『夢のかけら 〜緑の谷(5)〜 』


 夏休みは、あっという間だった。
 僕は、母さんの友達のつてで、教会のキャンプに行かされたりした。みんなは、塾の夏期講習に行ったらしいが、僕はふだん塾も行ってないし、塾の公開実力試験を、大島と一緒に一回受けただけだった。
 その塾には、たくさんの知り合いが通っていた。実は、高橋姫乃さんも小学校時代の友達で北山中の子と、一緒に受けに来ていて、同じ小教室で試験を受けた。菜穂子ちゃんというその子(名字、忘れた)が、とてもフレンドリーな人で、試験の2日間の間、
 「帰りにみんなでバーガーを食べにいこうよ!」
って、誘ってくれたりしていた。大島は、なんだかこのあいだの”高橋姫乃さんをあきらめる”発言を忘れたのか、すごく喜んでいたみたいだった。

 実際、菜穂子ちゃんにかかると、
 「姫乃って、優しそうにみえて、きついこと言うでしょ〜。ねぇ〜、悪くとらないであげてね〜。あ、じゃぁね、ポテトを追加でおごりにさせるから、二人とも、姫乃をこれからもよろしくねッ♪」
みたいな感じで、あっという間に3人のぎくしゃく感をとりのぞいてくれたのだ。
 残りの夏休みの間に、
 「もう1回、4人で遊びに行こうか?!」
なんて盛り上がったりもしたけれど、みんなの予定がうまく合わずで、結局ダメになってしまった。
 高橋姫乃さんは、親戚が海外赴任しているから、家族でそこへ行くといい、菜穂子ちゃんは、後半は習っているテニスの軽井沢合宿、大島はたくさんの部活予定、僕が一番、ひまだった(笑)。祖父母の家へ泊まりにいったり、家族旅行に行った他は、学校の図書室とプール、図書館の学習室とマンガコーナーを行ったり来たりの平凡な毎日だった。


・・・って変なことを思い出している場合じゃなかった。・・・新学期なのに。
先生の演説が長くて、意識を飛ばしちゃったよ。

  「中学2年生だからって、甘えるんじゃないぞ。3年生を見ろ。夏休みは、補講と塾、だけの灰色の夏休みだったんだぞ。”せめて2年の、今年の夏休みだけでも遊ばなくっちゃ。”な〜んて言って、遊んでいたんだろう!だが! いつまでも夏休み気分でいて、どうする?!」
 というのが、3学年主任の寺田先生の発言だった。ちょっとうんざり。
 実は、今日は英語が自習になっていたのに、僕たちはついつい騒いで、職員室でヒマしていた先生が出張してきてしまったのだ・・。1年の時の担任だったけど、厳しい先生だったから、自習という楽しい気分が、いっぺんにぺしゃんこになってしまったトコ。

 「え〜と、学級委員は、なんだ・・また、椎名か。プリントかなんかないのか?なかったら・・・特別に数学の特訓でも・・。どうだ?」
 クラス全員が騒然となる。夏休みボケしている時に、寺田先生のスパルタ数学なんて・・・みんなの視線が痛い。だから、僕はあわてて立ち上がった。
「あ、そういえば!確か・・・プリントがあるはずです・・・。取りに行って来ますッ。」

 僕は、そそくさと職員室に行ったのだが、なぜか・・・英語の白鳥先生の机の上には、一学期に僕の作ったプリントしか見あたらなかったのである(汗)。たぶん、ちゃんとしたプリントは全部、すでに使ってしまったにちがいなかった。数学を受ける苦しみと、自分のへたな字プリントをさらす苦しみとを天秤にかけ、僕はしょんぼりとそのプリントを抱え、教室へ戻った。
 当然のことながら、寺田先生は驚いた。

 「なんだ、この汚い字のプリントは〜? ん、どこかで見たような悪筆だな・・・。」
 「・・・僕の字です。」
 配られている間中、みんな笑っている。・・・くそお・・・。一応、読めるじゃんか。
 「他に誰もいない時に、僕が頼まれて作ったんです・・・。」
 「仕方ないな、しかし・・・読みにくい字をまぁ。印刷のムダだよ・・・。まぁ仕方ない、みんな、静かにやれ。」

