました。当時、名古屋大学の学生自治会 には民青が多数派で主導権を握っていました。名大の中にも全共闘 、社青同などいろいろなセクトがいましたが、かれらがヘルメットと角棒で武装し、バリケードで校舎を封鎖し たときが学生運動が一番荒れたときだったように思います。東大の安田講堂が過激派に封鎖され、入試が行われないという事件がありました。私は大学4年になって民青同盟に加盟しました。 全共闘などは、毛沢東思想を信奉して、暴力革命唯一論に立っていましたが、実際は民主主義革命を当面の任務とする日本共産党を「修正主義」と 攻撃して、暴れていました。彼らが暴力事件を起こせば起こすほど、国民が日本共産党にマイナスイメージを もつことを自民党は期待し、彼らを取り締まらず、泳がせていました。
名古屋木材
1971年に卒業と同時に名古屋木材という木材会社に就職しました。この会社は戦争中に統制会社としてスタートした会社で当初は300人ほどでしたが次第に減って、 私が入った頃は150人ほどになっていました。入社した時に、「君は幹部候補としての採用だから多少のことは我慢して勤めてくれ」と言われましたが、労働者の側に立ってがんばるつもりでいましたのですぐに上司ににらまれるようになりました。一応、従業員組合という組合がありましたが、会社の飾りのような組織でした。会社が5時30分に終わるとすぐに、帰宅し、民青同盟の活動にうち込んでいました。外国から輸入された木材を町の製材所に売って歩く仕事の部署に配属されたが、どうもセールスは性格にあわず、だからと言って、生産現場を志願したわけでもなく、いつやめようかと迷いました。結局、12年勤めて町議選立候補のために辞めました。
34歳で町議に初当選
1983年(昭和58年)に34歳で東浦町議会議員に無投票で初当選。広瀬勇吉氏、山田真悟氏につづいて3議席目を獲得しました。日本共産党員になった時から政治、経済、哲学、歴史、政策などさまざまな学習・教育を受けましたが政治のことはまだよく分からなかったというのが本当のところです。議会の一般質問などでは、当局のお役所言葉、専門用語にはぐらかされたり、保守系議員のやじに感情的になったり、大変でした。共産党議員は1年目でも積極的に質問することが求められており、十分準備をしないで質問することもあって、ずいぶん失敗がありました。
長女の事故死と次女の誕生
町議になってすぐに長女がちびっこ広場の箱型ブランコから落ちて死亡するという事件がありました。保育園に入ったばかりの4歳でした。女の子ながら大変活発で四人乗りのブランコに立って乗っているのを見たことがありましたが、そのことが災いしたと思います。私がすぐに対応すべきだったのですが学習塾の最中だったため祖母に病院にいってもらって様子を見ていましたら、容態が急変して重態に陥りました。事故から12日目に意識が戻らないまま、死亡しました。その後、すぐに次女が誕生し、長女に代わるものではありませんが慰められました。現在その子は元気に大学へ通っています。
学習塾を経営
町会議員に立候補する1年前に会社を退職し、自宅で学習塾をはじめました。2年目に教室を建てました.黒板や机やイスをそろえ看板も出して本格的にはじめました.復習を中心にやっていましたら、生徒は「繰り返しはつまらん、学校より先をやってくれ」と言うので、私は「学校の授業が新鮮でなくなるからダメ」と、あくまで復習中心でがんばっていました.それで成績が良くなった子もいましたが、あまり効果がなくて、時間つぶしに来る子が増えてきました.そのうちに、勉強中に遊ぶようになり、挙句の果ては、勉強しようとする子を妨害するようになり、10年目で塾を閉鎖することになりました.
子丑会(ねうしかい)の厄(やく)払い
知多地方は42歳の厄払いが派手な地域で、わが石浜地区では2月の初午に神社で祈祷が行われ、奉納行事としてもち投げが行われます。 前厄、本厄、後厄とあり、前厄は1年先輩の行事を見て翌年の本厄に備えます。本厄は、神社の境内にやぐらを組んでもち投げをします。3ヶ月前から日曜日ごとに宿(わたしの家)に集まり、作業をしました。奥さんも交代で炊き出しに出、もち米20俵を3日ほどかけてつき、大八車にもちや景品を積んで町内を練り歩き、神社で祈祷を受けてから、やぐらに登り、大量のもちを30分ほどで投げてしまいました。これら費用600万円ほど。あとは、家族旅行と厄払い旅行。合わせて1千万円、石浜子丑会34人でまかないました。ちょうど、昭和63年の暮れから、昭和天皇の「下血」報道があり、もちなげ行事を中止するかどうかの議論がありましたが、わたしたちは平野宮司さんに相談したところ、自分たちの厄払だから別にかまわないということで、挙行することにしました。
遺産相続の係争
