それは、ある小さな村に伝わる、鬼に出会った少年の話。 「おかあ、俺、裏山に仕掛けた罠を見てくるな」 抜けるような青空の下、一人の少年の声が響く。少年の名はソラと言い、今年でちょうど十になった。不ぞろいな黒い髪の下にある顔はまだ幼い。 「はいはい、よろしくね。山の御神木の向こうには・・・」 「行ってはいけないよ。そこには鬼が出るからね、だろ?」 母親の言葉を遮って得意げにソラは言う。 「そんなのもう耳にタコができるくらい聞いたよ。それに俺、もう十になったんだぜ? 鬼が出てきたって俺が退治してやるよ」 安心して、と胸を叩くと山に向かって駆け出す息子を、母親は苦笑しながら見送る。 「気をつけるんだよーっ」 その声が聞こえたのか、ソラは一度振り返ると大きく手を振り先を急いだ。 「くっそ・・・またはずれかよ」 獲物のかかっていない罠をぎゅっと握ってソラは小さく舌打ちした。 これで五つ目である。仕掛けた罠は五つだった。つまり、今日の収獲は無しである。 「くっそぉっ!!」 怒りに任せてソラは近くにあった木を思い切り蹴飛ばした。 「痛っ!!」 しかし木は少し葉を揺らしただけで、ソラは目に涙を浮かべながら、したたかにぶつけた足を抱えてぴょんぴょん飛び跳ねた。 「一匹も獲物なし・・・か」 どうしようかと途方にくれながら木の根元に座り込んだ時、不意に目の前を一羽の兎が跳ねていった。 「!!」 ソラは無言で立ち上がると、小走りにそれを追う。 できる限り足音を殺して、わき目も振らず。 そのためソラは大事なものを見逃した。 御神木―――鬼の住む場所への目印を。 ヒュっと、何かが風を切る音がして、追っていた兎が突然姿を消した。 「な・・・何?」 辺りは薄暗く、生温かい空気は重く感じた。 ポタリと、上から生温かいものが落ちてきて、額を濡らす。 手で触れるとそれはぬるりとしていて・・・。 「うぎゃっ!!」 それが何なのかを知った瞬間、ソラはその場で腰を抜かした。 ベッタリと手についていたものは、真っ赤な血だったのである。 気づけば、目の前の木々に大きな黒い影が映し出されている。 二つの角を持ったソレは、今、ソラの背後に居た。 逃げなければという考えだけが頭を支配するが、ソラの体はガタガタと震えるばかりで言うことを聞いてくれない。 「い・・・嫌だ、くるなぁっ!!」 一歩一歩近づいてくる相手に、その場にあった木の枝を拾い、ぎゅっと目を瞑って振り返ると、今にも自分を食らおうとしているであろう相手に向かって振り回した。しかし、それは空を切るばかりで相手には当たらない。 瞼の裏に家族の笑顔が浮かび、次の瞬間に来るはずの痛みを覚悟する。 「なーんだ、ガキか」 しかし、予想に反して、そんな声がソラに降ってきた。 恐る恐る目を開けると、そこにしゃがんでいたのは同い年くらいの少年だった。 その少年が手に持っていたのは、ソラが追いかけていた兎で、さっきの血はこれかとボンヤリ思う。 「だ・・・誰・・・」 混乱したまま、まだ震えの収まらない声で尋ねると、目の前の少年はニカリと笑った。笑った口からは二本の鋭い犬歯が覗く。 「俺か?俺は鬼だ」 その瞬間、ソラははっと我に返る。 そう名乗る少年の髪は赤く、瞳は金色で耳が尖っていた。 おまけとばかりに髪から姿を覗かせているのは二本の角。 「お、鬼だぁっ!!」 ようやく自由になった体で立ち上がり逃げ出そうとする。 途端、ガッシリと足をつかまれた。 「待てよ」 ベシャリと景気よく顔面から地面へ突っ込む。 落ち葉で覆われた地面は普通より柔らかかったのが幸いしたが、痛いものは痛かった。 プツンと音を立てて、ソラの中で何かが切れた。 「わあああぁっ!!」 そう叫びながら足をつかむ相手に殴りかかる。 その時のソラの頭を支配していたのは、この相手を倒さなければ命はない、と言う考えだけだった。 「な、何だよっ!!」 いきなり殴りかかってきた相手に驚きながら、鬼はひょいとそれを避けた。 鬼を倒そうと渾身の力を込めた拳は、スカっと音を立てて空を切り、ソラは勢い余って顔面から鬼の向こうにあった木に突っ込んだ。 ゴンっという音に鬼はぎゅっと目を閉じる。 そして、そろりと目を開けた鬼の目の前には、したたかに頭をぶつけたソラが、目を回して倒れていたのだった。 パチパチと火のはぜる音がして、ソラは目を覚ました。 まだズキズキと痛む頭を押さえながら起き上がると、草の敷き詰められた寝床のようなものに寝かされていたのに気づく。額には、薬草が貼り付けてあった。 「俺・・・」 自分のおかれた状況がとっさにわからず、ソラは少し首を傾げたその時、不意に声をかけられた。 「あ、起きたのか?」 声をかけられた方を向くと、そこには鬼がいた。鬼は、パチパチとはぜる火を前に何かを焼いていた。 ソラが警戒してあとずさると、鬼はケラケラと笑う。 「まあまあ、取って食ったりしないんからさ、とりあえず座れよ。食うか?」 そう言いながら、よく焼けていい匂いのする兎の肉を差し出してくる。その匂いに、ソラの腹がグウと鳴った。 「え・・・あ・・・ありがとう」 飢えに負けたソラは、状況のつかめないままそれを受け取った。 