12月のひとりごと

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04/12/29(水)

志賀高原は雪不足だった。東館山・西館山・ジャイアンツは行けなかった。しかし,第2ゴンドラは動き,奥志賀も滑れて,最終日には第1ゴンドラも動いたので合格点というところだろうか。予想通り主人の靴がベキベキはがれ,テーピングのテープでかろうじてしのいでいた。それでも結構滑れるものだ。主人曰く,「スキーは靴ではない事がわかった。」帰路高速を降り春日井のアルペンに寄ってブーツを探る。一週間で値段がずいぶん下がっていた。主人はとんでもないお値打ちなサロモンの旧型を買った。スキーは靴ではないからだ。しかし,私はテクニカでないとしっくりこないので,今回は見送る。

さて,今年は新年までゆっくりできそうなので,家のあちこちを片づけた。きれいになっていくのは快感だ。専業主婦もなかなか愉しい。


04/12/22(水)

今日の夜7時に約束通りプリンスホテルから電話があった。明日は焼額のゴンドラを動かすとのこと。今日は積雪があったし,明日明後日も降りそうだという。主人の腰も何とかなりそうだし,私の気に掛かっていた仕事もメドが着いたので,予定通り行くことにした。ホテルの人は嬉しそうだった。今までちっともやる気の起きなかった年賀状を印刷しながら,荷物をパッキングし,ブーツは古いのでがまんし,新聞店とお義父さんに電話をし,冷蔵庫の中を点検する。お金と携帯電話と充電器とカメラと・・・。サングラスが見つからないよう・・・。26日晩まで志賀高原にいますので,よろしくです。


04/12/20(月)

主人が腰痛で会社を早退した。信州は雪模様。なんとか持ち直して欲しいものだ。かのシーザーがちょうど主人ぐらいの年でガリアに遠征したことを思えば,まだまだ老い込む時期ではない。今ローマ人の物語12「ユリウス・カエサル ルビコン以後(中)」ポンペイウスにファルサルスの会戦で勝った後のところ。つい,降車駅を乗り過ごすところだった。


04/12/18(土)

スキーブーツを見に一社のアルペンに行く。お目当てのテクニカがそこにしかないからだ。主人のサイズはあったが,私のはない。結局買わずに帰ってきた。23日から志賀高原に行く予定なのだが,たぶんキャンセルになるだろう。雪がないのだ。ダイビングは台風に,スキーは暖冬に。おかげさまで出費は少なく済んでいるが。


04/12/14(火)

「ハウルの動く城」「Mr.インクレディブル」「ポーラー・エクスプレス」次々に子供向けのチラシが学校に来る。子どもに配る。その度に「すごく絵がきれいだよ」「これは超面白いよ」「CGがすごいよ」などとお薦めポイントを添える。はい,全部見てます。それも先行上映で。「先生,子どもの見るようなのばっかり見てる!」と,やっかみ半分に指摘されてしまった。文句あっか。面白いものは誰が見ても面白い。


04/12/12(日)

昨日は,ロードオブザリング,今日は戦場のピアニストといい映画が続く。すでに見たものばかりだったので,ちらちら横目で見る程度。やっぱり映画は映画館で,吹き替えなしで見るべし。

横目でちらちら見るが,とりわけ美しい旋律の音楽部分はやはり耳が引き付けられる。ショパンはなぜあんなに叙情的なんだろう。相当ロマンチストだったに違いない。そういえば,この前送られてきた高校の同窓会報に,校歌の裏話が載っていた。その当時の音楽の先生がショパンが大好きで,作曲を依頼した團伊玖磨氏にショパンの旋律を使ってくれと頼んだらしい。やがて,できあがった校歌の冒頭には,かの幻想即興曲の旋律があった。会報に記された楽譜を見れば確かにその通り。そんなこととは知らず3年間校歌らしくないハイカラな曲だなと思いながら歌っていたような気がする。ショパンもまさかそんなことになっているとは知らないだろう。


