鬼頭恭一メモリアルコンサート  
 ごあいさつ

        岡崎隆 (企画・編曲・ 指揮)  

 (C) 甲南学園



 本日は平日の夜にもかかわらず、「鬼頭恭一メモリアルコンサート」に足をお運びくださり、本当にありがとうございます。
 このような日を迎えることが出来るとは・・・十数年前、私が「鬼頭恭一」という名を初めて知った時には、想像さえしませんでした。

「この作曲家は名古屋の方みたい。あなた名古屋でしょ? 一度調べてみたら」

 日本の作曲家研究でお世話になっていた、音楽の現代社代表の小宮多美江さんから渡された一本のカセットテープ・・・それが私と鬼頭恭一 (以後「恭一」と記させていただきます) との出会いでした。
そこには1990年代、作曲者の実弟・鬼頭哲夫氏が行った兄・恭一氏に関する講演と、歌曲「雨」が収録されていました。聞けば鬼頭恭一は東京音楽学校で、あの團伊玖磨、大中恩と同期生だったと言うではありませんか。

 そんな才能溢れる若者が戦争のため音楽への志を断たれ、学徒動員で入隊した海軍航空隊で飛行訓練中、終戦のわずか17日前に事故死してしまったのです。恭一がほぼ唯一残していたのが歌曲「
雨」。その内容にも私は驚きました。南方で戦死した若者の遺骨が、故郷の愛する人のもとに帰って来る情景を描いたもので、彼が作曲にあたり、自らの行く末を重ねて書いたのは間違いありません。よくぞ言論統制の厳しいあの時代に、このような真情を吐露した作品を残してくださった・・・私は強い感動を覚えました。
「あの頃召集と聞けば、すぐ死を思い浮かべました。戦争というのは、本当に知らず知らずのうちに始まるのです」(恭一氏妹・明子さん)
 鬼頭恭一の悲劇を伝える事は、私に課せられた使命なのでは・・・と、さっそく自らのホームページ「日本の作曲家たち」に、鬼頭恭一を取り上げました。
しかし以後十余年、恭一に関する情報は何一つ得られませんでした。名古屋には鬼頭さんという名字の方が多数おられます。鬼頭さんにお会いするたび、「鬼頭恭一をご存知ありませんか?」と聞きました。しかし確たる情報は訪れてはくれなかったのです。
 そんな状態を破ってくださったのが、「秋水会」役員をつとめておられた柴田一哉さんでした。柴田さんを通じ、私は恭一のご親族とようやく知り合う事が出来たのです。従弟で日本大学名誉教授の佐藤正知さんは、「鬼頭恭一」の名をインターネットで見つけたときの驚き、そしてそれを奥様 (恭一氏・妹) に見せた時、「まるで奇跡みたい」と仰った、ということを後で伺い、胸が熱くなりました。
 間もなく佐藤さんから、鬼頭恭一に関する資料や楽譜が送られて来ました。私はそれらをまとめ、ただちに名古屋の主要放送局、新聞社各社にお伝えしたのです。
 嵐は静かに、しかし着実に訪れました。2015年4月30日、東京新聞と中日新聞に「早世の才能 音色響け」という記事が掲載されたのを皮切りに、その後朝日、毎日、読売、日経など主要紙のほとんどが恭一を取り上げてくださり、7月には恭一が大切に思っていた方が長く保管してくださっていた自筆譜・資料が発見され、恭一の母校・東京藝大キャンパスコンサートで初演、8月には代表作「雨」の初演、NHKによるドキュメンタリーの放映と続き、これまで恭一に関する新聞記事は12件、TVニュース、特集、ドキュメンタリー放送は5件に及びました。今年は戦後70年ということで、それに相応しい情報をマスコミは求めておられたのかも知れません。

 「戦争の季節」8月を過ぎ、嵐がやや収まって来たと思われた、ある朝の事です。何となくベッドから離れるのがおっくうで、今回の鬼頭恭一フィーバーについて思いを巡らせていた私の胸に、突如新たな思いがフツフツと沸き起こって来ました。これまで鬼頭恭一の音楽やその生涯について、本当に多くの皆様が関心を寄せてくださいました・・・次は鬼頭恭一研究そもそもの仕掛人たる私が、ご恩返しととなる演奏会をする番ではないだろうか、と思ったのです。

