小林研一郎/ブルックナーの世界(2)


 
 小林研一郎氏/チェコ・フィルのブルックナー交響曲シリーズ・待望の第2弾は、交響曲第7番です。

筆者から/このような拙いページでも結構見てくださっている方がおられるようで、最近「コバケンの7番が出たけど、この欄で取り上げないんですか?」というメールを頂き、嬉しく思っております。たいそうお待たせ致しました!! リリースから約1か月、どうぞお読み下さい。

その1/ブルックナー=交響曲第7番
  小林研一郎/チェコ・フィルハーモニー交響楽団
  (EXTON/OVCL-00128)

  
 (CD画像は、Octavia records様のご好意により転載させていただきました) 


  (まえおき)

 交響曲第8番の感動的な名演によってブルックナー・デビューを果たした小林研一郎氏が、1年の時を経て「第7番」をリリース !!
 ファンならずとも注目すべきこのCDを、私は発売1か月を経ても聴くことが出来ないでいた。
それは次のような事情による。

 実は私のオーケストラ (名古屋フィル) で、この6月に飯守泰次郎氏の指揮によりブルックナーの「第9」が取り上げられた。この演奏会では通常と異なり、「第9」の3楽章のあとにブルックナーが残した草稿をもとに、N. Samale, J. A. Philips, G. Cohrs, G. Mazzuca の4人のメンバーにより1983年から1991年にかけて完成されたという「幻の第4楽章」が演奏されたのである。

 これが、私にはかなりショッキングな体験となった。
その多くは加筆されたものとは云え、第4楽章にはブルックナー自身が残した部分も結構多く、これが「第8」までのブルックナー観を覆しかねない問題を含んでいたのだ。
あらゆる楽器の限界にまで迫るような、凄まじい音程の跳躍、鬼気迫る不協和音の連続、そしてこれでもか、これでもかと言うようなブラス・セクションの咆哮・・・・それは「死と浄化」をひたすら信じ、神の世界の総べてまでを描き尽そうとするブルックナーの魂の叫びのように、私には感じられた。いつしか私の弓を持つ右手はジットリと汗ばみ、鳥肌が立っていた。

「ブルックナーの第九は未完の3楽章で、既に完成している」
などという、したり顔の評論家の言葉を我が意のように思い込んでいた私は、このコンサート以後、全くブルックナーを聴くことが出来なくなってしまった。ようやく1か月後、仕事でクタクタになった帰りの車の中で、久しぶりに小林研一郎氏の「第8」を聴いた。
 第3楽章のアダージョで涙が溢れ、心ゆくまで泣いた。
「やっぱりブルックナーは、こうでなくっちゃ・・・」

 そんな折に小林研一郎氏のブルックナー・第2弾「交響曲第7番」発売の記事が、レコード雑誌の裏表紙を飾った。私はそのCDのジャケット写真を一見し、思わず身震いした。
何という、鬼気迫る顔だろう !! まるで阿修羅の如き小林研一郎氏のジャケット写真に、私は先の「第9」を演奏した際の悪夢をふと、思い出してしまったのである。(失礼 !! )
ブルックナーの「第7」は、伸びやかな旋律と美しいハーモニーが魅力の曲だ。こんな怖い顔でやられたんじゃ、かなわないなぁ・・・そんな訳で、私はこのCDをなかなか購入することが出来ずにいた。

 一ヶ月後、久々に小林研一郎氏が私のオーケストラに来演された。
「よし、この機会に練習後小林氏の「第7」のCDを買いに行こう」
私はそう念じていた。
 小林氏定番のチャイコの5番の練習のあと、オリ番で帰ろうとしていた私は、小林氏に呼び止められた。何と、私のためにブルックナーの「第7」のCDを持って来て下さっているという。
小林氏は「第8」のCDに関する私の駄文を読んで下さってもいた。
これだけのご好意をいただいては、試聴記を書かない訳には行かない !!

