ブツッ…
何かが切れるような音ともに、部屋の蛍光灯が光を失う。
それと同時に、都会の夜景までもが、その美しい姿を次々と闇に喰われていった。
「一体何が…?」
恭次の呟きは誰に届くこともなく、ただ、闇の支配するその部屋に低く響いただけだった。
が、それに呼応するかのように全てのディスプレイがいっせいに砂嵐の状態となって、
不快なノイズをそのスピーカーから叫び出した。
テレビも、街の巨大スクリーンも、もちろんパソコンの画面さえも、
全てが点灯し、白濁した砂嵐を表示しつづけていた。
その頃、世界はさらに重大な問題を抱えていた。
全ての電子機器によって制御されていたものがその電子機器の停止と以上によって制御不能に陥っていたのだ。
セキュリティ、ミサイルの発射制御とその目標を定めるコンピューター、
そのいずれもが完全に沈黙し、その画面は砂嵐を表示していたのだった。
そう、数年前全世界を恐怖に陥れた“Pluto Kiss”を再現するかのように…。
「ん?」
先刻と相変わらず砂嵐を表示しつづける画面を凝視していた恭次の目に、一瞬信じられない言葉が映った。
それは、映っていてはいけない文字、
しかし、それを確認するより早く、それはすでにその画面から消えていた。
「……」
無言で再び画面を注視する恭次。
そして、今度はくっきりと、疑い様もない文字がその画面に浮かび上がってきた。
“Perfectly Data Destroyer…”
そこまで見て、恭次は画面の電源を押した。
しかし、画面の電源は切れず、その不快な言葉を次々と打ち出し続けた。
画面いっぱいに広がったその言葉は、恭次を含め、この世界に生きる、
それを経験したことのある誰もが認めたくない存在。
かの有名な“Pluto Kiss”の元となったコンピューターウィルスでさえも犯すことのできなかった、
究極のネットワークシステムを誇る“ALTIMET”の包囲網を突破することのできるウィルス…。
それが今、全世界に一気に広がり、世界中のコンピューターの機能を停止させている、という事実。
“Perfectly Data Destroyer Virus”
と無数に表示されたディスプレイの、無言の内に語るそれの存在を、認識せざるを得ない真実。
いや、もしかしたら“Pluto Kiss”の時に、すでに布石が敷かれていたのかもしれない。
“Pluto Kiss”を発生させたコンピューターウィルスを作り出した少年ともあろうものが、
“Altimet”の存在を見落とすはずがない。
そう、“Altimet”の存在を知った上で、それにのみ通用しないコンピューターウィルスを作り出し、
さらに、その次に来るであろうAltimetのコンピューター時代に、
それにのみ強大な威力を示すコンピューターウィルスの自動的散布をする。
ここまでが、真の“Pluto Kiss”なのだ。
初太刀で全世界が滅びればそれでよし、よしんばそれを免れたとしても、
次に来る時代にはどうすることもできない強大なる真の太刀を回避することは、
その初太刀を回避したという安心感に浸っている人類には無理だと、
そこまで読み尽くしてそれらを弄んでいた彼の知能は、齢10歳にしてそこに生きていた人々はおろか、
さらに未来の人間の知能をも遥かに上回っていたということだろう。
認めたくはないが、といった風に恭次は歯軋りした。
あくまで推測に過ぎないその理論すらも、今では確実に真実味を帯びてきている。
「くそっ!」
恭次は、思い切り机を叩いた。しかし、どうすることもできない。
彼は、無限に言葉を表示しつづけるディスプレイにも、そして、あの10歳の少年にすら無力だった。
ネットワークの陥落による圧倒的な情報不足、制御不能となったコンピューターの暴走、
防衛コンピューターの機能停止による家宅侵入者の増加。
人間はネットワークの陥落や、コンピューターの機能停止による生活への影響には、
圧倒的に弱くなってしまっている。
それは、“Pluto Kiss”のときに、一番よく体感したはずである。
なのに、なぜ…。
そんな思いが恭次の中で反芻される。
なぜ、人間という生き物はこうも学習することなく、再び機械に頼ってしまうのか…。
何度同じ過ちを繰り返せば、人間という生き物は学習するのか…。
やり場のない静謐な怒りが、彼の身体を支配する。
もはや…、人類にはこの危機を脱する能力は残っていない。
“Pluto Kiss”は神の悪戯か、それとも悪魔の慈悲か…、
またはそのどちらでもないのかは判らないが、何とか脱した。
しかし…、奇跡は2度起きない。もう、“Pluto Kiss”の回復のときのようなことはありえない。
そう考えるだけで、怒りはさらに膨張していった。
「くっ…!」
恭次は頭痛がするかのように右手を額にあてた。
そして、ふらふらと左手を前に突き出し、パソコンのハードについた。
ヴーン…
ハードの起動音が、砂嵐の音にとって変わり部屋に響き渡る。
ディスプレイは、通常のパソコンの起動時に表示されるものと同じものを表示していた。
一瞬、何が起こったのか判らなかった。理解が遅れた、
とまでは行かないまでもほんの一瞬でも戸惑ったのは確かだった。
なぜ…、この状況でパソコンが起動する…?
そんな疑問が先ほどの怒りと取って代わって、恭次の体の中を満たす。
テレビの画面は、依然として砂嵐の中のあの異様な文字を表示しつづけているのに、なぜ…?
世界は未だ、暗闇に包まれているというのに、なぜ…?
そして、通常どおりにパソコンのメニュー画面に切り替わる。
何もかもが普通どおりだった。ただそれは、この状況下では“普通”ではなく“異常”だということだけが違っていた。
いや、この状況自体が“異常”なのだが、そんなことはどうでもよかった。
今は、このパソコンが十分普通に稼動するという異常さだけが際立って、恭次は思わずそれを操作していた。
普通に動く…。
異常はどこにもない…。
だからこそ、それが異常に見えた…。
彼は、迷わずにアクセスした…。
“Desirer”のログイン画面へ…。
そして、何ら躊躇うことなく、そのままその世界へ…。
ヴッ…ズ…ズザザッ…!
装着したFMDから、奇妙なノイズが鼓膜を揺らすが、気にならなかった。
あるのは、この事件の真相を知りたいという探究心と、僅かな畏怖だけだった。
そして、数秒後…。彼の視界は暗転し、そして…。
恭次の意識はそこでいったん途切れた。





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