日長神社の御祭神
古代、尾張地方を開拓した尾張氏は、海上交通の要地であるこの地へ一族を派遣され、
その一族がお祭りしていたのが、日長命、日本武尊の二柱ではないかと思われます。
日長命は、熱田神宮に祀られている
景行天皇の皇子で、仲哀天皇の父。父の命を受けて西国に向い、熊襲のタケルを討ち、
「ヤマトタケル」の称を受けられました。その後、東征に向い、火攻めには倭比売命から授
けられた草薙剣で防ぐなど、荒ぶる神や蝦夷らの平定を成し遂げられました。
しかし、尾張の
らせた氷雨に当たって衰弱され、三重の能煩野で亡くなられました。
その御陵から白鳥が飛び去り、河内に留まったのち、再び飛び去ったといわれています。
有名な歌謡
「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」
農耕民族にとって、稲は最も大切な食物であり、稲そのもの或いは稲をはじめ五穀
を守護する神の存在が考えられ、ここに倉稲魂命となります。
延喜式の大殿祭の祝詞の中に
「豊受気姫命是稲霊也。俗謂ニ宇賀能美多麻」とあるのが注目されます。
京都伏見稲荷大社をはじめとする稲荷神社は、祭神に倉稲魂命を仰がれています。
社伝によれば、景行天皇の皇子日本武尊が御東征の折この地に来られ、里人に
この処の名及び日の暮れる方向を尋ねられたので、里人が畏こみて、「日は未だ
高し」とお答えすると、尊は喜ばれ、それでは此のところを「日高」と呼ぶがよい
と仰せられ、後に「日永」という地名になったと云われています。