久野庄太郎年表

 

久野庄太郎(1900-1997

明治331115 知多郡八幡村(現在 知多市八幡)に、久野彦松、よし夫婦の長男として生まれる。貧乏百姓の子沢山で、家の手伝いか

子守で満足に学校に行けなかった。

 

明治43 10 八幡村立八幡小学校卒業、農業に専念。

農閑期の冬は、正月前後100日くらい地元の尾張万歳で出稼ぎに行った。100日で10円の仕事。8年間続けた。

 

大正中頃から終戦まで 韓国などから農業実習生を受け入れる。 

 

大正15 26 父の弟の久野惣太郎二女、はな と結婚する。

 結婚記念に仲間4人と海苔の養殖技術の指導を受け、種網を買ってきて前浜に置き、海苔の養殖を始めた。知多半島の海苔の元祖である。

漁船を購入して雑魚を獲り、売れるものは売り、大部分は乾燥して肥料とした。

豚を飼って豚の糞尿を肥料とし、久野家の農業は、多角的で耕地面積も収穫量も県下一といわれた。

 大正の中頃より、昭和の初めにかけて、農業に家畜を導入、耕作、運搬に畜力を利用し、同時に食肉用として現金収入をはかり、その糞尿で

有機物肥料を田畑に施して地力を増強させ、水田の裏作に玉葱や馬鈴薯の早出しによる有畜農業、多角農業が推奨されていた。

 そして、その頃、山崎延吉先生が推奨された有畜農業、多角農業の手本として、愛知県下の研農会にも名を連ねるようになった。経営改善、

食糧増産にあたった愛知県研農会での多くの人との出逢いがあり、後年、この人たちが久野庄太郎の愛知用水運動をバックアップしてくれた。

 また、獣医学の大家、加藤不二雄先生の指導を受けるというご縁をいただいた。

 先生からは、(1)自己の仕事を研究徹底させること。

         (2)常に偽りのない生活をすること。

         (3)後進に対して愛情を持つこと。

         (4)迷信を排除すること。

など、身をもって教えていただいた。

 

昭和10211 36歳 愛知県知事篠原英太郎から産業功労賞を受けて、同日、愛知県農業会賞を受けた。

 

昭和14年・19年・22 中部地区大旱魃。特に知多半島は災害激甚。ほとんどの水田の稲は立ち枯れ、青立ちとなる。

大旱魃に困り果てて、関係者の意欲は、後の愛知用水運動として結実することになるのであった。

 

昭和183月 44 父、彦松、69歳で死去。

肝臓病で二か月くらい病床にあったが、しだいに衰弱。主治医のすすめもあって、他の医者に診てもらうことにしたとき、彦松は、

「やめとけ、誰が診ても同じこと。こんなとき、あわてると、無駄金を使うだけ。」と、許さなかったという。

「人間ぐずぐずして長生きしていても無駄だ。働きまくって、早く死なねばいかん」、「人が、彦松はどうして死んだと聞いたら、

働き過ぎて死んだと言ってもらえば満足だ。畑を耕して鍬を打ち込んだが、どうしても、その一鍬が引き起こせないで、止むを得ず寝込んで死んだ

と言ってくれ」

と頼んで死んだ。

非常に質素な人で、一生涯、飯よりほかに美食の味を知らない人であったようだ。

 

昭和2010月 昭和天皇への御進講 

昭和天皇が、愛知県下の農業事情を御巡幸になり、その際、愛知県知事桑原幹根の推挙により、県下の農家の代表として、愛知青年師範学校

(安城市)において、農業事情を御進講申し上げた。話しながら泣けてきたその御進講に、天皇陛下も深く感激され、次々と御下問があり、

「この上とも農業振興については、しっかりやってください」

と言われた。

御前を退去して、廊下に出たとき全身汗。「ああ、俺はやるだ、陛下に頼まれただ、やらんおくべきか」

と久野庄太郎は、決心した。

 

昭和2155日 知多農村同志会を設立。初代会長に就任。市町村単位に支部を持ち、熱田神宮のお供えもの奉仕母体である豊年講とも表裏一体

となり、農業経営、農地改革の推進に協力した。以後この会は用水運動の強力な推進母体となった。

 