平成元年の3月に叔父 の康さんが59歳で亡くなり、その遺産相続をめぐって、親戚中が係争に巻き込まれました。事のおこりは、子どものなかった叔父がその妻君に背突かれて、大きな財産を相続したことに問題がありました。 その妻君は、叔父より12才も大きく、水商売上がりで長いこと、内縁関係で暮らしていました。祖父が寝込むようになった頃に籍を入れたようで、祖父がなくなった途端に態度が変わりました。私が、本家の跡取りとして遺産を分けることになりましたが、子どものない叔父が半分近くの財産をくれと言って来て、そのうちの一部を他の叔父さんが「買い取る」という形で分配を受け、結局、土建業で借金が膨らんでいた 叔父が遺産の4割を相続しました。すぐに、借金の穴埋めに、宅地などを処分してしまいました。ところが、その 叔父は、酒の飲みすぎ、働きすぎなどで肺ガンで亡くなってしまいました。日頃、「いつ死ぬかわからない」と病弱に見えたその妻君が、急に元気になって、「康の財産は全部自分がもらう」と言い出したのです。子どものない叔父の相続分は本家に戻ることを期待していましたが、 叔父の兄弟たちは調停を申し立てて、4分の1を兄弟間で共有相続することにしました。4分の3を相続した叔父の妻は全てを売り払って金に替え、どこかへ移っていきました。大金を手にしたその妻 君は、はじめ、常滑市に家を買って、競艇通いをしていたようですが、その後、住所を転々として、行方知れずになっています。
とうちゃんソフトボール
石浜地区では42歳の厄歳を皮切りにとうちゃんソフトボール大会をやっています。当初は6、7年やれば、引退していったものが最近は、60歳の還暦を過ぎてもやるチームがあって、わが昭和23年度チームも張り切って出ています。「好きこそものの上手なれ」というように、日頃から熱心に練習しているところは強い。今年は15チームも参加して総勢150人と、なかなかの盛況でした。親睦を図るのが目的であるとはいえ、熱が入ってくると勝負にこだわってきます。ソフトボールは年齢にあわせてプレーできるスポーツで、ハンディをつけなくても若年チームといい試合ができます。「スタミナがない分、テクニックでカバー」している最長老チームは今年も賞品を獲得しました。
3人の共産党議員で24年
1983年に私が町会議員に当選して以来24年、ずーと同じ3人が共産党の看板を維持しています。大先輩の広瀬勇吉氏は常滑市から移住して共産党の初議席を実現した先駆者です。4年後に山田真悟氏が当選して、2議席になりました。東浦町議会史上最年少議員でした。私はそれから8年後に初当選して3議席になり、強力な議員団となりました。その後、新たな議員が誕生していません。4人目を実現するチャンスはありましたが、なかなか候補者が決まらず、2回も無投票を許してしまいました。このままでは、バトンが渡せずに議席を減らしかねません。後継者を育てる努力が不十分であったと痛感しています。
中学校の同窓会の幹事は大変
1996年、中学校を卒業して32年目に同年の同窓会を行いました。準備をはじめる時に、石浜地域の同窓生が中心でやろうということにしたら、緒川地域のY君から「なぜ、そういうことを君たちだけでやろうとするのか」と抗議を受け、「参加するな」との妨害がされたために、当初予想した人数の半分しか集まりませんでした。出欠のはがきの返事ははじめに「欠席」がたくさん来るもののようで、「出席」がわずかしかこなくて、本当に困ってしまいました。恩師は思ったよりたくさんの「出席」のご返事をいただいたので、何としても会場に予約したホテルの採算が取れる人数を確保しなければと必死でした。なぜ、各地域から代表者を集めてやらなかったか。石浜地域の同年は仲良しグループでまとまりがよかったので、他の地域の人を入れるのがわずらわしいと思ったようです。ほんとうは、各地域の代表が責任を持って人集めをするほうが、やりやすかったとは思いますが、あえてそうしなかったのは私のリーダーシップのなさです。当日もいろいろなハプニングがありました。幹事の一人が、日にちを間違えてこなかったとか、出席予定の人もうっかり忘れていたとか、きてくれたのにエレベーターには絶対乗れないという人がいて、非常階段で会場まで来てもらったり。同窓会が始まってみると、みんな楽しんでくれていて、疲れが吹き飛びました。2次会、3次会、4次会まで盛り上がりました。
農業は辞めない
母が脳梗塞で倒れてから農作業のすべてが私の肩にかかってきました。母が元気なうちは、農機を運転することが私の仕事で、細かな仕事は皆、母がやっていました。細かな仕事で手抜きをすると、あとで大変苦労します。畑仕事も大変だということが、母がやらなくなって初めて分かりました。1ヘクタールほどの経営面積だから、大きな機械は買わずにやってきましたが、体力も限界にきたので、中古のトラクターを買いました。トラクターを買えば倉庫も必要になり、田んぼの隅に建てました。農業の収支は毎年数十万円の赤字になっています。普通の人なら農業をやめるでしょうが、私の場合「日本農業を守れ」と活動している立場から農業を辞めるわけには行きません。赤字の原因は、生産者米価が安過ぎるうえに農薬や肥料など農業資材費や機械維持費が高いことです。愛知用水代も ばかになりません。自民党農政の米の輸入自由化政策の結果ですが、民主党もFTA交渉で農産物のいっそうの輸入自由化を公約しており、危ないものです。
盆踊りは踊るもの
毎年、地元の盆踊りには参加しています。神社の境内でにぎやかに行われますが、踊るのはほとんどが女性で、それも老人会、婦人会、更生保護女性会、子ども会などの役員の人たちです。私が参加するきっかけは、子ども会の役員になって、石浜区から参加の要請があったためです。その後、一般参加で踊っていますが、ほとんど練習もしないままの参加ですが、見よう見まねで何とか踊れるようになります。盆踊りは、見るよりも踊るほうが楽しいものです。