安部幸明の代表作=
「アルトサキソフォーンと管弦楽のための嬉遊曲」の思い出

                 岡崎 隆 (2005.10)

      

壮年期の安部幸明氏。(写真提供=音楽の世界社/以下同じ)
私が1969年に京都で「嬉遊曲」を演奏した頃、氏は常に蝶ネクタイをし、とてもダンディなイメージだった。

(文中では場面に応じて、敬称を略させていただいております。どうぞ悪しからずご了承ください)



「嬉遊曲」との出会い〜あるアマチュア・オーケストラでのエピソード


 1969年、京都に誕生したばかりのアマチュア・オーケストラ=京都市民管弦楽団によって、ある邦人作曲家の作品が演奏された。曲は京都市立芸術大学の音楽学部長であった安部幸明の「アルトサキソフォーンと管弦楽のための嬉遊曲」。アルトサキソフォーン独奏は日本を代表するサキソフォーン奏者・阪口新、指揮は伊吹新一であった。
 当時京都の某大学オーケストラでコントラバスを弾いていた私は、この誕生ほやほやのアマオケが奏者不足という情報を聞きつけ、オケ仲間の何人かと共に、あつかましくも毎回顔を出して、一丁前の団員面をしていた。

 ある日のこと。「今度の定期では京芸の先生の作品をやるそうだ」という情報が団内に流れた。私は、正直なところがっかりしたのを、よく覚えている。音楽をかじりかけたばかりの若僧の常、まずベートーヴェン、モーツァルト、ブラームスのような名作を弾いてみたいと思っていたのだ。それに曲目はサキソフォンのためのコンチェルトだと言う。私には「サックスなんて、場末の酒場を題材にした演歌のパックに流れる、俗っぽい楽器だ」という勝手な偏見もあった。

 ところが独奏者の阪口新氏が初めて登場した最初の練習の時、私はサキソフォンの、それまで全く聞いた事のないような詩情溢れる美しい響きと説得力とに、すっかり圧倒されてしまった。それに、京芸の名前を聞いた事も無い作曲家の作品も、心配していたような現代音楽っぽさは無く、とても親しみやすく魅力的な曲だった。洗練されたユーモラスなリズム、それに、ノスタルジーを沸々とさせる情感に溢れたメロディ・・・私はいつしかこのディヴェルティメントを演奏する喜びに浸っていたのである。オーケストレーションは至ってシンプルで、技術的にそんなに困難では無かったことも、未熟だった私にはプラスになっていたかも知れない。
 これが私と安部幸明の「アルトサキソフォーンと管弦楽のための嬉遊曲」との出会だった。
この出会いがきっかけとなって、私は邦人の作品に対して興味を抱くようになり、とうとう現在ではその発掘・啓蒙をライフワークとしてしまっている。
 すべては、30数年前のあの京都での出会いが出発点だったのだ。

 さて、コンサート終演後の打ち上げパーティで「せっかくわしの曲が演奏されるというのに、京芸の連中はあまり聴きに来なかったな」と作曲者・安部幸明先生はブツブツ呟いておられたものの、終始上機嫌なご様子に見えた。
 挨拶にたった独奏者・阪口新氏は、きっぱりとした口調でこう語った。
「皆さんのオーケストラはまだ生まれたばかりで、いろいろ大変な事もあるだろうと思います。しかし、クラシック音楽を演奏しているということに、どうか一人一人が誇りを持っていただきたい。クラシック音楽というのは、その生涯をかけるに余りある、素晴らしいものなのですから」
 この世界で頂点を極めたプレイヤーの言葉は、音楽に対して漠然とした指向を抱き始めていた私にとって、この上ない説得力を持っていた。「クラシック音楽を、これからも演奏して行きたい!」・・・私は密かに決意を新たにしたのである。


「嬉遊曲」との再会〜原点への回帰


 それから数十年後、私の所属するオーケストラ・名古屋フィルに、私のコントラバスの師匠である西出昌弘氏が客演に訪れた。リハーサル後の夕食時、話はいつか遠い日の京都市民オケでの安部幸明作品の演奏に及んだ。西出氏は前記のコンサートの頃京響の首席を勤めておられ、「嬉遊曲」の演奏にも参加していたが、私は西出氏と安部先生が親友、という事実をこの時初めて知った。そして「安部先生に何かの形でお礼がしたい!」と強く思うようになったのである。