昭和2355日 山崎邸のつつじの会

 

昭和2356日 久野庄太郎は、用水運動の件で農林省京都農地事務局名古屋建設部に遠藤虎松部長を訪ねた。遠藤部長は、「県農地部長宮下一郎の

所に行くのが本筋だ」

と言った。

そこで、農地部長宮下一郎を紹介してもらい、久野庄太郎は、「ご存知と思うが、知多半島は用水がなく、旱魃で困っている。私は、これを救うには、

木曽川から用水を引くよりほかに道はないと思う。そこでこの用水造りが技術的に可能かどうか、専門家の意見を聞きに来た」

と来意を述べた。

 宮下部長は、係員を呼んで同席のもとに県としての意見をのべた。

「県は終戦後のいま、食料増産と復員軍人並びに海外引揚者の入植のために三川計画を緊急事業として進めている。三川計画というのは、豊川用水の

建設、矢作川用水の整備、木曽川下流の開発である。その細部については、それぞれ担当者から説明をさせます。」

と言って担当者が説明した。

「・・・・・次は木曽川下流の用水計画で、尾張東部、知多半島への疎水であるが、技術的可能性は充分にあり、効果もはかり知れないが、事業費が

膨大であるから、国家事業として推進することを期待している。」

 

昭和2357日 山崎先生の家に報告参上。 

「技術的な可能性は充分にあり、その効果もはかり知れないものがあるが、事業費が膨大で、県としては国営事業として推進する考えであるとのこと。

私は身命を賭し努力する決心です。どうか、先生の格段の御支援をお願い申し上げます」

とお願いし、山崎先生から、「よし、やろう」

と快諾をいただいた。

 

昭和2358日 県農業会知多支部に55日以来の木曽川用水の話の経過報告。

 

昭和2352122日 第1回現地調査 久野庄太郎、明日壁(あすかべ)京一(きょういち)、二人で木曽川上流の取水点付近の現地を調査。

 

昭和236月初め頃 久野庄太郎は、用水運動の指導者として緋田(あけだ)(たくみ)元特高警察官を迎える。企画院創設のおり、時の実力者であった岸信介に認め

られて、終戦前、愛知県下の航空機生産の督励のために中央より岡田(おかだ)(たすく)東海軍管区司令長官の幕僚として知多に派遣されて来ていた。

 

昭和23625 同志への働きかけ 地元有志による愛知用水実現の運動開始。

 朝倉(現知多市)の魚屋旭屋の2階で農村同志会開催の打ち合わせを行う。

 決定事項

(1)田植えが終わったら、農村同志会総会を開き、同志に用水建設を訴える。

 (2)半田市長に運動の中心になってもらう了解を取る。半田市長 森信蔵。

 (3)農業協同組合(農業会)に協力してもらえるよう訴える。

 (4)郡町村に運動の中心母体になってもらえるよう訴える。

 (5)以上をもって、県、国会議員に働きかける。

 森信蔵半田市長は、フーバーダムの話を持ち出し、「日本の戦後復興のためには、まことに時宜に適した計画である」と激励されて、用水運動の会長に

なることを快諾された。

中川益平武豊町長には、副会長を依頼した。中川町長は、安城農林11期生で、田村金平事務局長の1年先輩であり、山崎先生からも連絡があり、

知多郡町村会長として、地元をまとめる最適任者であった。

 

昭和2375 農村同志会総会開催 今後農村同志会が中心となり、出身町村の農家への用水建設計画の浸透、推進をはかる。

(1)  運動方針は、あくまで農民への趣旨の普及徹底をはかること。

(2)  運動者自身は私利私欲をはなれ、清潔な運動をはかること。

(3)  そのため、自身の運動費は自弁を建前として、その他はなるべく篤志家の喜捨による浄財に頼ること。

 

昭和2377 中部日本新聞 木曽川用水を知多に引水 尾張平野を縦断延々100キロの大運河 干害に悩む「半島の夢」

記事:「干害に悩む知多半島に木曽川の水を引こうと懸案の運河建設問題が郡内有志の間に真剣に取りあげられている。郡農業会田村次長、八幡町篤農家

久野庄太郎氏、知多地方事務所青木農地課長らが集まって、半島の発展には恒久的な干害対策と工業用水の設備が第一だと、近く知多開発期成同盟を結成、

同志に呼びかけることとなった。」

 

