鬼頭恭一から妹明子、三保子に宛てた葉書 5葉

                (提供/佐藤正知、明子)


本葉書公開にあたりましては、東京藝術大学音楽学部大学史史料室・橋本久美子先生に、たいそうお世話になりました。
ここに謹んで御礼申し上げます。 (2017.5.9 改訂)


 ( 昭和19年1月25日 )

 

(註) 恭一が所属した大竹海兵団は、昭和15年に広島県・呉鎮守府の呉海兵団大竹分団として設置され、翌年に独立した。
海軍兵として志願・徴用された新兵が数カ月間基礎教育と訓練を受け、その総数は15万人と言われている。
(大竹市歴史研究会・HPより)



 ( 昭和19年2月23日 )

 

(註) 三重海軍航空隊は戦線の拡大による航空隊要員の大増強の必要を補うために昭和17年、三重県一志郡香良洲町に開かれ、入門者が実機に触れるまでの基礎教育を担っていた。( Wikipedia より )  なお三重空在任中、明子は父・儀一と共に恭一に面会に訪れている。(詳細は「思い出すままに」参照) 
葉書の最後に「ピアノをしっかりやる事. これも大事な事ですよ. 何故だかわかりますか?」とあるが、恭一は戦争の終結がそう遠くない事を予測していたのかも知れない。




 ( 昭和19年3月14日 )

 

相変わらず明子のピアノの事を気にかけている恭一。自らが選んだ音楽の道を充分に果たせないもどかしさから、妹にその思いを託していたのではないか。



 ( 昭和19年9月14日 )

 

(註) 恭一は三重から九州・築城航空隊に移り、明子も名古屋の西、海部郡富田町春田 (現・名古屋市中川区春田町) の親族のもとに疎開していた。
この地域は鬼頭姓が多く、恭一の祖父・駒二郎もここから名古屋に出て酒問屋を興した。
なお疎開先の田舎の学校にピアノはなく、あるのは足踏み式のオルガンだけであった。
「兄はそのことを分っていなかったのでしょう」と、明子さんは振返る。
築城航空隊 (二代築城海軍航空隊) は、不足する航空母艦飛行機隊の再編のため昭和19年3月、福岡県築城郡八田津村で開隊された。( Wikipedia より ) 
恭一はその直後に転属した事になる。


 ( 昭和19年10月28日 )

 

( 註 ) 恭一から明子に宛てられた最後の葉書。妹の誕生のときの様子を振返る、優しい兄の心情に胸打たれる。
 旧明治節の11月3日は、酒問屋を営んでいた実家の「酒まつり」の日でもあり、妹・明子はこの日に生まれた。
( 詳しくは明子さんの「思い出すままに」をご覧ください)


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