二人の出逢い
昭和23年7月21、22日と久野庄太郎が不在で会うことできなかった浜島辰雄は、3日目にやっと会うことができた。
「昭和19年の大旱魃がきっかけで、木曽川から水を引く計画を作ってみました。その後、少しずつ手直ししました。
新しい1/25000の地図があれば、およその計画図はできます」と浜島は言った。
久野は、
「地図なら、いまから亀崎の岡田前東海軍管区司令官の家に行ってもらって来ます。明日から現地を歩いて、地図を見て
用水計画図の作り方を教えてください」
と言った。
浜島は、
「私の作った古い地図を持って行きますから、もらってくる地図に新しい用水計画を入れましょう。そのため、用水計画の基点
となる尾張富士に登って、そこから、上流のことは後にして、下流に向かって2、3日歩きましょう。2、3日泊まるつもりで、
米と必要なものを持って、明朝8時、名鉄・神宮前駅のホームで犬山行きに乗ります。詳細は現地で決めましょう」
と約束して別れた。
愛知用水運動のその後の展開にとって、二人の出逢いはまさに運命的であったように思われる。
昭和23年7月24日 尾張富士に登る
8時ちょっと前に名鉄・神宮前駅のホームに久野は、作業服にリュックサック地下足袋姿で現れた。犬山行きの切符を用意して
犬山まで直行、犬山から逆に上飯田行きに乗り換え、羽黒駅下車。徒歩で尾張富士に登った。
第2日(尾張旭から豊明、7月25日)
第3日(大高から大府へ、7月26日)
当日は、長草付近で踏査を終わり、大府農協で慰労会をやってくれる約束があり、農協へ行く。浜島が図面に基づいて、いままでの
経過を説明し、久野から感想と感謝の言葉を述べた。
酒が腹わたに滲みこんで、知らず知らず涙が溢れてきたという。二人はその日は、自宅へ帰った。
第4日、第5日と踏査を続けた。