昭和23715日 久野庄太郎宅において県会議員、県農地部長、市町村長、知多農村同志会幹部が参集し、木曽川用水計画の説明を聴取。

 

昭和23718日 中部日本新聞 発展する知多の夢〜 その名も愛知用水〜 文化営農の基盤、この秋から運動〜

 

昭和23721日 718日の新聞記事を見た浜島辰雄は、衝撃を受けた。

「私と同じことを考えている人がいた!」昭和19年の大旱魃のときに、この惨状を解決するには、満鉄時代の経験により、木曽川からの導水以外にないと

考え、また、戦後の郷里も復興はこれしかないと浜島は考えていた。しかし、自分一人の力では何ともならない。まず子供たちを教え、仲間を作り、いつの

日か立ち上がることを考えていた矢先のことであった。

是が非でも久野庄太郎に会うことが先決であると考え、大府の桃山町の自宅から、知多郡八幡町の久野庄太郎の家まで自転車で1時間弱の距離を急いだ。

 

昭和23723日 二人の出逢い

 

昭和23年8月7日 農村同志会・愛知用水建設祈願祭を開催 農村同志会の用水運動初会合を武豊の堀田稲荷で開催。

決議事項

(1) 市町村長に強力に働きかける。

(2) 知多郡外、愛知郡、東西春日井郡、三河部にも働きかける。

(3) 水源地の現地見学会を実施する。

(4) 市町村学区ごとの説明会を開催する。

(5) 浪曲師三門博を招いて、「都築彌厚の苦心談」で人を集める(浪曲師の変更、梅ケ枝鶯と決定)。

 

昭和23810日頃 「愛知用水概要図」完成 

 

昭和23818日 農林省開拓局長との特別会議

「農林省開拓局長伊藤(いとう)(たすく)が来たる818日、豊明の中島に墓参に来る。ぜひ会って話しをするように」と三浦青一より久野庄太郎に連絡があった。

会合場所は豊明農業協同組合の日本間、午後2時。

久野庄太郎より用水運動の進捗状況を説明し、浜島辰雄より用水計画の概要を説明した。伊藤局長は極めて真剣に話しを聞き、郷里のことでもあり、

格段の努力を約束し、地元がまとまったら、農林省開拓局に陳情に来るように約束した。

 

昭和23821日 知多郡町村会での用水建設期成会設立

 

昭和23910月 市町村学区説明会の実施 浪曲「都築彌厚の苦心談」に聴衆が感激している幕間に久野が「愛知用水概要図」を掲げて説明。

話も聴衆を魅了して、人気を博し、各町村とも競って説明会をのべ70回開催。

 

昭和239月 木曽川下流取水用水組合への説明会

愛知用水の計画が新聞報道その他の形で報道されて、評判になったので、木曽川下流(犬山以下)取水の木津、宮田、羽島、佐屋川、筏川用水など

からの猛烈な反対陳情が愛知県農地部、農林省京都農地事務局名古屋建設部に出てきた。この状況を木曽川下流の研農会員、大口村の丹羽甚作から

聞いた山崎延吉先生は、丹羽甚作の仲介で、木曽川下流取水用水組合幹部に久野庄太郎を会わせ、愛知用水の計画を説明させる会を開くように依頼

された。その結果、9月中旬、犬山の木曽川河畔紅葉館で、費用一切、久野庄太郎持ちで開くことになった。

 久野は、「昔から木曽川の水で農業を営む皆様方にご迷惑をかけてはいけないことは、同じ百姓の立場でよくわかっております。そこで、木曽川の

上流にダムを建設して、雨水を貯水して、必要時にそのダムの水を取水して利用する計画でありまして」と、例の地図を掲げて、もっぱら低姿勢で

お願いした。説明は、名調子であり、皆さん聞きほれて、反発の声も出なかった。

 

昭和23101日 愛知用水建設期成会設立

 

昭和23122223日 愛知用水第1回東京陳情

 

昭和2441日 浜島辰雄、半田高等農業学校に転勤

 

昭和24725日 伊藤開拓局長の指示により、農林省の直轄調査が始まる。

 

