日本の作曲家たち/ 1 橋本 國彦

                            (1904〜1949) 
                       写真=橋本國彦/歌曲集 (日本ビクター/1972)より

  (2021.10.8 書き換え)

※文中では橋本氏のお名前を「國彦」「国彦」の2通りで表記しています。これは直筆譜の記名が戦前は「國彦」、戦後は「国彦」となっており、作曲者の意図を思い判断した結果です。どうぞご了承下さい。(文中敬称略)

橋本國彦についてのお問い合せはこちら


橋本國彦/作品一覧表 (2009.7)
橋本國彦/コンサート・楽譜情報履歴


 戦前日本音楽界のリーダー的存在だった橋本國彦


 橋本國彦は明治37 (1904 ) 年9月14 日、東京本郷の弓町にて橋本源次郎の次男として生まれた。
幼くして大阪に移り、大阪府立第一中学校を卒業後、東京音楽学校本科器楽科 (ヴァイオリン)に進み、昭和2 (1924) 年に卒業後は研究科 (現在の大学院) において器楽・作曲を修めた。昭和9年から12年まで文部省留学生として欧米に遊学し、フェリックス・ディック、チャールス・ラウルトップ、エゴン・ヴェレシュらに指事し、またアロイス・ハバ、エルネスト・クシェネック、そしてアーノルド・シェーンベルクら当時の前衛作曲家たちの門を叩いた。
 帰国後は母校に籍を置き、嘱託、講師、助教授、教授と昇進した。作曲のほか、ヴァイオリン演奏や指揮もなした。

 橋本國彦の作曲活動は大正14 年頃、歌曲の分野から始まった。
当時の我が国音楽界はドイツ音楽が主流で、橋本もドイツ・ロマン派の技巧から出発したが、フランスに留学した詩人・深尾須磨子との出会いが、橋本の音楽に決定的な影響を及ぼすこととなった。深尾の現代詩にふれ、その自由なスタイルに触発された橋本は、やがてドヴュッシー、ラヴェル等のフランス印象派の音楽に関心を示す。昭和3(1928) 年秋に発表された深尾須磨子の詩による「斑猫」(はんみょう) は、橋本の音楽の方向を決定的にした。そう、日本古来の音楽を洋楽の手法で再構築する、という半ば不可能とも思えるテーマに、彼はこの作品で果敢に挑んだのだ。深尾は詩の分野だけでなく、パリ留学中はあのフルートの神様・マルセル・モイーズに習ったこともあるというモダニストであった。深尾の斬新な手法を取り入れた現代詩を歌曲にすることは、当時としてはたいそう勇気の要る事であり、歌曲「斑猫」がセンセーショナルな話題を呼んだであろうことは想像に難くない。
 翌年、やはり深尾の詩に作曲した「舞」は、前記の橋本の音楽指向の頂点に立つ傑作として、今日でも高く評価され広く演奏されている。この「舞」の詩は、深尾が六代目菊五郎の「娘道上寺」に接し、そのあまりの見事さに触発され、憑かれたように一気に書き上げた一篇である。橋本はこの詩のなかから、日本語が持つ表現力を、歌と語りとを絶妙に組み合わせる事により、それまでにまったく例のない新しい形式の、演奏時間10分にも及ぶ歌曲として創造することに成功した。「舞」は橋本や深尾らのサロン的な常連であったソプラノ・荻野綾子によって初演され、またその伴奏部分はのちに高名なフランス人指揮者・コッポラによって管弦楽に編曲され、荻野のソプラノ、コッポラ指揮パリ音楽院管弦楽団によりビクターに録音されている。この録音では、前記のマルセル・モイーズがフルートのオブリガート部分を担当しているということである。音楽評論家でバリトン歌手の畑中良輔はその学生時代この録音に無性に惹かれ、SPを何度も何度も、それこそ盤が擦り切れるほど愛聴されたという。まさに絶妙の名演である。
 昭和初期、歌曲作曲家として大きな注目を集めた橋本であったが、やがて彼の関心はオーケストラ曲の作曲、指揮へと移って行く。東京音楽学校で和声学を受け持つ橋本は、畑中によればいつも仕立ておろしのようなダブルの背広で教壇に現れ、その端正な風貌もあって女子学生の憧れの的であったという。一方、授業の合間に脱線して語られる「パリの女たち」の話を、男子学生たちはいつも楽しみにしていたという事だ。