04/12/11(土)

体調がようやく戻り,主人と健康の森のプールに行く。この頃は楽に泳ぐことを覚え,ゆっくりだが100メートルは続けて泳げるようになった。主人は700メートル続けて泳げるそうだ。玄関に講演会の看板が出ていたので,時間に合わせて早めに上がり聴きに行く。

講演会は愛知万博地域連携プロジェクトの一環で「ケニアのマラソンは,なぜ強くなったか」という題だった。講師は村尾慎悦氏。かの瀬古氏と大学時代から同期で,SB食品の中村監督の逝去後,ダグラス・ワキウリを指導し,世界陸上,五輪などの世界大会にケニア人初のメダリストに育てた方だ。講演会の内容は,いかにケニアが強くなっていったかということと,世界のマラソン競技の流れが主だったが,それ以外にも興味深い話があった。

ケニアは国としてはまだ独立して40年しかたっておらず,永らく,ドイツ・イギリスの支配下にあった。国境線は他の多くのアフリカ諸国のように,支配していた国同士の勝手な線引きによる。アフリカは52カ国あるがその48パーセントはこのような支配者側の勝手な線引きだそうだ。部族は大きく4つに別れ,同一部族でも隣の国にまたがるところもあるらしい。大陸の最高峰キリマンジャロ山は現在はタンザニア領にあるが,そこだけ国境線がえぐれたようになっているのは,当時の統治していた領事がタンザニアの王様の誕生祝いか何かにプレゼントしたそうだ。あきれた話である。

ケニアは赤道直下にあるが,3000mの台地があるので,比較的過ごしやすいようだ。そして,英国の支配下の影響で,スワヒリ語以外に英語が公用語なので,国際競技会に出たり,留学したりするのに幸いだったそうだ。しかし,主食はトウモロコシの粉を焼いたようなものだったので,特にいなかから出てきた選手は,選手村のバイキングでは,肉や魚を食べる習慣がなくパスタやパンは見たこともなく,食べるものがなかったそうだ。唯一食べられたのはバナナだけ。これでは,世界の檜舞台には立てないと,練習だけでなく,食住の環境もまるまる面倒を見たそうだ。

講師は最初予定されていた方が世界陸連の出張が急に決まって変更になったとのことだった。その方のビデオメッセージが映像で紹介されたのだが,「ケニアが大好き」オーラが表情や言葉の端々に現れていた。ぜひ,行ってみたいものだ。

最後に主催者側の町長の挨拶があった。この前ケニアの大統領が来たわけがわかった。それは,この2月にケニアの貧しい人たちが住む居住区に大火災があり,何万人という人が焼け出された。そのニュースが新聞に載り,この町の小学校の子どもたちが毎朝校門で募金を集めた。それが,60万円になり,ケニアに送ったそうだ。ケニアの物価はおよそ日本の100分の1。つまり,60万円は6000万円ぐらいの価値があるのだ。ケニアの大統領は感激し,万博会場を視察する予定だったが,そこをキャンセルし,どうしてもお礼を述べたいということでこちらに来たそうだ。良い話ではないですか。どこかの国の首相に聴かせてやりたい。


04/12/5(日)

期末が近づき忙しい。今日は4時半に目覚ましに起こされたこともあって,朝から体調が今ひとつ。私のラケットが主人の車にのっかって出かけてしまったので,これ幸いUのテニスは欠席。書店と図書館に行く。もう本は買わないと誓ったので,ローマ人の物語の文庫本だけにする。図書館で,白洲次郎のサライが戻っていたのと須賀敦子の「コルシア書店の仲間たち」,エンデの軽い資料集,司馬遼太郎の随筆,ダイ・シージエの「バルザックと小さな中国のお針子」を借りる。主人が休日出勤から帰り,もう外食はしないと誓ったのだが,私の体調が悪いから,イタリア料理店でオマールエビのパスタを食べる。ちょっと元気になる。