まさよしの千夜一夜物語      

この物語はフィクションであり、山崎まさよし氏及び実在の人物団体とは関係ありません       

 

第1話〜第11話  第19話〜第25話  第26話〜         

 

第12話 早春

 まさよしが目を覚ましたのは、やわらかい早春の日差しにつつまれた野原だった。名前の知らない小さな青い花が一面に咲いていた。いつのまにここに来ていたのか分からない。ただ、あてどもなく夜の街をさ迷っていて、公園のベンチで疲れて眠り込んだだけだったのに。鈴虫の声が聞こえたあの夜から不思議なことが起こるのには慣れていた。それにしても、腹へったなあ。コートのポケットをまさぐるとチョコレートのかけらと小銭の入った財布があるだけだった。チョコレートを口にほお張り、どうしたものかと思案した。花畑の側に小道があった。どこに続いているか分からないが、遠くのほうに家らしきものが見えたのでそっちの方へ歩いて行った。

 少し大きい屋敷だった。庭は手入れの行き届いている芝生で、入り口の側にプラムの大きな木が白い花を咲かせていた。まるで、そこだけ雪が降っているようだった。
 「 ごめんください。」誰もいないのかな。ドアを押してそっと中に入ってみると、わお、素敵なグランドピアノがホールに置いてあった。中に入ってもう一度大きな声でごめんくださいと言ってみたが誰もいないようだった。物音一つしない。まさよしは誘惑に負けてしまった。楽器を見るとつい触ってみたくなるのだった。ピアノの蓋を開けてみた。鍵はかかっていなかった。ポロンと人差し指で黒鍵を押してみた。部屋中に響いた。しかし、人の気配がしない。内緒でちょっと弾いてもいいかな。まさよしは椅子に座り、思いつくままに弾き始めた。

 まさよしは、楽器の天才だった。ピアノは誰にも教わらないのに、デビュー当時スタジオにあったのでぽろぽろ遊んでいる内に、いつのまにか好きなように弾けるようになったのだ。

 誰もいないホールで、長いしなやかな指が奏でる音楽には、春の光の明るさの中で、美しすぎる季節の物悲しさが込められていた。それは、単にお腹がすいていたからかもしれない。まさよしは、素晴らしくいい音のするピアノに夢中になっていた。最後の和音を引き終わると、誰かがふいに拍手をした。「上手ねえ。」

 びっくりして、振り返ると、そこにはいつのまにか、年配の女の人が立っていた。この家の女主人だった。


第13話 プラムの木

 この家からあんな美しい音色が聞こえるのは久し振りだな。いつも、哀しすぎる音しかしないもの。私は何年ここの家を見てきたろう。20年以上になるかな。  

 ここに来たのは私がまだ、生まれて1年しか経っていないときだった。この家の主人が植木屋のおじさんから私を選んでこの庭に植えたんだ。若くて背の高いがっちりした人だった。奥さんに赤ん坊が生まれたから記念に植えてくれたのだった。土地が合っていたのだろう、ぐんぐん大きくなった。2番目の坊やが生まれた時には黒い小さな犬がもらわれてきたなあ。犬小屋に入らないでいつも私の足元でねそべっていたよ。

 あれから、いろんなことがあったなあ。みんないなくなってしまった。奥さんが一人で時々哀しい曲をポロンポロンとピアノで弾いてる。  

 子どもたちがかわいい盛りにご主人はどこかに行ってしまったんだ。奥さんと上手く行ってなかったらしい。厳つい体つきだったがやさしそうな人だったのに。子どもたちは奥さんが一人で育てた。かしこくて、やさしい子どもたちだった。自転車に乗って、よく遊んでいたよ。あの、黒い犬も連れてね。仲がいい姉弟だった。笑っていても、どこか寂しそうだった。お父さんがいないからね。でも、お母さんの前では絶対そんなことは言わなかった。