 昭和10年代、日本の音楽界の代表的な立場にあった橋本は、支那事変以降ますます戦争へと突き進んで行く政局と無縁ではいられなかった。東京音楽学校で橋本の1級下だったアルト・四家文子によれば、橋本は時代や環境に「ものすごく」敏感で民族意識が高く、「聖戦遂行に貢献する作品を」という求めに次々と応じて行った。その代表例として挙げられるのが、橋本随一の傑作と言われる、南京陥落をテーマとしたカンタータ「光華門」である。
 南京陥落といえば、あの忌わしい大虐殺が行われた (という) 戦いだ。その一部始終がテノール独唱と合唱、オーケストラにより、17分のドラマとして描かれる。突撃ラッパが響き、目まぐるしく展開する冒頭部は、まさに脂の乗り切った頃の橋本の才能を垣間見せられる見事さだ。中勘助のリアリスティクな詩にも拘わらず、橋本の音楽には例えばショスタコーヴィチの「1912年」交響曲の機関銃の乱射のような過度な音描写はなく、戦闘場面でさえその曲想はまるで運動会のように明るい。ところが、兵の一人が手榴弾に倒れる場面で、曲想は一変する。木管によって初めて現れる短調の和音の、何と悲しく響くことだろう。「戦友の死を前に、涙を流さぬ者はなし」という件は、今日の目で見ると、ひょっとしたら戦争の理不尽さに対する橋本の精一杯の抵抗ではないか、とさえ思えて来るのだ。事実この時代、国策たる戦争に否定的な意見を挟む事など不可能であり、作曲家はこうした手法でしか、戦争に疑問を呈する事が出来なかったのだから。終曲は戦死者を悼む悲しみが、次第に魂の浄化をあらわす宗教的な響きへと移り、鎮魂ラッパに導かれ大団円となる。この部分の響きは、ブルックナーの宗教作品を想起させられるほど感動的なものだ。
 現在、このカンタータ「光華門」の楽譜は残されていない。 (おそらく終戦時、作曲者自身の手によって破棄されたのだろう) しかしたとえ楽譜が残されていたとしても、今も日中間に大きなしこりとなっている南京大虐殺を想起させかねないこのカンタータを再演する事は、まず不可能だろう。だが幸いな事に、当時の録音は現存している。名指揮者でもあった橋本自身のタクトによる東京放送管弦楽団他の演奏は、時代を反映し緊張感に溢れ、実に見事なものだ。
 もしこの作品が戦争の「機会音楽」でなかったら・・・と思うと、筆者は残念でならない。
考えてみてほしい。戦勝国の作品は「機会音楽」でも、堂々と今日まで生き残っているではないか。古くはナポレオンのロシア侵攻を描いたチャイコフスキーの序曲「1812年」(この曲は今でもフランスでは絶対に演奏されないという)、もっとリアルなところでは、ショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」などなど・・・。
こうした事実に、私は改めて歴史の理不尽さを改めて感じてしまうのだ。

 橋本は東京音楽学校主任教授として、当時の戦時体制に協力する作品を数多く産み出さざるを得ない立場にあった。その事が、戦後の彼の逆境を招くこととなる。終戦直後、「戦時体制に協力した芸術家」たちの責任を問う追求は熾烈を極めた。日本音楽界の重鎮・山田耕筰も例外ではなかった。しかし政治的手腕に長けた山田がこの難局を何とか上手く乗り越えたのに対し、芸術家肌だった橋本は、その全ての社会的なステータスを失ってしまう。 昭和22 (1947) 年、東京音楽学校作曲科主任教授の職を解かれ (後任は伊福部昭であった) 、鎌倉市極楽寺の自邸で蟄居同然の暮しを余儀無くされたのである。同年、日本国憲法発布を記念する明るい内容の「交響曲第2番」を作曲するなど、何とか新しい体制に自らの才能を活かす道を探っていた橋本であったが、その活動の場は、戦前とは比べ物にならないほど少なくなっていた。
 翌昭和23 (1948) 年、ビクターのスタジオで久々に橋本と出会った四家文子は、その青白くやせ細った弱々しい姿に驚く。
  「四家君・・・僕は今、とても孤独なんだ」
いつも気取り屋で、決して人に弱味を見せなかった橋本の変わり果てた姿を見て、四家はたまたま依頼を受けていた愛知県での作曲の講演と、独唱会の編曲に彼を誘った。大喜びで引受けた橋本は、「生きた作曲の実体を知ることが出来た」と誰もが絶賛する名講演を成しとげ、四家の伴奏も完璧に勤めた。彼女が風邪気味で本調子でないと見るや、即座に低い調で伴奏するなど、橋本の天才ぶりに誰もが舌を巻いたという。しかし・・・この頃、彼は既に死の病魔に取り付かれており、帰りついた宿舎では一人密かに胃の痛みに悶え苦しんでいたのである。
昭和24 (1949) 年5月6日、胃癌のため橋本國彦はついに帰らぬ人となった。享年わずか45歳であった。