 というような訳で、前置きが長くなり大変申し訳ありません。

 (小林研一郎/チェコ・フィル「交響曲第7番」試聴記)
 
 リリース一ヶ月を経て、ようやく小林研一郎氏の「第7」を聴いた。
ブルックナーの「第7」は、冒頭のチェロによる有名なテーマの良否で、その演奏の出来具合が決まる、とさえ云われている。小林氏の冒頭の弦楽器のトレモロは、やや大きめだ。それに乗ってチェロが朗々と奏される。

 何と伸びやかで、美しいテーマだろう・・・

 私はこの部分だけで、ブルックナーの世界にぐいぐい引き込まれてゆく自分を、とても嬉しく思った。この冒頭の部分を「ブルックナー指揮者」と呼ばれるドイツの老練な指揮者たち、例えばヴァントやヨッフムなどは、ダイナミクスやテンポに微妙な細工をし、「したたか」とも思える老練さを聴かせるのだが、小林氏はもっと自然に、あたかも墨絵の一筆書きのように伸びやかに奏でるのだ。
 それにしてもチェコ・フィルのヴィオラ以下の中低弦の、何と多くを語っていることだろう !!
なお第1楽章で特筆すべきは、練習番号X以下の終結部だ。ほとんどの指揮者が徐々にテンポを上げ、音響的な効果を狙うのだが、小林氏はずっと同じテンポで最後まで押し切っている。私はこの部分で過去にこのような演奏を聴いた記憶が無いが、その効果は絶大だ。
 ただ一つ残念なのはヴァイオリンの音が突然跳躍する有名な難所で、音程が乱れる箇所があること。ここは一流のオケでもライブではよく外してしまう、まさに鬼門中の鬼門だ。この録音はライブ録音ということなので止むを得ないかも知れないが、何度も聴くCDとして発売されるのならば、ここだけでも取り直しをして欲しかった、と思う。

 第2楽章も一見、何の工夫も無いような足取りに見えるが、アーティキレーションが実に明確で、そのくせ途切れ途切れにならず、実によく流れている。結果的にその響きは分厚く充足感に満ちている。これは一つに、小林氏の指揮がアウフタクトを大切にし、次の瞬間に最高の音を奏でられるような「間合い」を引き出していることと、無関係ではあるまい。練習番号Dからの美しい旋律は慈しみに溢れ、本当に音を大切にしているのが手に取るように分かる。チェリビダッケがヒステリックな叫び声を挙げていた練習番号Kの部分も、決して絶叫にならない。そう、クライマックスはまだ先にあるのだから。
練習番号Tからが、いよいよこの楽章の白眉だ。私はこの部分をどんな場合でも冷静に聴くことが出来ない。次々に重ねられる転調はあたかも「輪廻転生」の如く、聴くものを高揚に導く。そしてシンバルの一撃でクライマックスが築かれたあと、物悲しく奏でられるワーグナー・テューバの何と魅力的なことだろう。

 第3楽章でようやく曲は、生き生きとした早い部分を迎えるが、決して前のめりにならずオーケストラが楽しそうに奏でているのが耳に快い。そしてトリオの部分はあくまでレガートで、まさに小林研一郎氏の「心からのうた」だ。

 フィナーレに入っても、小林氏の基本的なアプローチは変わらない。レガートを基本とし、楽譜に忠実に流れる行き方で、堂々たるクライマックスに向かって突き進んで行くのだ。

 (小林氏のサイン入りCD)

 私は今回の録音では、前半の2楽章が特に素晴らしいという印象を持った。
全体の印象は「第8」と同様、響きと流れを大切にした「思いやりに満ちた演奏」であり、決してジャケット写真のような「怖い」演奏では無かったことを申し述べておく。
ただ昨年の「第8」は、ブルックナーの中ではドラマティックな要素が多く、その意味からも小林研一郎氏に、より向いていたと言えるかも知れない。

 最後に・・・今後、小林研一郎氏によるブルックナーが引き続きリリースされるのであれば、私はまず「ロマンティック」が聴いてみたいと思う。「第4」はブルックナーの交響曲の中では比較的構成が明快で分かりやすく、小林氏のアプローチも、より明確に伝わるのではと思うからだ。例えば第2楽章の有名なヴィオラのSoli・・・詩人の散策にも例えられるあの部分や、第4楽章冒頭のドラマティックな部分を、小林氏はどのように表現されるだろう・・・まことに興味深々だ。同様に「第5」の第2楽章の深遠なコラールや、終楽章の対位法の権化と呼ばれるフーガの部分も、小林氏の指揮でぜひ聴いてみたい。

 そして・・・冒頭に述べた「第9」を、全4楽章復元版でぜひ、演奏していただけないものだろうか。
冒頭の劇的な部分や、「宇宙が踊っている」と評される第2楽章、そして「神の声が聴こえる」と言われる第3楽章を、小林氏ならばきっと「第8」のアダージョの時のように、涙なくしては聴けないように演奏してくれることだろう。こう考えるだけで、私の胸はドキドキと高鳴ってしまう。