 ところが、最初の3分で背中をつっつかれた。
 「おい、椎名。お前、なんでこんな難しい・ややっこしい単語ばかり問題に出すんだよ?」
 「どこがややっこしいんだ、木曜日の英単語なんて、ずっと前にやったじゃないか。」
 「あ〜、せめてマンデイとか、フライデイにしといてくれよ。」
 「しっ!・・・・とにかく分からないところを飛ばして、最後までやってくれってば。」
 「おお、なんか読みにくいだけじゃなくて、難しいプリントらしいな。」
と寺田先生は満足して、持ってきた本を読み続ける。
 だけど、そのうち何人かが笑い出してしまった。僕の”失策”に気づいたのだ。
 「何、これ〜〜?」
 「お、どうしたんだ?」
 静かにしてくれよ、みんな。寺田先生にバレてしまうじゃないか・・・って思ったけど、もう遅かった。
 「何だ、こりゃ。・・・わはははは、傑作だな、これは。」
 「すみません、・・・変ですよね。」
と、僕は言った。
 「・・・どこが、変なんだ?」
と、井村が聞いたので、一番大きな声で笑っていた、斉藤彩香が教えた。
 「やだ、井村くん。だって、左半分では、木曜日の英単語を書かそうとする問題が出ているのに、右半分の和訳の例文の中に、THURSDAY・・・って出てきちゃってるじゃない。他にもあるわよ、右の答えが左にあったりとかね。」
 「ああ、・・・何だ、本当だ。」
と井村は、ちょっと憮然としていた。

 その後も、みんなクスクス笑いをしながら、とりあえず静かにやっていた。うまい具合に数学をやるには、ちょうど時間が足りなくなる位にプリントが終わった。

 帰り際に、先生が僕のそばに来て言った。
 「・・・面白いから、コレ一枚もらっていくわ。・・・椎名、お前はわざと、そういう風に作ったんだな。」

 ・・・ばれてる・・・気づかないはずは、なかったか。僕は、小声で言った。
 「びっしり問題があっても・・答えが最後には見つかるんだって思ったら、いやにならないで、皆がやってくれるかなと思って・・・。」
 中学2年になったら、いきなり英語が難しくなってしまい、やる気をなくしている人間が多かったのだ。僕は、それがずっと気になっていたのだ。
 「・・・なるほどな、そういう風に考えたのか。・・・そういえば、最近はお前、だいぶ身体の調子も良いみたいで、よかったなぁ。」
 「はい。お陰様で、かなり元気です。」
なんて脳天気にうなずいて話を合わせていたら、3日後のバスケ部の試合、及びそれまでの練習に出ることになってしまった。地区球技大会の予選があるが、楽勝だし、中間試験などに差し支えそうな3年生を出すのは、しのびないからだそうだ。
 「ベンチ要員なんだから、気楽に来いや。あ〜よかった、よかった、椎名がヒマヒマで。身体が治ったんなら、帰宅部をきどってないで、バスケに復帰してくればよかったんだよ。」

 僕の他にも、頼まれ助っ人要員が数人参加して、付け焼き刃の練習をさせられた。でも、しばらくぶりにみんなと汗を思いっきりかくのは、やはり気持ちよかった。先生と同じように、
 「なんだよ。椎名、復部届けを出せばいいじゃんか。」
と言ってくれるヤツもいたけど、さすがにいきなり練習したとしても、全然、正式な部員にはついていけなかった。


 ―――試合の日も、とりあえずユニフォームを着せられていたけど、僕はベンチの隅で、後で出される”レモンの蜂蜜漬け”(ビタミン回復のためなんだけど、これがけっこうイケルのだ)のことばかり考えていて・・・あっという間に出番もなく、終わった。

 「・・・んだよ、椎名。全然、出なかったみたいだね。わざわざこっちに応援に回ってきてやったんだぜ?」
とベンチの背後から、大島が声をかけてきた。
 「あ、大島。そんなことより、サッカーはどうだった?」
 「勝ったに決まってるだろう。余裕、余裕。来週、決勝トーナメント参加、だもんね!」
 「こっちも来週、また来るみたいだよ。みんな、すごかったし。」
 「お前、どうせ来週こそは、全く出る幕ないんだろ(笑)。さ、帰ろうぜ!」
 「あ、”レモンの蜂蜜漬け”食べてからじゃないと、帰れないからさ、大島、先帰っていいよ。」
 「・・・椎名、それ”反省ミーティング”だよ、正式名称は。・・・いいよ、待ってる。何か食いに行こうぜ。腹、減っただろ?」
 控え室にまわったものの、同じクラスのバスケ部員、米山が来ないので、会場とトイレを見てくるように寺田先生に頼まれる。すぐに見つけられずに、僕は2階席のトイレまで見に行く。そばの階段の踊り場で・・数人の声がした。