 子どもたちはぐんぐん大きくなった。私には負けるけど。私は今ではこの通り二階のベランダを超しているもの。こうやって花が咲き始めると、蜜を吸いに鳥がいっぱい来るんだよ。くすぐったいけど我慢。6月になったら、たくさんの実をつけるからね。子どもたちはもうこの家にはいないよ。本の虫で、夏休みには私の影で椅子に寝そべって小説を読んでた上の子も、音楽が好きで、あのピアノで生意気なジャズを弾いてた下の子も,今は都会に出て行った。奥さんはバラの手入れをしていても、洗濯物を干していても、時々ため息をついているのを知っている。

 それにしても美しい音色だな。あの若者は誰なんだろう。


第14話 写真
 「ごめんなさい。勝手に弾いて。」「いいのよ。久し振りに楽しませてもらったわ。」ほんとは息子が突然帰ったのかと思ってそっと、階段を降りてきたのでした。「ところで、あなたは誰?どこから来たの?」「僕にはわけがわからない。気がついたらここの近くの野原にいたんです。」得体の知れない若者でした。ほっそり痩せていて上背があり、くしゃくしゃの癖毛が息子と似ていました。その上、息子が着ていたような黒いコートをはおっていました。年齢は見当がつきません。10代の少年のようにも見えるし、30代の男にも見えないこともありません。女には人を見抜く力がありました。悪者ではなさそうです。どうやら明け方から何も食べていないようなので、女は手早く朝ご飯を用意しました。パンにミルクテイー、ハムエッグ、食後の果物の皮ををむきながら女は奇妙な幸福感を感じていました。人のために食事の支度をするのは何ヶ月ぶりでしょう。

 「あなたの家族は?」おいしそうに朝食をたいらげた若者の顔は、やはり、息子に似ていました。「遠い昔はいたかもしれないけど、もう忘れてしまった。長いこと一人で生きてきたような気がします。」「なぜ家族から離れたの?」「僕は誰からも縛られたくない。何にも属したくない。僕の考えで僕のやり方で僕の道を探したい。結局一人が好きなんです。」「そうなの。」女は悲しそうに頷きました。あの人も私の子どもたちもそうなんだわ。

 「この写真はあなたの家族?」部屋の調度品や本棚をいじくっていた若者が訊ねました。リビングの壁にかかっているのは、子供たちが小さい頃、家族みんなで登った山頂の記念写真でした。夫も、二人の子供も黒い犬もいる。少し若い私もいる。「そうよ、もうずいぶん前の写真よ。」「幸せそうな家族だな。」若者ががつぶやくように言いました。「ええ、幸せな家族だったわ。」ふいに、泣きそうになり、女は立ち上がって食器を片付け始めました。「僕にも確かにこんな家族がいたような気がする。僕の大切な思い出。僕の大切な宝物。」

 若者のつぶやいた言葉が女の心にぴしっとささりました。「そう、私にも大切な思い出、かけがえのない宝物。そして、きっとあの子達にも、あの人にも大切な思い出のはず。あの時間は決して幻ではなく、確かに存在した時間だもの。」女は心に一筋の光が差し込んだような気がしました。そう、私はいつまでもそれにしがみついていたんだわ。それが、もう過去のものなのに。私には素晴らしい思い出がある。それだけで十分なはずだわ。

 女は食器をしまいながら、再び流れてきたピアノの音色に耳を傾けました。あの若者が弾いているのです。彼は放浪の音楽家なのでしょうか。美しく、懐かしく、閉ざされた心の扉が開いて行くような音楽でした。彼も子供の頃のことを思い出したのかもしれません。誰もが持っている、あの美しい何も考えなかった黄金の時代。その思い出は決して壊せないけど、誰もその時代には戻れない。このまま、心にしまっておこう。時々そっと取り出せばいい。私には私にしか出来ないことがあるはず。彼のように、誰にも自分を委ねず生きて行かなくては。