「次は、君がやってよ!」

雲上から、作曲者の澄んだ声が聞こえて来たような気がしました。
 恭一は東京音楽学校入学前の選科 (現在の予備校) 時代、満州国建国一周年記念楽曲募集に応募し見事入選し、七宝焼の立派な花瓶が贈られたことがありました。

「ベットに腹ばいになって、角砂糖かじりながら書いた曲が入って、申し訳ないことしちゃった」

恭一は恥ずかしそうに、白い歯を見せながら微笑んでいたそうです。そんな彼にあやかって、私も

「ベッドに腹ばいになって考えたコンサートに、こんなに多くの方が協力してくれて、申し訳ないことしちゃった」

と申し上げたい気持ちでいっぱいです。

 最後に、本コンサート実現のために温かいお心を下さいました皆様に、この場をお借りし、御礼を申し上げたいと思います。
 ご多忙のところ、このコンサートのために快く東京から駆け付けてくださった永井和子先生、森裕子先生、鬼頭恭一ご親族の佐藤正知さん、明子さんご夫妻、鬼頭正明さん、ナビゲーターの方、恭一が九州・築城航空隊で最後の音楽人生を満喫した貴重なエピソードを多数残してくださった故・讃井智恵子さんご長女の優子さん、東京藝大のいろいろな資料を提供してくださったアーカイブセンターの橋本久美子さん、7月のキャンパスコンサートの音源を提供下さった同事務長の増田威久さん、演奏者の音楽学部長でヴァイオリニストの澤和樹先生、渡辺健二先生。
そして高田三郎のデビュー作「山形民謡によるバラード」弦楽への編曲と演奏を快諾下さった、高田氏奥様の留奈子さん、信時潔「絃楽四部合奏」弦楽への編曲・演奏を了承くださったお孫さんの裕子さん、素人同然の指揮に目を瞑り、特別演奏会としての開催を快諾くださった名古屋パストラーレ合奏団の皆さんと、各方面のマスコミへ宣伝・広報をしてくださったコンサート・ミストレスの天野千恵さん、鬼頭恭一を記事として取り上げてくださった各新聞社の記者の皆さん、ドキュメンタリー放送でお世話になったNHK名古屋の皆さん、「雨」初演でお世話になった宗次ホール関係者の皆様、FM放送でコンサートの宣伝にお力を下さった愛知県立芸大の菰田勝さん、愛知一中同窓会で熱い励ましのお言葉を下さった河合恒人さん、私の先輩で、コンサートのチラシ・ポスターをいろいろな所に配って下さった名古屋音楽大学名誉教授の照喜名一男さん、そして作曲家・鬼頭恭一との出会いを持たせて下さった小宮多美江さん、「秋水会」の柴田一哉さん、コンサートのスタッフとして舞台裏で走り回って下さる「水のいのち」以来の盟友である私の地元・知多市の皆さん、その他数多くの皆様、本当に、本当にありがとうございました。(一部敬称略)

 奇跡のような年


     佐藤正知 (鬼頭恭一・従弟)、 佐藤明子 (同・妹)

鬼頭恭一 (音楽学校制服を着て)


 鬼頭恭一の遺作のすべてが演奏されるメモリアルコンサートが開かれることを、1年前にだれが想像できたでしょうか。 演奏してくださる東京藝術大學の永井和子先生、森裕子先生、名古屋パストラーレ合奏団のみなさん、そして10年以上にわたって恭一の作品と人生を追い求めてこられ、このコンサートの企画・指揮にも当たられる岡崎隆さんに、心からお礼申し上げます。

そしてもうお一方、秋水会の柴田一哉さんに衷心より感謝いたします。
昨2014年9月12日に、当時未知だった柴田さんから明子にかかってきた電話がそもそもの始まりだったのですから。この電話のなかで柴田さんは、名古屋であったある会合(当時日時・場所不詳)の席上、恭一の実弟・鬼頭哲夫が兄について語ったスピーチと、その場でテープによって紹介された恭一作の歌曲「雨」の演奏とが誰かによって録音され、その録音テープが名古屋フィルハーモニーの関係者のところにある、ということを知らせてくださったのでした。 柴田さんたち秋水会の方々は、太平洋戦争末期にB−29迎撃用に開発中だったロケット戦闘機「秋水」についてのテレビ番組を計画され、その準備過程で秋水のための訓練中に殉職した鬼頭恭一の名を知って関係者を探しておられました。

