大唐西域異伝
〓序章〓

『玄娘、玄娘・・・』
心地よい声に私は眠っていた瞳を開いた。
いつもとは少しだけ違う朝。いつも声を上げて歌う鳥が沈黙し、風の流れは止まっていた。
『こちらへ・・・』
誘われるままに私は廊下に出て、声を追いかけて歩きだした。冬の冷たい空気にさらされた床は、ひんやりとしていて冷たい。
声は北の納戸まで続いていた。

納戸の中は重い冷たさで溢れていた。年代物の重圧が冬の冷気と共に体に襲い掛かってくる。
足元の冷たさだけでなく、私は全身にわたる震えを感じた。
冷たい息の先に荘厳な布に包まれた長い棒状の物を見つけ、それを手に取ってみた。重い。
納戸にはあまり入らなかっただけに、それ自体は初めて見たのだが、とても懐かしい様な気がしてならなかった。
『それを持ってまずは両界山においでなさい』
それっきり、声は聞こえなくなった。


しばらく納戸にいたが、やがて私は声の告げた『それ』を手にし、布を丁寧に外していった。
中から出てきたのは、良く磨かれた、しかし年代を感じさせる一つの錫杖。軽く円を描くと心地よい音がシャランと響いた。
錫杖の中心、ちょうど手のひらが当たる部分だけ色が違う。
そこに手を当ててみると、少しだけ暖かい感じがした。
「玄娘?」
錫杖に見入る私に声をかけたのは伯父さんだった。


「そうか、あの夢は本当だったのか」
なんの夢か説明もしないまま、伯父さんは私の言った話に納得して首を立てに振った。
私の目を覚ました透き通る様な声。手にした錫杖。順を追って話す私。
私の話が終ると、伯父さんは自分が見た夢を話してくれた。
それは偉大な僧、玄奘三蔵法師が夢の中に現れて私の手を引き、遥か西をまっすぐに指差すといった内容の夢。
「私・・・」
これも一つの運命なのだろう。玄娘。今からその錫杖は我家の家宝ではなくお前のものだ」
伯父さんは少し寂しそうな笑顔を私に向けた。


金山寺から西に向かってすぐ、私は大きな山に足をかけていた。回りには木も生えていないくらい荒れた土地。
山の頂上には大きな岩があって、それにとても興味がわいた。
ほとんど砂利道になっている山肌を登ると、そこには一枚の札。何百年か前の文字は、とても私では読む事は出来なかった。
それでも気になる私はその札に手をかけたのだが・・・、その瞬間頭上から私を怒鳴りつける声が鳴り響いた。
「そこの女! それに触れるんじゃねェ!」
「きゃあっ」
大きな風と轟音と共に現れたのは赤い髪の少年。
朱色の着物に虎の皮を腰巻にしたいでたちに私は驚いて声を上げてしまった。なんでこんな荒れ果てた地に人がいるんだろう。
「おい、女。とっととここから出てけ」
「ちょっと待って。それは何なの? なんて書いてあるの?」
気になってしょうがなかった。
少年はしばらく私の目を睨み付けていたが、やがて目をそらすと一言だけ私に告げた。
「ここには・・・俺の大事な・・・、大切な人を閉じ込めてあるんだ」
俯き加減で話す少年の語尾はだんだん小さくなっていった。
「大切な人・・・? 大切なのに閉じ込めるの?」
「うるせーな」
ぶっきらぼうに言葉をさえぎる少年。


その時、夢で聞いた声が私に届いた。そしてその声は私にだけではなく・・・。
『悟空、僕の封印を解いて。・・・玄娘、その札を剥がして下さい』
「さんぞ・・・」
少年の目がそれた瞬間を狙い、私はお札に手を伸ばし、それをはがした。
それから・・・、それからあっというまに辺りは光に満ち、七色の光が天上まで伸びるのを見た。
そこに現れたのは、私と同じ髪と瞳の色を持った・・・若く凛とした僧侶だった。


序章◆第二章


「三蔵・・・!」
私が驚くよりも先に赤毛の少年が僧侶の下に駆け寄る。
そして頭を抱えるようにその身を抱きしめていた。
「大丈夫だよ、悟空。僕はもう、どこにも行かないから」
落ち着いた、綺麗な声だった。


「あの…どうして岩の中に閉じ込められていたんですか? 言い伝えによると岩の中に封印されているのは
こっちの・・・悟空の方なんじゃないですか?」
赤毛の少年越しに私は三蔵さんに話し掛けた。少年よりも背の高い三蔵さんはゆっくりと少年をその身から剥がし、
そして私に悲しそうな顔を向けて少しだけ微笑まれた。
「それは…悟空が…。いや、また時期がきたらお話します。それよりもまず…」
三蔵さんはそのまま西を指差すとこう続けた。
「これから長い旅が始まりますが、どうか、あなたについてきて欲しいのです」


特に問題はなかった。
もともとそのつもりだったし、家族や友達にはちゃんと長く会えないことを伝えてきたから。
ただちょっとだけ気になったのは三蔵さんがあまりに気にしていること。
その謎はある場所にきた時、明かされることとなる。



悟空という名の赤毛の少年・・・大猿の妖怪と三蔵さんと行動をともにして数日後、
私たちは大きな門のある場所へと辿り着いた。
そこは霧に覆われ、昼間だと言うのに光は一筋も見当たらなかった。
その門の柱は両手を広げても足りないくらいの太い柱が両脇にあり、高さは小高い丘程度の高さがあった。
そしてその門の先は深い霧と黒い影によって見ることはできなかった。
まるで冥界に続く扉のように思われた。

「私たちはこれからここを超えなければなりません。・・・この時代に忘れ物はありませんか?」
三蔵さんが私に不思議な質問をしてきた。
この時代に忘れ物?
「いいえ、ありません」
よく分からないまま、私はそう答えた。すると三蔵さんは安心したのか、一度目をつぶり、口の端に安堵の笑みを浮かべると
まっすぐに私の目を見つめた。
「そうですか、ならば大丈夫ですね。・・・ですが、無理だけはしないでください」
たった一つだけ、三蔵さんは私に念を押した。それから悟空の方に向き直り、
「悟空、何かあったら彼女を守ってあげてね」
とお願いをした。
悟空は三蔵さんを見、不機嫌そうな顔で私の顔を見ると、たった一言
「おう」
とだけ答えた。

私たちはゆっくりと、しかししっかりとした足取りでその門に踏み出した。

門の向こう。・・・それは霧に閉ざされた過去の世界だった。