5月のひとりごと



06/05/28(日) アンジェラ

 

 

 春の愁い装い

 濃き緑に縁取られた

 天使のごとき花よ

 おまえの美しさを信じよう

 美しいことは真実で

 正しいことは美しく

 真実は正しいこととは限らない

 世界はあまりにも複雑で

 人間の心はあまりにも儚くて

 何が真実で

 どれが正しいのか分からない

 ただ私の目に映る

 今ここにあるおまえの美しさを信じよう

 


06/05/20(土) 悪夢

 

目が醒める。ああ夢でよかったと思う。現実に感謝する。

仕事に纏わる夢はたいてい悪夢だ。今日は50m走だった。私が走るのではない。生徒が走るのを計るのだ。

メンバーは卒業したはずの高学年。最初はスタートでボーっとしていてストップウォッチを押すのが遅れる。次は途中で邪魔がはいる。さらにどういうわけかコースが駅伝になっていて道を間違う。さあ、今度こそとストップウォッチを押したら、持っていたのはシャープペンシル。ペンの頭をカチッとな。

仕事に纏わる夢はたいてい悪夢だ。遠足に行く。何度数えても一人足りない。その子は川に流されている。朝礼でマイクの音が入らない。いくら大声を出しても子どもたちは知らん振りして遊んでいる。空の上で何年か前に亡くなった校長が呼ぶ。飛んで行こうとすると網に絡まる。

目が醒める。ああ夢でよかったと思う。現実に感謝する。


06/05/13(土) 漂ふ

 

ご存知の通り私は山崎まさよしのファンだ。そもそもネットを始めたきっかけが「彼の公式サイトを見たい」というミーハーぶりだった。昨年末のデビュー10周年記念アリーナツアーは、珍しい本格ストリングス付きのゴージャスなものだった。服部隆之氏の編曲がすばらしく夢のような時間だった。私はまた、ファンクラブに入りなおした。ツアーのファイナルは東京の武道館であり、カメラも入り後に映像がTVで放送された。私はその番組を見ることができなかったが、ネットで知り合った心ある方がわざわざDVDに取って送ってくださった。それだけで満足だったが、この音源がライブアルバムとして世に出回ることになった。もちろん即購入。

前置きが長くなった。さて、このライブアルバム2曲目「やわらかい月」。少年時代の切なく寂しい心象風景を歌ったものだが、(この曲が入っているアルバムSHEEPはここのサイト名になっている)初めて聞いたときから気になっていた言葉がある。言葉というより歌い方だ。「満ち足りた月は水面をただよう」の「ただよう」。ひとりぼっちの少年が夕暮れの川に浮かぶ月を見つめている叙情に溢れた曲なのに、この一つの言葉が、どうにも引っかかってしまうのだった。

彼は文字のとおり「タダヨウ」と歌っていた。普通にいうとき「タダヨォ」といいません?辞書をひっくり返してもどういう言い方が正解なのかわからなかったが、嬉しいことに今回のCDでは、「タダヨォ」と歌っていた。何年もこの曲を聴くたびにひっかかっていた魚の小骨がとれたような気がしてすっきりした気持ちだった。ところが、今日になって、また新たな小骨が刺さってしまった。

私のPCはメモリの空き領域が少なくなりメデイアプレーヤーの再生が十分にできず音声がぶつぶつだった。せっかく戴いたDVDも音声が切れ切れだった。そこで、いらないファイルを整理し今日例のライブ映像をもう一度聴いてみた。そしたらなんと「タダヨウ」と歌っているのだ。CDは「タダヨォ」。ちょっと狐につつまれた気分だった。

冷静に考えてみたら、たぶん、武道館2デイズなので両日の良い方を音源にしたのだろう。ドミノラウンドのビデオも音声と映像が合わないところもあったような気がする。良い方がCDになったんだから、良しとしよう。でも、「漂ふ」はまだ私の中でまだ漂っている。どういう言い方が正しいのか、いつか、日本語の専門家に伺ってみたい。

 


06/05/06(土) 方寸

 

京都の禅寺には「方寸」という庭が付いていた。私から見たら単なる四角い庭であるが重要文化財になっているところもあった。何か意味があるのだろうかと思っていたら、例の漢詩の本に見つけた。白居易の「隠几」という詩だ。

方寸とは「心」なのだそうだ。一寸四方に収まることから「心中」「胸中」の意を表すようだ。

信州のみやげによく買ってくる小布施竹風堂の落雁に「方寸」というのがあるが、あれは、文字通り一寸(約3センチ)の正方形をしている。がしかし、「心」という意味もかけてあるにちがいない。

白居易は「長恨歌」で有名であるが、「白氏文集」という彼の書物は平安文学に大きな影響を与えたという。というか、漢字そのものが中国からのものではないか。日本の文化が中国に依るところが大きいことを改めて感じる。

 

身適忘四肢
心適忘是非
既適又忘敵
不知吾是誰
百体如槁木
兀然無所知
方寸如死灰
寂然無所思
今日復明日
身心忽両遺
行年三十九
歳暮日斜時
四十心不動
吾今基庶幾


06/05/04(木) 守拙

 

 

息子2は就職をせずまだ、学生である。小さいときから好き嫌いがはっきりしていた。雑学の帝王息子1と違って、読む本は非常に偏っている。好きなことしかしないタイプである。誰に似たのかというと、主人がいうには「お前にそっくりだ。」

私としては非常に心外なのであるが、傍からみるとそうなのかもしれない。感動したものには涙するが、心にもないお愛想をいうのは苦痛である。嫌なものはなるべく避けて通りたい。

たまたま昨日借りてきた本に、陶淵明の「歸園田居」があった。その中にある守拙という言葉がいたく気に入ってしまった。その本の解説には「世渡りの下手な性格を守り通すこと」とある。

我がままだの気が利かないだのデリカシーがないだの能天気だの極楽トンボだの頼りないだのいい加減だのアホだの大雑把だの不器用だのいろいろ言われてきたが、陶淵明先生にあやかり、これからは「守拙」を座右の銘にしたいと思う。

 

 

少無適俗韻
性本愛邱山
誤落塵網中
一去三十年
羈鳥戀舊林
池魚思故淵
開荒南野際
守拙歸園田
方宅十餘畝
草屋八九間
楡柳蔭後簷
桃李羅堂前
曖曖遠人村
依依墟里煙
狗吠深巷中
鷄鳴桑樹巓
戸庭無塵雜
虚室有餘
久在樊籠裡
復得返自然

06/05/03(水) 薔薇

 

連休第1日目。主人は久しぶりに薔薇の世話。ずっとほったらかしだったのに、今年はなぜかしっかり育っている。薔薇という字は象形文字のように、薔薇そのものに似ている。ショウビと読むのは、高1の漢文で習った。当時はチンプン漢文であったが、なぜかこの詩は好きだった。初夏の暑い昼下がりが目に見えるようだ。

さて、我が家のショウビ、今年は如何に。

克陰濃夏日長
樓臺倒影入池塘
水精簾動微風起
滿架薔薇一院香