 間違いなく戦前期最も才能に恵まれた作曲家であった橋本國彦の作品が現在、歌曲「舞」など一部の作品を除いては、ほとんど忘れ去られてしまっている。
筆者にはそれがとても理不尽に思えてならない。橋本もさぞや無念であったことだろう。
私たちは今こそ、改めて彼の音楽を先入観抜きで聴くべきではないだろうか。

 余談だが、橋本は純音楽以外に流行歌の分野でも「足利龍之助」(!) なるペンネームで、いくつかの作品を残している。
ある日ビクターの録音スタジオで橋本はバリトンの増永丈夫 (藤山一郎)、徳山たまき、アルトの四家文子ら東京音楽学校の親しいメンバーたちと偶然顔を合わせ、大いに話が盛り上がったというエピソードがある。クラシックが最も高級な芸術で、流行歌など通俗的で下品なもの、と当たり前のように言われていた当時としては信じ難いエピソードだ。なおこの時四家が「天国に結ぶ恋」という流行歌で共演したことのある徳山に、「もう流行歌はいやだ、クラシックだけで行きたい」と漏らしたのに対し、「何を言っているんだ!! 大衆が求め、喜んでくれる歌を歌うのが、僕たち芸術家の使命じゃないか。それがクラシックだろうが流行歌だろうが、関係無いよ! 」と一喝したという。
 筆者が最も好きなエピソードなので、あえてここに紹介させていただく。

         (写真/ビクターエンターティメントCDより)

(左) 徳山たまき= 東京音楽学校出身の戦前を代表するバリトン歌手。「侍ニッポン」「ルンペン節」「隣組」などの流行歌で有名。昼間にビクターのスタジオで流行歌の録音を行い、夜は「第九」のレシタティーボを歌ったと伝えられる快人物。「徳さん」の愛称で広く一般大衆に親しまれ、戦時中は数多くの軍歌を歌ったが、昭和17年僅か38歳の若さで急逝した。その早すぎる死は惜しんでも余りある。
(右) 四家文子= 東京音楽学校出身の戦前を代表するアルト歌手。「銀座の柳」「わたしこのごろ変なのよ」などの流行歌でヒットを飛ばしたが、戦後は自らが強く望んでいたオペラ・教育活動に専念。その生涯を捧げた。「橋本国彦/歌曲集1,2」(全音楽譜出版社) で四家は、橋本について実に味わい深い解説を記している。

 徳山、四家とも東京音楽学校では橋本國彦の一級 (学年) 下のクラスで、橋本が歌曲を完成した時は、ただちに二人のどちらかが井口基成のピアノで歌ったという。
橋本の代表的な歌曲「お菓子と娘」は、昭和3 (1928) 年、横浜で四家により初演された。まだ日本歌曲に対する評価が低かった当時、「お菓子と娘」は大評判を呼び、喜んだ橋本は、のちにこの曲を四家に捧げている。
 また橋本が徳山のために作曲した「ころがせころがせビール樽」(共演/東京リーダー・ターフェル)という小品がある。酒をこよなく愛した詩聖・北原白秋が酒席で「ラッパ節」の単調なメロディーに合わせて即興的に作ったものを、橋本が合唱付きのヴァリエーションとして手直ししたもので、彼の非凡なセンスが光る傑作である。ビクターから復刻されている徳山のCDに収録されているので、機会があったら是非一度聴いてみてほしい。(Victor VICL- 60328)
                                      (2011.9.21 岡崎隆)


 橋本の絶筆「アカシアの花」(1948)

 松阪直美の詩による歌曲「アカシアの花」は NHK「ラジオ歌謡」のために作曲されたもので、橋本最後の作品だ。
これまで藍川由美さんの「橋本國彦/歌曲集」CDなどで何度も聴いて来たこの「アカシアの花」だったが、2010年10月、橋本の作品のみを集めた「きのしたひろこリサイタル」で、私は改めてこの作品の素晴らしさに圧倒された。一体橋本はどんな思いでこの作品を産み出したのだろう・・・戦後の逆境の中、自らの才能を新しい時代に何とか活かして行きたいと願いながらも死の病に襲われ、胸の痛みを押さえつつ必死でペンを取ったに違いない・・・そう考えたとき私は堪らない気持ちで一杯になり、こみあげる涙を抑える事が出来なかった。張り裂けるような思いに満ちたピアノの前奏を聴いただけで、私は彼の無念の思いを少しでも受け止めたい、という気持ちから逃れられなかったのである。
 そうした私の思いは、橋本が日本国憲法公布を記念して作曲した「交響曲第2番」の「演奏用浄書譜の完成」という形になった。
この交響曲については冒頭で紹介させていただいたが、小宮多美江さん (音楽の世界社)が新交響楽団のHP (http://www.shinkyo.com/concert/p196-4.html) でさらに詳しく書いておられるので、是非ご一読をお薦めしたい。2011年11月、この交響曲はついにCDとしてリリースれることが決定した。私の再演への願いを叶えて下さった指揮者・湯浅卓雄氏に、ここに厚く御礼申し上げたい。レコーディングでの藝大フィルハーモニアの演奏は、本当に素晴らしいものだった。
いま私は、この交響曲が多くの聴衆の皆さんの前で、高らかに奏される日が来る事を心から願っている。