 またまた余談で恐縮だが、私は以前、ムラヴィンスキーの演奏する「第9」のCDを聴いた時に、その終楽章で、確かに神の声を聴いたことがある。
「うわぁ、神さんだ !! 神さんが現れはったぁ」
関西弁で思わず大きな声で叫んでしまったことを、懐かしく思い出す。(なお、その後同じCDを聴いても、二度と神は現れなかったが・・・)
 少し前、小林研一郎氏が名古屋フィルでマーラーの「第3」を指揮された際、練習の最終日に、フィナーレの指揮をしていて、突然「マーラーが現れた」という体験をされたという。
小林氏はその体験を本番の後に聴衆に向かって語っておられたが、「オーバーな物言い」と受け取った人が、少なからずいたようだ。
 ああ、そのような聴衆、プレイヤーこそ、呪われてあれ !!
ムラヴィンスキーの「第9」で神を見てしまった小生は、小林氏の上記の体験が、痛いほどよく分かる。音楽というのは、かように物凄い物なのだ。

 ところで私は少し前に小林氏から「ブルックナーは第九の後に「テ・デウム」を演奏せよ、と言い残していますが、岡崎さんはどう思われますか?」と聞かれたことがある。私のような者に、このようなお尋ねをしてくださることに、いたく感激したが、その際私は「テ・デウムを第9の後に持って来るのは、私は感心しません。なぜなら第九は、3楽章だけで立派に芸術作品として完成しているのですから」とお答えした。今思うと、何と知ったようなことをぬけぬけと大指揮者に言ってしまったのだろうかと、赤面の至りだ。
 しかし今ならば、恥も外聞も無く、こうお答えすることだろう。
「ぜひ全4楽章復元版を演奏してください !! 小林研一郎氏の第4楽章なら、たとえそれがどんな断末魔的演奏であったとしても、私は耐えられます。何故ならば「第7」のジャケットの先生のお写真を見ただけで、きっと素晴らしい第4楽章になるに違いないと、私は確信しているのですから・・・」

                  岡崎隆 (名古屋フィル/コントラバス) (2003.8.23)


 追記/ブルックナー「第9」の第4楽章の完成版はこれまで、様々な指揮者によりレコーディングがされている。主なものを以下に記す。

 インバル/フランクフルト放送so. (独Teldec 0630-14192-2)
 朝比奈隆/大阪po.
 タルミ/オスロpo. (英Chandos CHAN 7051)
 アイヒホルン/リンツ・ブルックナーO.
 ロジェストェンスキー/ソヴィエト国立文化省O. (BMG BVCX 38015-6)
 注/CD番号付記のものは、筆者が試聴済みのもの

 この6月に名フィルで演奏されたSamale他による版 (1983〜91) を使用した第4楽章のCDは、指揮者の飯守泰次郎氏によれば、現在のところアイヒホルンのものだけ、ということであった。
 2003年9月新譜としてアルノンクール/ウィーンpo.により、J.A.フィリップス版の第4楽章入りのCDが発売予定 (BMG BVCC-34080-1) で、「世界初録音」という触れ込みになっているが、今回名フィルが演奏した版の4人の校訂者のなかにフィリップスの名が入っているため (つまりアイヒホルンが既に録音しているため)、これは誤りではないかと思われる。
 なおブルックナーが実際に作曲した部分だけをタルミ/オスロpo.が録音しており、上記のCDの余白に収録されているので、興味のある方はぜひ、ぜひ一聴をお薦めしたい。(結構たくさん書き残していたのですね ・・・)

小林研一郎=チェコ・フィル/ブルックナー/交響曲第8番


小林研一郎・若き日の作品集より
藤棚の下に -  母に捧げる歌


(CD画像は、Mクワットロ様のご好意により転載させていただきました) 

1.  かんなのお花 (作詩不詳)
2.  薬とり (西条八十/詩)
3.  ねんねん ねむの葉 (作詩不詳)

   サトウハチロー作詩による
4.  入り日をきれいだと
5.  母となる日を数えつつ
6.  ねんとん ねんとん
7.  妹が生れて
8.  お母さんは
9.  目を細めてもの言う母でした
10. 亡き母よ
11. 藤棚の下に