 安部幸明氏 (1997年ころ)



 折しも2004年1月18日, 東京・池袋の芸術劇場大ホールにおいて、安部幸明の交響曲第1番が演奏される、という情報を得た。(小松一彦指揮/新交響楽団)  私は矢も盾もたまらず新幹線に飛び乗り、この演奏会に駆け付けた。
 開演前のロビーを見渡した時、30数年前に初めてお会いした時とはまったく異なり、ひと回り小さくなった安部先生が杖を片手にひっそりと座っておられた。多くの人々が次から次にと先生に挨拶に訪れる。そのひとりひとりに笑顔で答えられる安部先生。間合いを見計らって、私も安部先生の元にそっと近寄った。
「先生! 、名古屋の岡崎です。京都市民オケではディヴェルティメントで本当にお世話になりました」
「ええっ? あ、あぁ、あの時の・・・」
あとは言葉にならなかった。握りしめた先生の両手は細く、握力も弱々しかったが、とても暖かだった。
 ようやく私は先生に、思い出の曲「嬉遊曲」の浄書楽譜の作成をやらせてくださいとお願いした。
「あれはねぇ、オケ版もあるんですよ。とてもいいから、又是非どっかで演ってくれないかなぁ」
先生は遠くを見るような澄んだ目で、ポツリと呟かれた。
 この「嬉遊曲」はもともと1951年、ピアノ伴奏で書かれている。私が安部先生に申し出たのは、もちろん1960年に管弦楽伴奏に編曲された版である。コンサート終了後、私は直ちに日本近代音楽館や安部幸明の自伝を出版されている音楽の世界社の小宮多美江さんにお願いし、「アルトサキソフォーンと管弦楽のための嬉遊曲」自筆譜のコピーを入手し、浄書譜の作成に取りかかったのである。
 実はこの作業はたいそう楽だったことを、ここで改めて記しておきたい。
安部幸明の譜面は、他の多くの作曲家のものに比べたいそうシンプルで凝縮されたもので、その結果音符の入力作業が流れるようにでき、結果浄書譜は驚くほど早く完成したのである。しかし、だからといって決して軽く書きなぐるといった内容ではもちろんなく、安部先生の譜面は過剰な装飾を極力排し、その結果限られた音符がそれぞれに強いインパクトを持つという趣きであるように、私には感じられた。


 「嬉遊曲」の浄書譜を先生に



 数日後、完成した譜面を私は直ちに安部先生にお送りした。
しかし・・・いつまでたっても先生からのお返事が無い。ひょっとして先生は私の浄書楽譜の出来具合いに不満で、それでお返事をいただけないのかな、などと不安を感じ始めていた頃、安部幸明研究で知己を得た田口富子さんから、安部先生が4月1日に脳硬塞で倒れた、という知らせを受けた。現在は介護ホームに入所され、治療とリハビリの毎日だという。

 その4か月後の8月、突然安部先生から私の元にお手紙が届いた。その筆跡はまことにしっかりとしており、とても卒中で倒れた90過ぎのお年寄りのものとは思えず、私はひとまずホッと胸をなでおろしたのである。そして嬉しい事に、先生は私の作った浄書譜について
「私の嬉遊曲が大変美しい出版物に化けているのに感心、タテにしたりヨコにしたりして、ながめ喜んでいます」
と書いてくださっていた。私は何ともいえぬ嬉しさで、胸が一杯になった。これまでは戦前の、ほとんど物故した作曲家の作品の浄書化ばかりに取組んで来た私にとって、戦争中に他界した尾崎宗吉(1915 〜 1945 )よりも年長の作曲家に浄書譜を評価して頂けたことは、私にとって何よりの得難い体験となった。そして、これからもこの地道な作業を続けて行こう、というエネルギーをいただいたのである。
 30数年前の京都市民オケでの「嬉遊曲」演奏の際に安部先生からいただいたご恩に対し、少しでもお返しの真似事が出来たのかな、とふと思う今日この頃である。



 安部幸明「アルトサキソフォーンと管弦楽のための嬉遊曲」第2楽章冒頭

  一度耳にしたら忘れられない、「鼻歌」の極致・・・



(画像使用許諾/安部幸明)