 その後10月4日に東京・田園調布駅近くの喫茶で柴田さんとお目にかかり、より詳しいお話をうかがったり、恭一に関する資料をお渡ししたりしました。そのあと柴田さんとは メールや資料のやりとりがあり、また上記「雨」の原テープをお貸しして、それをCDにしたものを送って頂いたりしていたのですが、そのうち10月末にふっと、鬼頭恭一の名前をネットで検索してみようと思いついたのが1つの転機になりました。まったく予想もしていませんでしたが、『日本の作曲家たち/ 10 鬼頭恭一 (1922 ~ 45)』という文章に行き当たったのです。A4 版で2ページ半程の文章で、上記の録音テープを提供された音楽評論家の小宮多美江氏と貴重な情報を提供された秋水会への感謝が添えられ、当時まだ一曲しか作品が確認されていなかった「雨」についての紹介と、恭一の生い立ちや最期の状況などが記されていました。そして文章の末尾には次の一節がありました:

「なおテープでは鬼頭恭一の実弟が、今後何らかの形で兄の作品を公開していきたい、という意向を語っておられたが、この件がその後どうなったかという事について、残念ながら私は情報を得ていない。願わくばこのホームページをご覧になった方で、鬼頭恭一について何らかの情報をお持ちの方は、是非お知らせいただきたいと心から願うものである」

 しかし、この記事の“発見”から指定されたアドレスにメールを送るまでには、1ヶ月半以上の時間が過ぎました。うまくいえませんが、予期できぬ結果についての惧れとでもいったものがためらわせていたのだと思います。ようやく12月19日になって送ったメールに対して間もなく返事をいただき、そこではじめて岡崎さんのお名前とプロフィールも知 りました。
 それからの展開は急速でした。今年の1月5日には、恭一の写真、「雨」および「鎮魂歌」の自筆楽譜のコピー、柴田さんから頂いていた幾つかの資料などを岡崎さんに送りました。このうち「雨」の楽譜は、1975年9月23日に海軍関係の同期生諸氏が名古屋で開いた恭一を偲ぶ会に讃井智恵子さんが東京から出席された際、その数日前に明子にこの曲の演奏を依頼して渡されたものでした。 明子は友人の三宅悦子さんに歌唱をお願いし、自分はピアノを受け持って必死の思いで練習、恭一が東京音楽学校の生徒だったときに住んでいた東京・東玉川の家で9月22日にカセットテープに録音して讃井さんにお渡しすることができました。このときのテープが、冒頭で記した哲夫のスピーチ(大須のロータリークラブで90年代後半と判明)の折にも使われたのでした。また「鎮魂歌」は、愛知一中で同窓でもあった同い年の従兄(正知の兄・正宏)が1942年2月にビルマで戦死したことを悼んで作曲されたものです。

柴田さんから頂いた資料の中には、上記「偲ぶ会」を予告した同年9月10日付朝日新聞名古屋版記事のコピーが含まれ、そこには讃井智恵子作曲・鬼頭恭一編曲の「惜別の譜」の写真も載っていました。岡崎さんは、その不鮮明な写真を判読して、この曲の浄書譜を作ってくださいました。その後も岡崎さんのご尽力により、さらに3曲の遺作が7月に見つかり 浄書されました。そして遺作曲のうち「鎮魂歌」、「アレグレット イ短調」(Pf 渡辺健二)および「アレグレット ハ長調」(Vn 澤 和樹、Pf 渡辺健二)の初演が7月27日に母校・東京藝術大学の奏楽堂で、また「雨」(Sp 成田七香、Pf 重左恵理)の初演が8月11日に名古屋の宗次ホールで、それぞれおこなわれました。
さらに、9月初旬に開催された藝大総合芸術アーカイブセンター大学史史料室の特別公開において、同史料室の橋本久美子先生のお骨折りにより恭一の遺品の数々が展示されました。

