3月のひとりごと


07/3/25(日) 地震の恐怖

 

故郷で大変な地震があった。すぐに実家に電話した。すぐにつながった。弟は意外なほど落ち着いた声で、被害の程を教えてくれた。幸い、サイドボードが倒れた程度で済んだようだ。まだ、余震があるやもしれぬ。怖いだろう。年老いた父母はどうしているだろう。なんとかおさまって欲しい。

 

 


07/3/20(火) 身の程知らずの句会

 

1年ほど俳句ブログで遊んでいたが、ふと違うネット句会に投稿したところ、オフ句会があるというので、身の程知らずにも生まれて初めての吟行句会というものに行ってきた。場所は奈良。法隆寺と春日大社ということなので、本格的だ。結社のこともよくしらず、一面識もない方々なのに、このくそ度胸は俳句のことは何も知らない無知の強みなのだろう。

法隆寺に行くまでが一人旅なので、ドキドキものだった。なにしろ、地理に疎く、京都と大阪のどちらが奈良に近いのかもよくわかっていない。おかげで、新幹線の特急券を大阪まで買ってしまって、払い戻しはできなかった。

京都から関西線乗り継ぎ法隆寺駅に着くと集合時間にまだ30分以上あったので、食べそびれた駅弁「名古屋三昧」1000円を食べるところを捜したが見当たらなかった。しかたがないから、駅前のバス停のベンチに座って弁当を広げる。私の向かいの女性はタバコを吸ったあとサンドイッチを広げた。だから、恥ずかしくはなかったが、風が冷たくて少しでも日の当たるところを捜した。それらしき他のメンバーの方は見当たらない。弁当を食べ終わったあと、駅のトイレを借りに改札口に行ったら、そこに20人ぐらいの60代が目立つグループがいた。声をかけると間違いなかった。

挨拶をし、タクシーに分乗して、法隆寺。どこの句会にも属せず、自己流で作っているというと、季語の付け方などをいろいろ教えていただきながら、中宮寺、夢殿、五重塔などを回り、宿に向かう。夕食までに5句作らなければならない。

季語がわからず、携帯した季寄せをぺらぺらめくり、春の空とか落ち椿とか梅の香など適当につける。夕食の味もよくわからないまま、配られた短冊に5句書いて、提出した。その後場所を変え、いよいよ句会である。清記用紙というものに、順不同に分けられた5句をそのまま書き写す。それを隣の人に回していき、23枚の合計115句の中から、5句プラス特選1句を選んで行く。さすがにすぐれた句ばかりで、どれをえらんでよいか迷った。分けも分からず自分のカンを信じる他ない。

いよいよ披講となる。自分の書き写した句があると清記用紙に正を書いて行く。自分の句を読まれると名乗りを上げる。奇跡的にも私の句を選んでくださった方がいた。名乗りをあげることができたので、近くの方が喜んでくださった。ベテランの方でも名乗りができないこともあるという。

「古寺の屋根張替職人背すぢ伸ぶ」初めは背筋と書いたが、背すぢと直していただいたようだ。

私が選んだ句は他の方も選んでいるのが多く、選ぶ目もあると褒めていただいた。無事初めての句会が終わりほっとしていると、そこで終わらなかった、二次会があったのだ。体調の悪い方をのぞいてほとんどの方が参加していた。私はきいているだけにしようと思ったのだが、またまた、作らねばならない。今度は4句作るのだ。あせるばかりで句らしい句もできず、私は一度も選ばれなかった。選ばれたのは同人の句に集中した。

ところが、まだ句会は終わらない。今度は席題で、その場でお題を歳時記の中から選ぶのだ。お題は「耕し」と「雪柳」だった。時間は10分。10分で2題作らなくてはいけない。頭の中が真っ白だったが、なんとか短冊に書いて提出した。

「耕せば鷺舞い降りる棚田かな」 「花嫁の髪飾りたし雪柳」 両方とも選んでくださった方がいて嬉しかった。

部屋に戻ったのが夜中の1時、入浴し、床に入ったのが1時半だった。同室の二方は共に同人の方で同行させていただいた。次の日は6時起床で、朝食の後8時にはもう出かけ、新薬師寺、旧志賀直哉邸、禰宜の道を経て春日大社だ。