昭和24915日 愛知用水開発期成同盟会結成

同盟会長には半田市長森信蔵就任。

 

昭和249月 同盟会と期成会が中心となりT.V.Aの考え方を愛知用水に当てはめて構想をまとめ、「愛知用水の趣旨と理想」と題する論文を完成した。

 

昭和2555日 森信蔵半田市長、世銀に橋渡し

期成同盟会長森信蔵は、全国市長会代表として渡米の際「愛知用水の趣旨と理想」を翻訳して世界銀行副総裁ガーナーに会って直接手渡し、借款を依頼した。

 

昭和25712日〜16日 高松宮殿下 愛知用水地域を視察

 根強く反対していた木曽川下流の農民へ、納得のいく説明ができるよう殿下は、手助けをされた。山崎延吉先生の説明、気の利いた冗談も手伝って、

大変爽やかに、双方をまとめる結果となった。

 

昭和261010日 農林省木曽川水系綜合農業水利事務所を名古屋市に開設、わが国初の調査事務所であった。

 

昭和26121日 愛知用水大規模農業水利改良事業国営施行申請を提出(久野庄太郎ほか15名)

 

昭和26年 ダムで水没する王滝村と三岳村が、ダム建設反対同盟を組織し、反対運動を展開。久野庄太郎は、村へ何度も足を運び、移転予定の140

全てを回って頭を下げ、理解を求めた。

 

昭和27831日 愛知用水事業の本格推進のため、浜島辰雄、教師を退職する。

 

昭和27116日 世銀中近東部長ドール、日本経済調査団長として来日。デ・ビルデ・ギルマーチン現地視察。日本政府によって

世界銀行融資につき最初の折衝。

 

昭和29718日より2月 世銀農業調査団来日。

 

昭和29717日 愛知農林物産株式会社の倒産。久野庄太郎破産宣告。

 

失意から再起へ

 

昭和30930日 愛知用水事業基本計画の概要告示

工事時期 :昭和30年〜35

工  費 :321億円(うち世界銀行借款700万ドル含む)

 

昭和301010日 愛知用水公団設立。名古屋に本部を設置

 

昭和3263日   愛知用水土地改良区理事長ら、事業実施計画の早急告示について農林省などに陳情

 

昭和3289日   世銀借款契約および政府保証契約調印

 

昭和32910日  農林大臣は事業実施計画に関する法的手続き完了の旨告示

 

昭和32115日  三好池工事に着手

 

昭和321117日 牧尾ダム工事(仮排水トンネル)に着手

 

昭和33120日  兼見トンネル工事に着手

 

昭和33611日  牧尾ダム補償協定書・付属協定書・覚書を三岳・王滝両村と締結

 

昭和33121日  長野県知事より牧尾ダム本工事実施許可あり、即日工事を開始

 

昭和34220日  三好池工事完了

 

昭和34111日  東郷調整池(愛知池)着工

 

昭和352月     顔戸(岐阜県可児郡御嵩町)頭首工完成

 

昭和35218日  兼山取水口工事開始

 

昭和36528日  牧尾ダム工事完了

 

昭和36622日  吉田元首相 完成した愛知用水視察

 

昭和36630日  松野池完成(13戸水没)

 

昭和36925日  兼山取水口 物故者慰霊碑 完成記念碑 除幕式

 

昭和36926日  牧尾ダム完成記念碑除幕式

 

昭和36930日  愛知用水通水式

 

昭和361217日 吉田元首相 東郷調整池完工式に来名

 

昭和37824日  農林省、公団、県、農民負担金の返還基本方針決定

 

昭和4051日  佐布里調整池完成

 

 

 

昭和51518日 知多市佐布里池湖畔に愛知用水神社、愛知用水水利観音(水利観音像を久野庄太郎寄進)を建立

 

 

昭和60228日 愛知用水建設負担金完納

 

平成948日  久野庄太郎、急性心不全にて成願 享年96

 

 

参考文献

「愛知用水年表」(独立行政法人 水資源機構 愛知用水総合管理所作成)、

浜島辰雄編著『愛知用水と不老会 用水建設に命をかけた久野庄太郎とその仲間たち』(発行所 財団法人 不老会)

 

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