 「 ・・・んだよ?こんなとこで。」
 「つっぱりやがって。・・・試合中だからって、何でもやっていいわけじゃないんだぞ!」
 「オレが何したって?」・・・・米山の声だ。
 「コイツの顔、張りたおしやがって・・・。」
 「あ、それね、ぶつかったんだよ。わざとじゃない・・・」
 僕は、そのまま階段を駆け上がった。
 「米山!・・・先生が呼んでる。君が来ないと・・・」
 「・・・・なんだ?コイツ。」
 さっき試合していた西中の部員が、4名で米山を囲んでいた。

 「あぁ・・話し中、すみません。並木中の2年、椎名です。・・・ねぇ、反省会だよ。早くしないと・・。」
と、僕は一応、全員に頭を下げてから、米山をうながした。語尾にあったはずの”レモンの蜂蜜漬けが食べられないじゃないか”というフレーズは、心の中にしまっておいたが、米山は、僕の楽しみを知っていたので、
 「・・・椎名。・・あ、とにかくわざとじゃないです、ごめん。ごめんね、君。」
と、ほっぺの腫れている一人に話しかけ、急速に話を終わらせようとしてくれた。
 西中の4名は、むっとしたままだ。
 「『ごめん』って言ったんだから、もう帰っていいよね?」
と、完璧に闖入者のはずの僕が、まっ先に口をはさんだものだから、その4名だけでなく米山まで、僕の顔を見た。

 「・・・うるせ〜な。先公なんか、待たしとけばいいんだよ。」
と、一番身体の大きいヤツが、僕の前に出ようとしたが、後ろから一人がとめた。
 「やめろよ。椎名は・・。・・・こいつがキレると・・・際限ないんだぜ。」
 失礼な。と思って、その顔を見たら、昔近所に住んでいた、木村だった。親がマンションを買ったとかで、中学入学と同時に引っ越していったのだった。木村の背が、すごく高くなっていたから、全然分からなかった。みんなが僕をじろじろ見た。どこから見ても、キレたとしても、強そうに見えない僕だと思うんだけど・・・。

 「あ、・・木村だったんだ・・久しぶりだね〜。すごいな〜。いきなり、でかくなったね。」
と、僕があいさつしかけた時に、体格のいい大島と、もう一人のサッカー部員が上がってきた。
 「・・・そ。5人くらいだったら・・・簡単に半殺しだな〜。特に、好物のおあずけ食ってたり、腹が減ってる時の椎名にスイッチが入ったら、超サイアクだと思うよ?」
と、大島が言った。
 「・・・終わりのミーティング、始まったみたいだけど?」
と、もう一人が言った。
 僕は、米山の手をひっぱらんばかりにして、階段を駆け下りた。もう、誰も止めようとはしなかった。
 木村が、僕の背中越しに声をかけた。ちょっと皮肉めいた声だった。
 「松村先輩が帰ってきたの、知ってるか? 西中に入ったんだ・・・・気を付けろよ、外を歩く時には、さ。」
 「・・え?・・・あ、わかった・・・。とりあえず、サンキュ〜。」

 それから、並木中の控え室に駆け込んで、レモンの輪切りを7枚以上食べてから、ようやく落ち着き、麦茶を飲んだ。それからやっと、米山や大島との会話が成立した(大島も結局、バスケ部の控え室に入ってきたのだ)。

 「さっき、あいつと大島が、椎名のことを言ってたのって、本当?」
と、米山が聞いてきた。
 「あ、ウソウソ。大島のハッタリだよ!」
と、僕は言いかけた。でも、
 「相手の木村が先に言ったんだから、ハッタリじゃないだろ、椎名。
 大したことじゃないんだから、米山に教えてやっていいだろう、お前の武勇伝。」
と、大島は語る気、マンマンだった。
 「そんなんじゃないんだよ。絶対、話が大きくなってきてるんだからね。」
と、僕は米山に注意をしたけど、その間もまだ、レモンを食べ続けていた。