 「あなたは素晴らしい音楽家ね。これからどうするの?」若者は、近くの町に行ってみるといいました。「ごちそう様でした。いいピアノですね。」「こちらこそ、ありがとう。おかげで、自分を取り戻せそうだわ。」女はさわやかな笑顔で若者を見送りました。

 やがて、女は月に一度ミニコンサートを開くようになりました。聴きに来るのは近所の人だけでしたが、女は十分幸せでした。自分の道が見えてきたように思えました。プラムの木は女の弾く「早春の詩」と「子供の夢」という曲がお気に入りでした。若者が弾いていた曲を彼女がアレンジしたものでした。

 まさよしは、女に教えてもらった町に向かっていました。

 


第15話 ハーモニカ

 

 早春の道は心がときめく。日陰にはまだ雪のなごりが感じられる。だけど、この風は確実に春の匂いがするのだ。まさよしは鼻歌を歌いながら野の道をゆっくり歩いて行った。芽が出たばかりの小枝に気の早いメジロがまさよしの歌に会わせてヒヨヒヨと鳴いている。まさよしは今度は口笛を吹いてみた。軽快なおどけたメロデイーだ。すると、草むらから一匹のノラ猫が合いの手を取る様にニャーンニャと姿を現した。彼の歌は動物にも好評らしい。まさよしも動物が好きだった。ノラはずっと町までついてきた。

 その町はあまり大きくなかった。しかし、何でも揃っていた。酒場から裁判所、港に工場に古い教会、美術館にバレー教室に楽器店。何でも有ったけどみんなこじんまりとしていた。そしてなんだか古びていた。まさよしが最初に行きたかったのはやはり、楽器店。あまり大きい構えではない。ガラス格子のドアを開けると、頑固そうな店主がカウンターでトランペットを磨いていた。

 「いらっしゃい。」まさよしは、店の中を見回した。あ、古いギターがある。あの、ドラムも叩いてみたいなあ。だけど、・・・。ポケットの中には小銭しかなかった。「あのう、これで買えるもの有ります?」「え、それだけしかないの?一番安いハーモニカも買えないよ。ほら。」値札を見ると、まさよしの所持金の3倍ぐらいはする。あんまりまさよしががっかりした様子なので、「吹きたかったら吹いてみても良いよ。お金が溜まったらおいで。」と店主が言ってくれた。「そうですか。ありがとう。」まさよしはさっそく、手のひらにハーモニカを包み込むとやおら,吹き始めた。最初はゆっくりしたアイルランド民謡。次にテンポの速いブギ。さらに、ビートの利いたロック。次は渋いブルース。次から次に自在に吹きこなすまさよしに、楽器店の店主は驚いてしまった。さすがに楽器店の店主だけあって、この親爺は良い耳を持っていた。まさよしの才能がすぐ分かった。「たいしたもんだ。久し振りに良いもんを聴かせてもらったよ。お礼といっちゃ何だが、そのハーモニカはタダだ。お客さんにあげるよ。」「えっ、ほんとう?ありがたい。」心底嬉しそうなまさよしを見て店主は自分も嬉しくなった。「ああ、おまえさんの腕なら、すぐ稼げるようになるさ。そうしたら、また、他のコードのも買っておくれ。」

 店主の言った通り、まさよしが試しに道端でハーモニカを吹くと、すぐお客が集まってきた。そして、その日に食べるものと一夜の宿代ぐらいはお金がもらえた。やがて、幾晩かすると、評判を聞きつけて町に一軒しかない酒場で雇ってくれるようになった。ハーモニカだけでなく、お客のリクエストに答えて、ピアノやギターで弾き語りをやるようになった。まさよしは器用だったから、カウンターに入ってバーテンの真似事までもやっていた。 明け方部屋に帰ると待っているのは、あの猫のノラだった。まさよしは、ノラしか気を許せる者はいなかったが、気ままに音楽をやっているのはとても幸せだった。

