悠久の旅人
 故郷福井県を遠く離れ、美しい自然に囲まれた福島県の郡山市で、4年間の大学生活を過ごした。初めて家族と離れ、期待と不安を抱いて下宿生活が始まった。下宿のすぐ近くに、雄大な阿武隈川がゆったりと流れていた。夕食が終ると散歩がてら、仲間たちや時には一人でたびたび川原を訪れた。そして、草むらに寝転び満天の星空を眺めながら、遠く故郷を思う多感な青春時代であった。
 時にはその星空を眺めながら、無限の宇宙の広さを思う。そして小さな地球の、小さな自分の、悩みの小ささに気づかされ、元気づけられた。
 時にはその星空を眺めながら、自分はどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、と哲学者になる。そして、こう思う。「私は無限の宇宙の彼方からの旅の途中、この美しい地球を見つけ、ちょっと寄り道をしているのだろう。いつかまた、この地球から離れ、宇宙への旅人になるのであろう」と。

 あれから半世紀が過ぎようとしている。大学を卒業後、会社に就職し、家庭を持つことで現実の忙しさに巻き込まれ、星空をゆっくり眺めることも無くなってしまった。しかし退職し、時間の余裕が出来た今、ふと青春時代を振り返る時、なつかしく思い出される光景である。
 当時も今も、特に宗教心があるわけではない。若い頃は「馬鹿なことを空想していたものだ」と思っていた。が今は、青春時代と同じように、数が減った星空を眺めながら「そう信じれる方が幸せなのではないか」と思う年齢になって来た。
 そして更に思う。
 「次に立ち寄る旅人のために、この美しい地球を壊さずに残さねばならない。科学が発展し、便利な世の中を目指しているが、本当に次の旅人が喜ぶのであろうか。そして悠久の時間の中で、ちょっと立ち寄ったこの地球上で、旅人同志が争うことに何の意味があるのだろうか」と。
先輩、友人と語り合った阿武隈川の河原