 「それは、小学校6年生の頃だったんだけどね。」
大島は、得意そうに話し始めた。まぁ、ここには、僕が書いて置くけど。大島の説明は長いしね。

 ―――そうじ当番で、みんなでそうじをしていた時だった。
 今もそうなんだけど、男子がほうきやらモップやらを持つと、たいがいチャンバラをしたりして、途中で遊んだりする(女子に注意されるけどね)。
 その日は、女子が1年生の教室を掃除していたので、自分たちの教室は、男子だけだった。
 そして、いつもなら互いに隙をみてほうきでたたいたりして、チャンバラが始まるのだが、その日は違った。冬のまっただ中で、寒いからという理由から、外の鶏小屋のにわとりの一家を、教室内のケージに入れてあったのだ。
 「邪魔だよな、これ。」
 「臭いしなぁ・・・こいつら。エサやら羽やら撒き散らして、のんびりしてら。」
と、誰かが言い始めた。その中に木村やら青山などが混じっていた、と思う。彼らは、ほうきの柄をケージに差し込んでみたりして、いたずらを始めた。
 ニワトリたちは、ケージの外から棒状のものが差し込まれるたびに、飛んだり、逃げたり、よけたりする。その騒ぎようが面白かったのか。廊下に出ていた僕が、気づいて
 「やめなよ、可哀想じゃん。」
と、言った。だが、彼らはドッジボールで敵を包囲しているのと同じで面白いよ、みたいに言い返してきたのだ。しかも、
 「椎名ってさ。学級委員だからって、女子と同じように注意するんだから。」
 「一緒にやんなよ。」
みたいに言い始めて、1本じゃなくて、2本同時にほうきの柄を差し込んだりし始めた。ニワトリがとうとう、声をたて、羽をばたつかせて、互いにぶつかりあいながら、逃げまどったのを目でとらえた憶えは、鮮明にある。
 でも、次の瞬間に、僕は教室に駆け込んでいき、全員をほうきで順番に殴り始め、そこからは・・・夢中で、よく覚えていなかった。

 「逃げ場がないのを知っていて! バカ!!・・・卑怯者!!」
という僕の大きな声を、下駄箱そうじから帰ってきた大島たちが聞きつけた。彼が言うには、とにかく僕は圧倒的な早さでかけまわって叩くし、いたずら者の4人は逃げ場を失い、最後は、這いずり回って僕から逃れようとしていたらしい。
 実際、僕が我に返った時は、担任の先生が駆けつけてくるところで、僕は背の高い大島に羽交い締めされ、小池が横から僕の腕を押さえていた状態だった。4人は、床に座り込んでわんわん泣いていた。
 現場を最初から見ていなかった女子の誰かが、
 「先生、椎名君が暴れてたんです。」
と言ったので、僕はすごい目で睨み付けてしまった。彼女と、周囲の人間の顔からさっと血が引くのがわかり、僕はあわてた。
 「僕が、僕は・・・好きで暴れたんじゃない。」
 と言った時に、ようやく大島と小池は、僕を放してくれて、言った。
 「そう、椎名は、ニワトリを助けようとしていたんです、先生。」
 先生が、溜息をついた。先生も、びっくりしていたのだと思う。ケージのそばに散らばっているニワトリの白い羽、わんわん泣いている4人の男子と、ふだんはおとなしい優等生(?)で通っていた僕が、めちゃくちゃに暴れていたことが。

 「よく、分かりました。あなたたち、大島くんと小池くんの言うことを否定できる?」
 その声に、彼らは泣きながら、こう言ったのだ。
 「確かに、僕達は・・・ニワトリのケージにほうきを差し込んだけど・・・ニワトリをぶったりしていません。」
 「椎名は・・・容赦なくて・・・。すげ〜コワイ顔して・・・。」
 「何を!ニワトリなんて、もしもぶったら、死んでるじゃないかッ」
 「ほらほら、やめなさい。分かったから・・・。でも、椎名君の言うとおりだわ。いじめただけでも、ニワトリはノイローゼになってしまうかもよ。」

 結局僕は、先に言葉でも注意したってことが認められて、でも、”だからと言ってむやみに人を本気で攻撃してはいけない。”というお小言をもらっただけで、すんだ。彼らは、体育館まわりの溝を、4人だけで掃除する罰を受けた。それから、しばらく1週間くらいは、めぐみと大島と、あと数名以外のみんなは、僕を怖がって、そばに近づいて来なかった。