 ある日、いつものように店が引けてからアパートに帰ると、いつもは暗い玄関ホールにその日はなぜか明かりがついていた。

 


第16話 の支配者

 その町は、一見平和そうだった。しかし陰の支配者がいたのだ。それは、R・カッポレという男だった。すばらしく頭がよく、すばらしく度胸があり、すばらしくワルだった。町にはいろんな店が揃っていたが、どれも、1軒ずつしかなかったのは、彼がいるからである。物の値段、料金は、彼の決めたようにしかならない。彼は商工会議所の会長で、各店から会費を取っていた。会費は会の運営には殆ど使われずカッポレの懐に入った。運営をしなくても、1軒ずつしかないから、客は来るのだった。新しい店を作ろうとしても、彼が必要としない限りできなかった。無理に作っても徹底的に邪魔をした。いつだったか、パン屋の長男が親父と上手く行かず、町外れに所帯を持って新しいパン屋を始めようとした。すると、R・カッポレはすかさず子分をつかわし、ありとあらゆる邪魔をした。まず、粉屋におどしをかけ、新しいパン屋には粉を高く売るようにした。次に、客を装い、評判になっていた新しいパンに、虫が入っていたというデマを流させた。さらに、配達をしていた自転車のブレーキに細工し、パン屋の長男は大怪我をした。とうとう、彼は店をたたんで親父の店に戻ってしまった。

 R・カッポレはこの町が好きだった。「新しいものは要らない。このままで良いではないか。気に入らない者は町を出て行くが良い。」と言うのが彼の口癖だった。その言葉どおり、時間の流れが止まったようなこの町に嫌気がさした者は、いつしか町を出て行った。また、新しく町に来る者も殆どいなかった。働き口があまりなかったからである。

 ある日、カッポレはまさよしの働いている酒場にやってきた。彼はワルに似合わず、酒が好きではない。体質的に受け付けないのだ。アルコールの匂いだけで酔っ払ってしまう。女も好きではない。若い頃一度振られてからプライドの高い彼は、女を毛嫌いしているのだ。彼は賭け事も好きではない。予定にない不確実な事が彼には絶えられないのだ。彼の唯一の趣味はチェスだった。緻密な頭脳と容赦のない性格なので負けしらずだった。酒場にやってきたのは、月1度の視察である。そういう、まめなところも彼には備わっていた。

 カッポレは、いつものテーブルに腰を下ろした。酒は頼まない。ミルクだ。まさよしは、冗談だと思って、ジンのミルク割りにした。ただのミルクだと思って一口飲んだカッポレはたちまち、酔っ払って、顔から首から指の先まで真っ赤になり、怒った。「おい、若いの。見かけない顔だな。俺を誰だと思っているんだ。」「誰なんですか。」周りの者は青くなった。これまで、カッポレにたてついた者はいなかったからだ。カッポレはあまりの怒りに口が利けなかった。手当たり次第椅子を投げるは、テーブルをひっくり返すは、今にもまさよしに飛び掛ろうとした。まさよしは素早くカウンターの下に潜り込んだから良かったものの、カッポレに吹っ飛ばされるところだった。カッポレは、まさよしを引きずり出そうとして、カウンターの上にのしかかった。と、そのまま、動かなくなってしまった。そして、大きいいびきを掻いて寝てしまった。

 あくる朝、カッポレは自宅のベッドに居た。昨夜の事はあまり記憶にない。ただ、あの新顔のバーテンが気に入らなかった。どうしてやろうかと考えていた。


第17話 ノラ

 まさよしは玄関のドアを開けてみた。そこには誰も居なかった。いつもはどんなに遅くなっても、暗闇の中でノラが待っていてくれたのに。今日はなんだか胸騒ぎがする。「ノラ!」と、まさよしは呼んでみた。しかし、ノラの姿は見えず、鳴き声も聞こえず、玄関ホールはシーンとしていた。いったい何処へ行ったのだろう?ノラ名前を呼びながら自分の部屋の前まで来たまさよしは、廊下の隅に小さく光る物を見つけた。それは、ノラの首に赤いリボンを通してつけてやった銀の鈴だった。そして、まさよしの部屋のドアの下に1枚の紙切れがあった。

