山崎邸のつつじの会

 

                  image1006.jpg

山崎延吉先生は、例年5月5日、愛知県の篤農家を集めて作った研農会の有志に、農業の計画、農業の方針などを語る会を催された。

当日は、幡豆郡横須賀の鎌田由一の小麦の移植栽培について語る計画になっていた。過日、鎌田の圃場において検見の会が催され、

1反当たり15俵は間違いなく取れるという太鼓判が押されて、この日は顕彰会のようであった。

 

例年のごとく当日も出席した久野庄太郎は、期するところがあって、やや緊張気味で人の話を聞いていたが、一応の話の終わった頃、

立ち上がって、

 

「今日は私の一生の決心を話したいと思いますので、よく聞いて下さい。いま皆様の話を聞いていると、いろいろ新しい計画を立てて

おられますが、私の方では、計画を立てても実行できるかどうかは、お天気次第です。農業計画の中心は何といっても田植えでありますが、

皆様の地方では用水があって、いつから水を流し、何日に代掻きをして、何日に田植えを始め終わるか計画通りにできますが、私の方では、

悲しいかな、雨次第で、いつから田植えをし、いつ終わるか、お天気と池の水と相談して計画を立てねばなりません。

これは人間業でできることではありません。

そこで、私は今日を限りに農作業を家内にまかせて、木曽川から知多半島への用水造りに専念したいと思います。もちろん大事業で、私一代では

できないかも知れません。

あるいはできなくて、後世の人の笑い種となって死んでいくかもしれません。私はいま49歳です。親爺が69歳で死にました。私の定命が

69歳として、今から20年命がけで運動をして、用水の幅杭でも打っていただければ、満足して死んでいけると思います。」

と決心を述べた。

 

 その時、山崎先生は、厳然とした態度で、

「久野君、君のその話は前から僕に何回も話した。男がいったん決心したからには、やるがよかろう。わが輩も、長年にわたって、各地の農業経営

改善を指導してきたが、用水を造って経営改善することは考えてもみなかった。しかし、大事業である。しかるべき専門家に技術的に可能かどうかを

聞いてみる必要がある。技術的に可能性があるなら、わが輩も余生を傾けて協力しよう」

と激励された。

 

山 崎 (のぶ) (よし) 翁(18731954

 安城農林学校の初代校長。愛知県立農事試験場の試験場長も兼任し、農業の教育と実践の両面を生かして愛知県下の

農業振興に貢献し、“農聖”と呼ばれた。常に「我、農に生き、我、農を生かさん」を信条として、農村の振興と農民の

人材育成に勤め、その農政理論を学んだ教え子たちが関わった愛知用水の建設運動を支援した。地元での説明会のときに

聞く浪曲の曲幕を揮毫している。

 

image1005.jpg

碑文   農民道 「我、農に生まれ、農に生き、農を生かさん」

(知多市八幡字中島 地内)

元に戻る