「う…」
一瞬にして、恭次の目の前が明るくなる。何が起きたのか自分でもよくわからなかった。
ただ、そこは現実の世界ではなかった。
恭次が今まで“レイヴン”として、もう一人の自分を演じていた“Desirer”の“中”の世界、反仮想空間。
「何が…起こっているんだ…?」
今まで恭次がFMDを通して視認してきた、世界と同じ…。
違うところは、キャラクターが一人もいないところ…、
いや、ノンプレイヤーキャラクターを除く全員のキャラクターが、
この世界から忽然と姿を消しているところというべきか…。
もちろん、それは誰もログインしていない状態だからだが、その異様さはかなりのものだった。
いや、それだけではなかった。違いは、他にもかなりの数があった。
まず、コントローラーを握っているあの独特の感覚が手にないということ。
そして、視点の変更ができない。ずっと一人称視点のままで、変更ができないということ。
さらに、コントローラーを動かさなくても、現実と同じように行動ができる。
これは、恭次が今までプレイしてきた“Desirer”と違う。
直感的にそう感じた。
視覚、聴覚、触覚…。全てが現実と同じように体感できた。恭次はためしに、その辺の壁を殴ってみた。
「痛っ…!」
痛覚まで再現されていた。モンスターに攻撃されたときの痛みもこれで再現されたということだ…。
恭次は、今までやってきたようにレイヴンの装備していた剣を背中から抜いてみる。
黒い刀身をした剣は、今まで彼がFMDを通して見てきたものと全く同じだった。
すっと指にそれで切れ目を入れてみる。
その切れ間から紅いすじが、その指先を伝って地面に落ちた。
ここまで再現しているゲームではなかった。普通、ゲームで聞こえる街のBGMも、この状態では流れていなかった。
「一体どうなってるんだ…」
そう呟く恭次の台詞に答えを返してくれる人間は一人もいなかった。
恭次はその脚で自分のホームへと向かった。
なんとなく、なれない足取りだったがそのうちになれて、一応現実と同じように歩ける用にまでになった。
そんな時に、彼のホームのおどろおどろしい看板が見え始めた。
周りのどの便利屋の看板よりも、ひときわ目立つそれを見て、彼は苦笑する。
そしてホームに入った瞬間、その内装の悪趣味さに、恭次自身笑い出してしまった。
他人の目には、もっと恐ろしく映っていたに違いない。
普通のゲームなら、ここで彼のホームにあるパソコンをターゲットして、その中から依頼情報を探し出す。
しかし、今はそんなことはできない。
いや、ターゲットすらできない状態では、どうやって操作していいのかもわからない。
それでも、とりあえずその前にある椅子に座り、そのスイッチを入れる。
メニューは表示されず、すぐに依頼の情報が一覧となって出てきた。
「ん…?」
つい先ほど入ったばかりの依頼、それも、あの現象が起こった直後のものだった。
恭次の体の中を戦慄が駆け巡る。むさぼるように、その依頼内容を読んだ。
『さて、レイヴン君。君の腕を見込んで依頼したい仕事がある。』
そう始まった文章は、実に奇怪なものだった。
送信者不明、依頼人のアドレスも不明、そして必ずこういったものにつけられる、顔のアップ画像の欠如。
全てが異常だった。
そして、その依頼のさらに異常な締めくくりを見たとき、彼は一瞬目を疑った。
『@サーバー 閉ざ♂れ∴ 永∝の 地‡牢※ へ…』
「な…、このエリアは…!?」
恭次は、ありえない記号の羅列に思わず絶句した。
そう、ありえないのだ。こんなエリアは存在しない。
そして、考え事をするときはいつもそうするように、FMDを頭から外そうとした。
が、その手はレイヴンの黒髪に触れた。その髪がふわっと流れる。
「そうだったな…」
今は現実ではない。ゲームの世界にいる、ということを改めて実感させられることになった。
彼は思う…、
(“レイヴン”は依頼のえり好みはしない性質だったな…)
と…。
それは、ある意味この世界で剣士“レイヴン”を自分の力で演じる、という心の表れだったのかもしれない。
「さて……」
彼はそう言って、その椅子から立ち上がった。
その中には最早“狩野恭次”の意識はどこにもなかった。あるのは漆黒の剣士“レイヴン”の冷酷な感情だけだった。
彼は、ホームを出てまっすぐにゲートのほうへと歩いていった。
ゆっくりとした足取りで、一歩ずつ確実にゲートのほうへと向かって。
夜に設定された街の、月の光すらもかすむほどの美貌を持つ剣士は、ゲートの前でいったん止まった。
現れた機械を操作して、そのワードを打ち込む。
ヴゥゥン…
小さな音がして、彼の周りの世界が一瞬にして歪み、
その目の前には巨大な聖堂が聳え立つエリアへとその景色は変わっていた。


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