12. 千曲川旅情の歌 (島崎藤村/詩)
13. 東海の小島 (啄木の詩による)

 一ノ関 佑子 (ソブラノ) 小林研一郎 (ピアノ)
2001年10月30日 rec. (クワットロ LMCD-1677)



 最後に、ブルックナーのCDと共に私が小林研一郎氏からいただいた、素敵なCDをここに紹介させていただく。このCDに収められた13曲の歌曲は小林研一郎氏が若き日に、歌の分野で卓抜した才能を現し始めておられた妹・佑子さんのために書かれたもので、2001年10月に、50年近くの時を経て小林研一郎氏と一ノ関佑子さんご兄妹により録音されたものである。

 ところで、私はこれまで管弦楽曲が専らその興味の対象で、歌曲についての造詣は、はなはだ薄かったことをここに白状せねばならない。しかしながら最近、日本の作曲家の演奏譜作成などという大それた取り組みを始めたことがきっかけとなり、徐々に日本の作曲家の歌曲にも親しむようになって来た。
 戦前の作品だが、橋本國彦の「舞」や「斑猫」などは傑作だと思うし、もっと親しみ易いところで「お菓子と娘」「富士山見たら」などは、よくCDで聴いている。

 余談だが最近、名古屋出身の作曲家で、芸大で團伊玖麿らと同期の鬼頭恭一という作曲家の「雨」という歌曲を聴いた。彼は戦争の際特攻に志願し、若くしてその才能を散らされた作曲家で、出撃前の限られた時間のなかで作曲されたこの「雨」など、とても涙無くしては聴けない。
 私は同じ名古屋ということもあり、この鬼頭恭一という幻の作曲家について、今後さらに研究を進めたいと思っている。

 前置きが長くなってしまった。
この小林研一郎氏若き日の歌曲集をこのたび初めて聴かせていただき、私は心の底から感動した。
その伸びやかなメロディー、そして伴奏ピアノの美しい和音やアルペジオの数々。シンプルの極みなのに、何故、こんなにストレートに心に伝わって来るのだろうか? そう、そこには紛れもなく、心からの「うた」があったのだ。ここには奇を衒ったリズム・和音などは皆無で、歌詞の内容も我々の琴線をくすぐるものばかりである。
 一ノ関佑子さんの歌も素晴らしい。最近はただ美声にまかせ、曲の表面をなぞっただけのような歌が聴かれることが多いように思うが、一ノ関さんの歌唱には曲に対する心からの共感と没入があり、これが聴き手をぐいぐいと引き込んで行くのだ。
 中でも私は「薬とり」という西条八十の詩による作品に興味を惹かれた。メロディーの最初の部分・・・あれ? これはスメタナの「モルダウ」と同じじゃないか !!  因みにこの曲を作曲した数十年後、氏はスメタナの祖国のオーケストラ/チェコ・フィルの首席客演指揮者に就任されるのだ。
 この曲を小林研一郎氏が書かれたのは、氏がまだ10代の頃のはず。 きっと目に見えない何かが、小林氏の心の中に暗示のように舞い降りたのではなかろうか。今後もし機会があれば、この曲の前奏と間奏に「モルダウ」を入れて管弦楽にアレンジし演奏したら面白いだろうなぁ・・・などと考えていたら、何かとても楽しくなって来た。

 他にも、サトウハチローの詩による8曲の歌曲は、詩の内容と音楽とが見事にマッチし、心にぐんぐん染み込んで来るし、「千曲川旅情の歌」の美しさも絶品である。
なお冒頭の「かんなのお花」のピアノ伴奏では、小林研一郎氏の、まるでウィンナ・ワルツを意識したかのような、ビミョーに崩れたリズムが微笑みを誘う。

 指揮者・小林研一郎の若き日の作曲家としての一面、そして何よりも氏の優しい心のうちをひしひしと感ずる事が出来るこのCDを、ぜひ多くの方々に聴いていただきたい、と私は思う。
(CDのジャケット写真の柔和さは、ブルックナーと好対照 !! )

 なおこのCD「藤棚の下に」は東京・銀座「山野楽器」、銀座「ヤマハ」、「新星堂」、「東京上野文化会館」で入手することが出来るが、こちらにアクセスし、メールで注文することも可能。

小林研一郎氏/公式サイト

 小林研一郎/「フィンランディア」の思い出


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