3月のひとりごと


06/03/29(水) 春休みの計画

月・火と教室の片付け・学校の備品整理・諸帳簿整理に明け暮れ、今日からやっと休暇を取る。今年の春はスキーのみ。明日から八方へ2泊と思ったが、「今シーズンの八方はコブがひどくて足がもたないよ」といわれ、変更。2泊目は奥志賀にした。さて、次第はいかに。


06/03/26(日) テニス合宿

Gさんのお誘いで昨日テニス合宿に参加した。男性8人女性8人、コートは2面。ちょうどよい数で、抜き差しならない。みなさん、お上手な方ばかりで、見ているだけでも勉強になる。ここんところ、主人の手の故障で、テニスから遠ざかっていたが、そうばかりも言っておられない。ほんとは今日もあったのだが、主人の手首は悲鳴を上げているので、今日は中止。残念だった。


06/03/24(金) 1年間の成長

終了式の後、教室に戻り通知表を渡す。一人一人に声をかける。驚くほど成長した子。新しい一面を見せてくれた子。近い将来の活躍が期待される子。そして、新しい学年へのちょっぴりの不安。

「みんな自信を持って次の学年に進んでください。そして、楽しい春休みを過ごしましょう。」「はい。」元気のいい声だった。

もう、私の役目は終わり。と、思っても涙がにじみそうになる。


06/03/21(火) フラワードームで野球観戦

ほんとは「ウオレス&グルミット」を観に行くはずだった。ところが、時間に遅れてしまったため、先にナゴヤドームに行くことにした。

ドームに着いたら会場は混んでいた。ランのコンテスト受賞作品、生け花の展示、薔薇のモニュメント、フラワーデザイン、テーブルフラワーアレンジ、押し花絵、花の絵手紙、園芸の専門家による講演、フラワーブライダル、真ん中にはランの鉢物や切花の即売、アクセサリーや小物の出店、郵便局、ワイン試飲まで。

胡蝶蘭2・デンドロ1、記念切手シート1、携帯ストラップ2、アウスレーゼ6

お弁当を食べた後コーヒーを飲みに3階の食堂に行った。みんなTVを見て騒いでいる。そうか、今日が決勝だった。TVの前の席は埋まっていたがそのうち開いたのでまん前で観戦。松坂から渡辺に代わったところだった。最初は圧勝だったので、気楽に見ていたのだが、エラーが重なり6対5!そこら辺の人みんなが1球ごとに声援を送る。ドームだけに臨場感がなくもない。9回表、福留がヒットを打った時は地元だけに「コースケヤッター」の歓声。そして、最後大塚が三振に打ち止めた瞬間、拍手と歓声が鳴り止まず。

結局、映画は次回に先送りになったが、気持ちのよい1日となった。


06/03/19(日) 二つの映画

昨日は「ナルニア国物語」物語のテーマと4人がナルニア国に行く必然がなく感動はなかった。ただ、動物が人間のように動いたりしゃべったりするCGはすごい!原作を全部シリーズにするかもしれない。子供には健全な物語だと思う。

今日も映画を見る羽目になったのは、昨日映画館に眼鏡を忘れたから。幸いインフォメーションに届いていた。

今日の映画は「シリアナ」イランの石油利権に関するアメリカの思惑と、CIA工作員、コンサルト会社の営業マン、イランに出稼ぎに来ていたパキスタン人の青年がテロリストになっていく過程、王族の後継争いにつけいるアメリカの石油業界などなどが複雑に絡まりあい、最後には有無を言わせぬアメリカの圧倒的で冷酷な軍事力を見せつけ、見ているものに虚無感が残る。この映画を作ったのはアメリカの良心だろう。だが、あまりにもマイノリティ。私たちが見たスクリーンには10人もいただろうか?全米でも何人の人がみるのだろうか?ブッシュ政権はイラクに続き次の標的をイランにしようとしている。皆アメリカの傲慢を知っていながら手を拱いているだけだ。そして、恥ずべき日本。他国と協議せずとも独自の判断でとっととイラクから撤退しなよ。


06/03/16(木) 電話嫌い

昨日から家の電話が掛からなくなった。なぜだか分からないがそのままにしてある。このままでも構わない。電話はあまり好きではないのだ。なんかせかされる気がする。必要なことを話すとすぐにぷつんと切ってしまう。主人に掛かってきたときは挨拶もそこそこに、あわてて主人に渡す。まるで爆弾ゲームである。長電話する人の気持ちが良く分からない。よく、1時間も話すことがあるな、と感心する。

さて、我が家の電話。どうしたものか。


06/03/12(日) 差別する心

「クラッシュ」を観に行く。主人が観たいという。私は刑事アクションものだと思って、内心つまらなかったら、寝ていようと思って付いていったが、全編寝るどころではなく、自分自身の心の葛藤を余儀なくされたのだった。リアルなのだ。人種の入り混じった移民の国アメリカ合衆国。その中でも、移民の割合が高く、華やかである反面、複雑で湿った感情の渦巻くロサンゼルス。登場人物は実在人物と思われるほどリアルだ。それぞれが、自分と違うものに対する恐れと無理解と傷つきやすい自尊心を持っている。ヒーローはいない。ただ、そこに生きているのだ。必死に自分を生きている。そういうもの同士がぶつかり合う。見ている側も自分の中に潜む、差別の心に気づき、そのことで葛藤するだろう。

老後は海外に住みたいと思っていた私は、頭から水をぶっかけられた想いだった。相当の覚悟がいるのがわかった。


06/03/04(土) 若い父親の死

雨戸から春の光があふれていた。いいお天気だ。家事日和である。こんな日に限って本を読んでみたくなる。先日図書館で借りてきた中に「父」というテーマで集めた随筆集がある。多くは息子や娘の父親像が描かれどの作品もそれぞれ味わいがある。その中に妻から見た父子像のエッセイ。坂口安吾未亡人坂口三千代さんの素の文章に出会う。

坂口は西部劇か何かを見て来て、私に「映画の中で父親が出かけるとき、息子に向かって、『ママを頼むよ』って家を出るんだ、オレも『ママを頼むよ』って行きたいんだ」と言った。ふと私はそんなことを思い出している。・・・略・・・世の奥さま方は、日常茶飯のことだから、あまり気づいていらっしゃらないであろうこんな幸せを、私は、子供が1歳半のときに失ってしまった。・・・略・・・もし、坂口が生きていたら、こんなときどう対処するだろうか、ということがひとつの支えで、どう対処するかは坂口自身の考え方次第であって、私は坂口ではないから全くの手探りで、途方にくれることが多い。

このあと息子の中に亡夫を見ている記述がある。そんな自分を戒めていながらも類似点をいくつもいくつも挙げている。さりげなく、ユーモアも交えて記述してあるが涙なくしては読めない。世の男性諸君よ、妻を愛していたら、子が成人する前には絶対死なないように。