 「ネコはもらった。返して欲しかったら、明晩12時にひとりでバラ園の時計塔の下に来い。このことは誰にもいうな。 R・カッポレ」

 まさよしは心臓が止まるかと思った。カッポレが仕返しをしようとしているのは知っていた。あの晩店の支配人が言ったのだ。「おい、気をつけろよ。カッポレは執念深い男だ。ただでは済まないぞ。」だが、こんなひどい事をするなんて思いも寄らなかった。なんという卑劣な男なんだ。

 次の日、まさよしは店に居ても気が気で無かった。弾き語りのギターを間違えたり、グラスを落として割ってしまったりした。その晩店を早めに上がらせてもらい、まさよしは一人約束の場所へ向かった。そこは、街外れにある古い城跡の庭園で、いつからか町の公園になっていた。今の季節はバラの花が満開で、近づくにつれむせ返るような甘い匂いがした。

 大理石でできた古い時計塔はバラ園の中央にあった。12時きっかりだった。あたりを見まわしたが誰も居ない。「おーい、誰かいないのかー。約束どおり来たぞー。」すると、どこかで、聞き慣れた猫の鳴き声がした。ノラだ。後ろを振り返ると、いつのまにかR・カッポレがノラを抱いてこっちを見ていた。「ノラ!大丈夫か?」思わず駆け寄ろうとするまさよしを手で制して「近寄るな!」と、カッポレは怒鳴った。「やっぱり来やがったな。思った通りだ。」

 「カッポレ、ノラを返してくれ。あんたにはただの猫にしか見えないだろうが、俺にはかけがえのないたった一人の友達なんだ。」「そんな事は先刻承知さ。手下をやって、お前のことを調べさせたのさ。この美人のネコちゃんがお前にとって一番大切なものなんだろう。だから、さらって来てやったのさ。」

 「なんだって!なんでこんなひどい事をするんだ!俺にどうしろというんだ。」「それじゃ言ってやる。ネコはかえしてやるから、明日のうちにとっととこの町から消えうせろ。だいたいな、俺はお前の歌が気に入らないんだ。お前が来てから、あの酒場に人が集まるようになって、俺の楽団のホールは入りが少なくなったんだ。そもそも、俺は酒場が嫌いなんだ。情けで細々とやらせてやっていたのに。」

 その町の唯一の楽団はカッポレのお気に入りだった。毎週土曜日に、唯一の古いホールでコンサートをやっていた。歌曲の演目の時は、カッポレは時々バリトンのソロを受け持っていた。カッポレにとって、体の良いカラオケがわりだった。客もまずまず入っていた。ところが、まさよしが酒場で歌うようになって、ホールに来る客は半分に減っていた。カッポレがあの晩酒場へ来たのも、まさよしの歌がどんなものか聴きに来たのだった。

 「なんで俺があんたの言いなりにならないといけないんだ?ノラを返せ!」「やなこった。言う事がきけないんだったら、しばらく預からせてもらう。ネコちゃんがどうなってもしらないぜ。」カッポレは足元のキャリングケースにノラを入れようとした。その時、突然煙のようにノラの姿が夜の闇に掻き消えた。二人はどうなったのかと目を凝らしたがノラは何処にも見当たらない。まさよしは、「ノラ!」と呼んでみた。すると、ふわりと時計塔の辺りから一人の女が現れた。


第18話 ジュリエッタ

 「ロメオ、あなたってちっとも昔と変わっていないわね。」「ジュリエッタ!どうして君がここに居るんだ。」

 突然現れた女は、どうやらR・カッポレの昔馴染みらしい。小柄だが、グラマーで、金髪。白い細身のドレスがよく似合う。薔薇園のどの薔薇にも負けない華やかさだった。全身から匂い立つような「女」が感じられた。そして、何とも言えない声。落ち着いた深い甘い声だった。