それにかぶりつきながら、もしかしたら、と考える。 「なあ、手当てしてくれたのって、お前?」 そう首を傾げると、鬼はニカリと笑った。 「ああ、額から血が出てたからな。もう大丈夫か?」 そう尋ねる相手は、日ごろ大人たちから聞かされていた人間を食べる化け物の姿とはあまりにかけ離れている。 不思議に思ってソラが尋ねると、鬼は声を上げて笑った。 「なんだよ、俺は人間なんか食べないぜ?人間を襲ったことも無い。そんな話、どこで聞いたんだ?失礼なやつだなあ」 「ふぅん・・・じゃあなんでおとうやおかあはあんなふうに言ったのかな?」 首を傾げると、鬼も同じように首を傾げて、少し悩んだあとこう言った。 「怖いからだろ、やっぱり。鬼とかそういうのって得体が知れねーじゃん?」 他人事のように言う鬼に向かって、ソラは笑った。そして、空が真っ暗なことに、はっと気づく。 「って、俺帰らないと!皆が心配する!!」 既にとっぷりと日は暮れていた。罠を見てくると言ったきり帰らない自分を家族は心配しているだろう。 すると、鬼は少し寂しそうな顔をした。 「そっか・・・帰るんだよな」 その呟きにソラは少し目をパチクリした後、笑って言った。 「えっと、また遊びに来てもいいか?」 その言葉に、今度は鬼が目をパチクリする。 「でも、俺、鬼だぜ?怖くないのか?」 「初めは怖かったけど、今は全然。だって、お前悪いやつじゃないんだろ?」 そう言い、友達、と手を差し出すソラに、鬼はほおを髪の色と同じくらい赤く染めた。 「遊びに来たいんだったらいつでも来いよ、俺様が遊んでやるからな!!」 照れ隠しのように早口で言いながら手を握る鬼に、ソラは笑う。繋いだ手は、自分と同じように温かかった。 「じゃあ、またな?」 そう手を振って立ち去ろうとするソラを、鬼は引き止めた。そして、いまだ赤い顔を逸らしながらこう言う。 「夜の森は、狼とかが出て危ないから、ふもとまで送ってやるよ」 ふもとへの道を二人で歩く途中、なにやら騒がしいのに気づく。 何事かと顔を見合わせたその時、二人の前に一人の男が現れた。 村で見知った男だったため、ソラは大きく手を振る。 「ソラが見つかったぞー!!」 その男は、そう後ろに向かって叫ぶと、ソラの隣の鬼を見た瞬間、サァっと顔を青くした。 そして、先ほどよりも大きな声で、叫ぶ。 「鬼が出たぞー!!!」 瞬間、周りが大きくざわめいた。 鬼は、つかんでいたソラの手を離すと身を翻して森の奥へ逃げていく。 「あっ・・・」 引きとめようとソラが伸ばした手は空を切った。 男たちはすぐにソラを囲むと、数人を残して鬼の逃げていったほうに駆けていく。 「大丈夫か?ソラ!!」 父親に駆け寄られてソラは顔を上げた。 ソラの服は血に汚れ、頭には怪我を負っている。それを見て、父親はサァっと青ざめた。 その血は兎のもので、頭の怪我はソラが自分で付けてしまったものだとは、思いもしない。 父親は、村の男の一人と目配せして頷きあった。 「もう大丈夫だからな、ソラ。鬼は父さんたちが退治するから、ここで待っていろよ」 息子を安心させようと父親の発した言葉はソラを仰天させた。 ソラを待たせて、自分も鬼退治へ向かう父親を追いかける。 「ちょっと、おとう!違うんだ!!」 そう呼ぶ声は相手に届いていないのか、父親との距離は広がるばかりでソラは泣きそうになる。 暗がりの中、走る速さを速めると、木の根に躓いて転んだ。 「待ってよ!!俺の話を聞いてよ。違うんだ、鬼は悪いやつじゃないんだ!!」 その声もむなしく、父親の影は森の奥へ消えた。 遠くのほうで、『見つけたぞー』と言う声が響いた。 こぼれそうになる涙をぐっとこらえるように地面に生えた草を握り締めると、ソラは痛む体を叱咤して立ち上がり、父親の消えたほうへ向かって走り出す。 父親たちを止めるために。 彼らの誤解を解くために。 暗闇の中を走って走って、ようやく御神木のところまで来たとき、ソラは足を止めた。 そこは、夜だというのに、村の男たちの持つ松明のおかげで、昼間のように明るかった。 照らし出された御神木の幹に、縫い止められた小さな影。 ソラは、すべてを悟ると男たちの静止する声と手を振り切ってその影に駆け寄る。 「・・・どうして・・・」 抱きしめたその体は、多量の血に濡れ、生というものを感じさせない。 その身が再び 立ち上がり、声を発し、笑うことは・・・もう、無い。 「――――――っ!!」 声にならない悲鳴が村中に響いた。 少年の目からこぼれる涙が、鬼の骸に付いた血を洗い流していく。 鬼の骸を抱きしめて涙を流す少年を、その父親が連れ帰ろうとするが、少年は頑なな力でその場から離れようとしなかった。 その少年の泣き声は、三日三晩村中に響き渡ったあと、4日目の朝ふっつりと消えた。 少年と鬼が居たあの場所には、もう何も、誰も居ない。 そして、鬼の居なくなったはずのその村に、今もなお伝わる話がある。 『裏山の御神木の向こうには行ってはいけないよ。そこには鬼が出るからね』 少年は鬼になったのだ。 友を失った哀しみ故に。 あとがき→ |