寒いと思ったら雪が降ってきた。風花にするか春の雪にするか、タクシーの中で盛り上がった。この時期は「春の雪」が正解らしい。あまり時間が早くて、新薬師寺も、志賀直哉邸も、喫茶店さえ開いておらず、私たちは春日大社の禰宜の道をひたすら歩いた。怖いような雑木林だ。馬酔木が多い。途中に50号ぐらいのキャンバスを二つ並べた画家がいた。

春日大社に近づくにつれ、鹿が多くなった。人がいても全く逃げず、帰ってえさをねだるように擦り寄ってくる。小鹿がかわいい。足が細く目が大きい。

春日大社に時間通りに集合し、宮司さんの説明を受けた後中でおいしい食事をいただいた。ここでまた句会である。寒さに震えながらなんとか作った中で2句選んでいただいた。

「万葉の恋物語落ち椿」 (額田王の娘十市皇女ゆかりの神社の椿を見て) 「春浅き参道遠く鹿立てり」

句会の後自由解散となり、メンバーの方に誘っていただいて旧直哉邸に戻り、見事な屋敷を見学した。私はもう句を作る気力は残っていなかったが、他の方はなにやらメモをしては句材を捜していらした。

帰りは同じ方面の方と京都駅までご一緒できいろいろお話できた。家につくと、ぐったり疲れた。脳みそのふだん使っていない部分を無理やり回転させた感じである。さて、私の句はものになっていくのだろうか?

 

 



07/3/16(金) 何につけ水洟のいでし春日かな

 

何年か振りにMさんご夫妻とスキーに行った。志賀高原はまだ十分雪があり、夜からは待っていたかのように雪になり二日目には新雪の焼額を満喫できた。

スキーの合間に、子どものこと、仕事のこと、健康のこと、老後のことなど話題にことかかない。話の合間にスキーをしに行ったようなものだった。落ち込んでいた主人も私も鬱積していたものを吐き出せ元気になれた。

娘のAちゃんはこの四月からめでたく名古屋市の教員になる。私も異動になるので同じ学校だったら、姪にしておこうと企んでいたのに、違っていた。おしめをしていた時から知っている人が同僚だったら嫌なものだ。彼女にとっては良かったかもしれない。

異動先も決まって、一人ずつ通知表をつくっていると、受け持ちの子の顔が浮かんだ。中国から来たやんちゃ坊主である。何度言っても上靴のかかとを踏んでいる。給食のお代わりができないと拗ねる。好きな女の子の言うことだけはちゃんときく。作文は三行しか書かない。

その日の作文も三行だった。わずか2年で口げんかでも負けないほど日本語が上手くなった賢い子どもだ。文章をきちんと書かせたいという想いから、私はつい強い口調になる。「そんなことでは4年生になれないよ。」

「ぼく、3年生でもいいよ。」「どうして?」「だって、4年生はS先生じゃないんでしょ。」

突然のことで、私は言葉を失った。S先生とは私のことだ。

2年間彼を受け持った。たどたどしい日本語を話していた頃、友達もいなくて私の後ばかり追いかけていた。この頃はすっかり手を離れていたと思っていたのに、私がいなくなるとどんな顔をするのだろうかと、かわいそうになる。通知表を早くつくらなくてはいけないのに、彼の言葉が頭を離れず泣けて泣けてしょうがなかった。

花粉症の季節ではあるのだが、何につけ水洟が止まらない時期でもある。どうか、離任の日は晴れやかな顔でいられますように。

 

 



07/3/4(日) 春が来た

 

 桃の節句も過ぎ、暦でも実生活でもすっかり春である。我が家の庭のあちらこちらに水仙の花盛り、むっとするぐらいの香りである。昨日のプール疲れか私はといえば、朝から体中が重くむくんでいる。

 学生の頃3月はまだ雪があった。卒業式は霙だった。もっと小さい頃は根雪が残っていたぽちっと黒い土が見え始めるのが嬉しかった。あの嬉しさが実感できず、私は春が来たことを素直に喜ぶことができない。