 この間、岡崎さんのご紹介もあって、新聞各社およびNHK名古屋等からたびたび訪問・取材を受けました。NHKからは7月27日の「ほっとイブニング」で同日の藝大演奏会の模様、8月28日の「ナビゲーション」で恭一の経歴と「雨」の演奏に加えて航空隊で1945年6月までご一緒だった大内恒三さん(91 歳、山形在住)のお話も収録、放映されました。またCBCテレビの「イッポウ」(8月13日)では、宗次ホールでの「雨」初演が、「秋水」の燃料容器用に使われた常滑焼のこととからめて放送されました。
 なお、柴田さんたちが計画されたテレビ番組は残念ながら実現されなかったようですが、書籍『柏にあった陸軍飛行場 ----「秋水」と軍関連施設』(上田和雄編著、芙蓉書房出版、2015年)が上梓され、そのなかで柴田さんが鬼頭恭一についてお書きくださっていることを書き添えておきます。

 哲夫は恭一の作品の公開を切望しながら2004年に亡くなりましたが、残された私ども遺族にとって今年はまことに奇跡のような年になりました。その奇跡のしめくくりともいえる今日のコンサートを迎え、関係者の皆様に重ねて深く御礼申し上げるとともに、二度と戦争によって若者の夢が断たれるようなことのないようにしなければという想いを強くしています。


鬼頭恭一メモリアルコンサート開催に寄せて 

      讃井優子 (讃井智恵子・親族)


讃井智恵子

 《鬼頭恭一メモリアルコンサート》が開催される事は、私ども讃井智恵子の家族にとりましても望外の喜びです。関係者の皆様に心よりお礼申し上げます。
 讃井智恵子と鬼頭恭一さんとが出会った時間はほんのわずかです。戦時下でありましたが、音楽を通じて充実した時間を過ごしたのではないでしょうか。
 夫の母讃井智恵子は、15年間認知症と付き合いながら、今年6月28日90歳で亡くなりました。戦後長いことピアノ・エレクトーン講師として音楽に携わってきました。おりにふれ鬼頭さんの魂は母の心を動かし、励まし続けてくださったと思います。
 母と鬼頭さんの最初の出会いは、御茶ノ水にあった東京音楽学校選科(当時上野の分教場と呼ばれていた)の入学式でのことのようです。鬼頭さんは15年秋入学、母は門司高等女学校を昭和16年3月に卒業しましたので、母の入学は16年4月と考えられます。入学年に若干ずれがありますが、ともあれ二人は出会いました。 
 戦況が悪化し(昭和16年12月8日、日米開戦)母は、故郷福岡県に17年3月に戻りました。戦前の三井物産に勤める父親の転勤に伴い福岡県小倉に住みました。ここで、いわゆる花嫁修業をしておりました。やがて小倉も空襲を受けるようになり、母達一家は、福岡県築上郡松江にピアノまで持っての疎開をしました。19年末には、働いていない人は徴用に採られるということで、近くの築城海軍航空隊で理事生(事務員)を募集していると母は聞き、面接を受けて採用されました。20年1月から働き始めました。
 海軍士官となった鬼頭さんと母とは、その築城空で20年4月に奇跡的な再会をします。すぐに鬼頭さんはピアノを弾きに、母の疎開先の家へ日曜ごといらっしゃいました。母も作曲法など教えていただいたようです。その鬼頭さんの思い出は、鮮烈な記憶として残り、母は昭和47年に「霞ヶ浦追想」を書きました。
 その後、数年経ってから、母は先の「霞ヶ浦追想」を補う文章(未完)を書きました。以前発表した作品には載せきれなかった思いを書こうとしたのでしょう。書いた時期は特定できないのですが、まだ認知症発症前で、鬼頭さんを先生と記しています。ほかに「ただ一人の弟子」と題したメモもあります。こちらは、切り取られたカレンダー裏に書付けてあります。平成12年9月のカレンダーで、母の認知症が表面化し始めた76歳のときのメモです。数行しか書けておりませんが、母は、鬼頭さんのことを生涯の師と仰ぎ、この題で鬼頭さんのことを書きたかったのだと思います。
残された母の未完の原稿に「ただ一人の弟子」と題を付け、この紙面をお借りして以下に披露させて頂きます。「霞ヶ浦追想」と重複するところもありますが、鬼頭さんのお人柄と音楽にかける情熱が良く伝わってくるように思います。