 「何年前だったかしら、町のホールのコーラスの練習であなたに出会ったのは。素敵だったわ。歌も上手かったし頭も良かった。ちょっと、いきがっていたけど、誰にも負けないほど強かった。私にとても優しくしてくれた。よくここを散歩しながらいろいろな事を話したわね。二人とも、この幸せがずっと続けば良いと思っていた。」

 「そうだ、二人の仲は続くはずだった。あの頃の君はもっと、はかなげだった。誰かが守ってあげなくちゃ今にも消えそうだった。僕は君を守るためならどんな事でもやるつもりだった。あんなに愛し合っていたのに、君はなんで、あんな情けない奴のところへ行ったんだい。」

 「それは、あなたがあまりにも私をがんじがらめにしようとしていたからよ。あなたの前では本当の私を出せなかったの。あなたの好みの女にならなくちゃといつも窮屈な思いをしていたの。でも、私には2本の足があるわ。自分の目で物を見ることも、自分の言葉で話す事もできるのよ。あの人は、ありのままの私を愛してくれたの。私の心を開放してくれたの。自信のない私を勇気付けてくれたの。彼との暮しは貧しかったわ。いつも明日の食べ物を心配しなくちゃならなかった。だけど、生きている自分がいたわ。」

 「奴はいまどうしているんだい。」「彼は、天国よ。ある雪の日、車に轢かれそうになったおばあさんを助けようとして、自分がけがをしてしまったの。意識が戻らないまま、3日後に亡くなったわ。私は生きているのがつらくなって、お月さまに祈ったの。『死ぬ事ができないならせめて、彼のような人にまためぐり合えるまで、人間をやめさせてください。』って。」

 「そして、今日までずっとネコだったの。いろんな人に出会ってかわいがってくれたけど、私をノラネコかペットとしてしか見てなかった。まさよしが初めてだったの、私を友達として思ってくれたのは。」

 「そうだったのか。俺が間違っていたようだ。ジュリエッタ、もう俺を見捨てないでくれ。俺は君のためなら生まれ変わるよ。」「嬉しいわ、ロメオ。私はずっとあなたが心配だったの。だんだん悪い人になっていくんだもの。私のせいだったのね。」

 それから、何日か後に、町の古い教会で結婚式があった。ロメオ・カッポレとジュリエッタは幸せそうだった。まさよしはお祝いのパーティで自分の歌をプレゼントした。まさよしはノラがいなくなって淋しかったが、カッポレ夫妻が親身に世話をしてくれた。ホールで一緒に歌う事もあった。町はなんだか生き生きしていた。カッポレが商工会議所をやめ人々は自由に商売ができたからだ。彼は自分の経営するホテルをペットが泊まれるようにし、犬やネコ好きの旅行客に好評だった。また、まさよしのようなよそ者のミュージシャンも出演できる小さなホールも作った。そこでは、音楽を聴きながらお酒が飲めるようになっているのだが、相変わらず彼は酒が一滴も飲めない。

 いつのまにか夏が近づいていた。その日は朝からムシムシしなんだか嵐が来そうだった。まさよしがカッポレのホテルで歌っていると、とうとう雷が鳴りだし、バケツの水をひっくり返したような大雨になった。雷はひどくなる。風も強くなった。ピカッ、ガシーン。大きな雷鳴が響いて辺りは真っ暗になった。電気が消えたのだ。カッポレはランプが壁に架けてあったのを思いだし、灯をつけた。ランプの温かい光に照らされ、部屋がほの明るくなった。お客はほっとしたようだった。「おい、まさよし。これでいいか?もう一度歌ってくれ。」しかし、まさよしの返事はない。まさよしの姿は消えてしまった。

   第19話へつづく