愛知用水第1回東京陳情
農林省農地開拓局より、豊明村を通し、「年内20日以降、なるべく早く、愛知用水の建設促進の陳情に上京せられたし」の連絡あり。
愛知用水建設期成会の幹事会を開き、同時期の市町村長は年末多忙で上京はむりだというので、農村同志会で陳情することに決定。
昭和23年12月23日、朝、朝食をすませ、全員、予定時間に有楽町駅に集合し、例の地図を先頭に、農林省開拓局、毎日ビル2階へ
乗り込んだ。
伊藤開拓局長が、今日に至るまでの経緯を説明し、久野庄太郎が陳情団を代表して陳情の主旨を述べて、浜島辰雄が例の地図について、
計画の要旨の説明を始めた。
農林省側の中から大きな声で、「浜島! てめい、偉いことを考えたなあ」と言う人があった。陳情側も、陳情を受ける方も、
みんなびっくりして二人の顔を見た。浜島は、「あ!松田先生」と絶句した。
松田建設部専門官は、昭和13、14年頃、三重高等農林の農業土木担当教授で、陸上競技部の監督教官でもあった。
当時、浜島は、中距離の選手で、毎日遅くまで真っ黒になって練習をしていた。
10年ぶりの再会で、松田専門官から、嬉しさと驚きで昔の言葉が飛び出したということである。
このようなハプニングも、農林省側にはほほ笑ましく、興味深く聞いてもらって、好評裡に陳情も終わった。
農林省側をお送りして一休みしていると、緋田工が「ちょっと皆さん、集まってください。
今日の午後に得た警察情報ですが、昨晩無罪釈放となった岸信介が、弟の佐藤栄作の家に泊まっていると聞き、事情を話したら、
少人数の人なら会ってもよいと言うから、会いに行きたいと思いますが、いかがですか」と言った。
「それでは、久野、浜島、緋田で翌朝10時に会いに行く」ということになった。
昭和23年12月24日 予期せぬ岸信介氏訪問
吉祥寺の佐藤邸に10時前に到着。岸元商工大臣に緋田は、出獄のお祝いの言葉を申し上げ、今般の上京の理由を説明し、久野庄太郎が
例の愛知用水の大地図を広げ説明を始めた。聞き終えた岸信介は、「私が巣鴨から出て来た翌日に、こういう国家的大事業の話を聞くのは、
まことに幸せである。この話は私が聞くより弟に話して下さい」と弟を呼ばれた。
吉田内閣の官房長官佐藤栄作に緋田よりあらためて、それぞれを紹介し、久野は、例の地図を前に説明を始めた。
佐藤官房長官も、「この話は私が聞くよりも総理に聞かせて下さい。明朝10時に全員で総理官邸に来て下さい」と言われた。
久野は感激して涙を流しお礼を言って、明日を約束して佐藤邸を辞去し、待っていたタクシーで開拓会館に急ぎ帰った。
昭和23年12月25日 吉田茂総理大臣に直接陳情
佐藤官房長官から早く来るようにと催促があり、官邸の門衞にやっと入れてもらえ、急いで中に入った。吉田首相にさっそく地図を
広げて、久野は説明を始めた。
吉田首相から「食糧の増産量は?人夫はどれくらい使うか?」と次から次へと質問が出た。最後になって、吉田首相が大きな声で
「食糧増産、失業対策、よいではないか」と言われた。
5分の約束が、40分になってしまった。この陳情があって、農林省も昭和24年からの調査予算をつけるのにも自信を持って予算要求を
することができたと喜ばれた。結果、昭和24年より農林省は、愛知用水に対する直轄予算をつけることができた。