ところで「アカシアの花」であるが、1970年代に橋本の同窓生である藤山一郎がレコーディングをしており、YOU TUBE で試聴することも出来るが、まったく歌謡曲調の編曲で「別の作品」といった趣きなのが、藤山ファンの私としても少し残念であった。(2011.9 岡崎 隆)


上記の文章を記するにあたり、次の資料を参考にさせていただきました。
 「日本の作曲家」(音楽の友社・刊/昭和31年) (日本近代音楽館/提供)
  LP「橋本國彦/歌曲集」解説 (畑中良輔・著) (ビクター/SJX-1036/1973発売) 
  CD「舞〜橋本國彦/歌曲集」解説 (藍川由実・著) (カメラータ/30CM-532/1998発売)
 「橋本国彦/歌曲集」解説 (四家文子・著) (全音楽譜出版社・刊)


 ドイツ・ロマン派の影響が色濃かった当時の我が国音楽界にあって、早くからフランス・印象派の作風に興味を示し、その手法を我が国古来の音楽モチーフと絶妙な融合をはかった橋本國彦の作品は、独特の魅力にあふれており、今日もっと多くの人々に知られて良いと思います。
 彼の本領は歌曲の分野であるというのが定説になっていますが、じつは管弦楽曲の分野においても、いくつかの忘れがたい作品が残されています。
 私はこの4月、縁あって橋本國彦の「天女と漁夫」のオーケストラ・パート譜の作成に関わりました。その作成の過程のなかで、その洗練された管弦楽手法、何よりも絶妙な西洋的ハーモニーを施された日本的メロディーの美しさに、私はすっかり魅了されてしまいました。もしこの曲が、仮にイギリスの作曲家によるものであったとしたらとうの昔にCD化され、また演奏現場においても、しばしば取り上げられていることでしょう。
 自国の芸術家の業績にはことごとく冷淡な我が国の現状を見るにつけ、私はどうしようもないやり切れ無さを感じてしまいます。

 そこで私は一大決心をしました。
この橋本國彦をはじめ、今日不当に埋もれてしまっていて、演奏譜さえ存在しない我が国の作曲家たちの、主に戦前の管弦楽作品のオーケストラ・パート譜を、関係各方面の御了解を得て、最新の楽譜作成ソフトで用いて仕事の合間にボランティアで1曲づつコツコツと作っていこう・・・・と。
そしてそのパート譜は、演奏を検討してくださる方が現れた際には著作権者の方に連絡をとり、ご承諾をいただいた後に使っていただきたいと考えております。
 これまでに私どもで作成させていただいた橋本國彦の管弦楽曲は、以下の3曲です。

交響曲第2番ヘ長調 (1947) 約30分
(3 (Picc.) -2 (C-Ing) -2 (B.Cla) -2 (C.Fg), 4-3-3-1, Timp, Piatti, Tri-Ing, G.C, T.M, Hp. Str. )

交響組曲「天女と漁夫」(1933) 約20分
(3-2-2-B.Cla-2, 4-3-3-1, Timp, Marimb, Piatti, Tri-Ing, G.C, T.M, 四つ竹, 邦楽大小太鼓, Bass-
Drum, Tom-tom, Cymb, Tamburo, Str. )

  天女の羽衣伝説をテーマにしたバレエ音楽風組曲。ナクソス「日本作曲家選輯」第1回リリースCDに収録 (沼尻/都響)
  
「弦楽のための特徴のある3つの舞曲」(1927) 約10分 (Str.)

 1. 一つの信念、2. 感傷的諧謔、3. 勝利の歓喜 の3曲から成る。日本情緒溢れる旋律が魅力。第2曲はのちに管弦楽に編曲された。


( おことわり) このホームページに記載されている文章等を、無断でプリントアウトしたり、転載・引用しないでください。
お問合せはメールでお願いします。