 ―――米山は、僕の顔をあきれたように眺めていた。
 「へええぇぇ。椎名がねぇ。・・なんか、想像つかねぇ・・・。」
 「だから、コワイんだよ、逆に。」
 「ちぇっ。子供のころの話だよ。今はかなり抑制が利いてるし、大丈夫だよ(と、思うよ)。」
 「まぁな。とにかく悪いのは相手だし。4対1だから、ある程度、本気にならなければ、椎名のほうがすぐやられちまったと思うし。だけど・・・みんな、びびったんだぜ。俺と小池だって・・・止めに入るの、すごく怖かったし、気の弱い女の子なんて・・・隅で、泣いてたもん。」
 「まぁ、しかし、ほうきで良かったね〜。」
と、米山が言った。そう、あの時の僕も、落ち着いてから一番気になったのは、それだった。
 僕は、自分が手にしていたものがほうきでなくて、モップとか、もっと固いものだったりしたら、ちゃんと手加減しただろうか?っていう疑問には、正直しばらく悩んでいたりしたのだ。

 帰りに、スーパーのたこやきを、大島と二人で立ち食いした。大島はパクつきながら、
 「だけど、松村先輩が帰ってきたなんてな・・・。お前、大丈夫?」
 「正直、あまり嬉しくないし、会いたくないけど。お父さんの海外赴任が終わったんだと思うよ。すごいじゃん。英語ペラペラかもなぁ・・・。」
 「他人事みたいに・・・。まぁ、椎名は、いざとなったら強いって、オレは思っているから。」

 そうかな、って、僕は思った。弱いから、あの時、めちゃめちゃ暴れたんだと思っているんだけど。それにあの時、我に返った僕は、自分の手をみるのが、すごくいやな気持ちになったのだから。他人を殴るために、ギュッとほうきをにぎりしめた跡がついている手を、一人になってから、そうっと開いてみた。
 夢の中で見たように、血や泥などがついていなくて、ほっと息をついたのだった。


**************


 騎士エレナは、国境の手前の村まで残りわずか、という地点までようやく来た。
 「あと、少しだな。 みな、よく頑張ってくれた。」
と、供の兵を振り返り、ねぎらうように声をかけた。みなも、笑顔で答える。国に戻れるうれしさもさることながら、ひとりで危地に向かった小隊長エレナが、駐屯地のギャラヌズーンの村に戻ってきて、合流してからも、かなり複雑な顔をしていることが多かったからだ。
 小隊長の笑顔も久しぶりだなと皆、心から思った。困難な任務は、部下にやらせずに自ら真摯にやりとげる姿に、うら若き女性騎士の下に配属された不満も、今はほとんど解消されていた。だが、今度は逆に、騎士エレナの方からの壁を感じ、部下達もやりきれない思いで帰還してきたのである。
 国への帰還は、たった数日間だというのに、運んでいる物が物だけに、騎士エレナも気が張っていたのだ。
 隊の誰にも、内情をあかせない。そして、手で感じるよりももっと、重みのある革袋を懐に、馬上の彼女は、また唇をひきしめた。このような瞬間が、油断につながりかねないと、思い返したからだった。

 村は、しんと静まり返っているようだった。
 「?」
 村の手前の放牧場には、牛、馬、セタムーも放たれていない。むろん、人かげもない。不審に思ったエレナが合図を出し、小隊を留めた。
 剣のつかに、全員が手をかけた。緊張感がみなぎる。ひと呼吸してからだったか、村から、こちらとほぼ同数とおぼしき、騎士の小隊がこちらへ向かってくるのが見えた。
 目の良い者が、声を挙げた。
 「フェーリスの旗です。あの旗は、・・・!」
 「あ、あれはエドワード殿だッ」
 国軍の最高司令官がなぜここに・・・しかも、小さな編成で?とも思ったが、けものながらも堂々として威厳のある黒毛の馬の上にいるのは、たしかに騎士エドワードだった。

 「ご苦労だった、騎士エレナ。」
と、声をかける騎士エドワードの目は、厳しかった。エレナ以外の兵は、その後、迎えに出てきた騎士エドワードの隊の者に伴われて、村へと向かっていく。

 「・・・・すまない。いろいろ、ご苦労だった。すぐにでも村に入ってもらい、皆と休息をさせてやりたいが。」
と、騎士エドワードは、礼のために一度、下馬した騎士エレナに、再度騎乗するよう、手で促した。
 「分かっています。・・・ご存じなのですね?」
 「ああ。・・・長老も、姫も、悩まれた末の決断ではあるが、危険なものを確認もせずに国に入れることは、私にはできない。」
 「はい。私も、マーレンディアヌ様を信じて、ここまで持って参りましたが、いかにご命令とはいえ、複雑な思いを振り払うことは出来ませんでした。」
 「うむ、軍属の我らからみれば、魔は・・・得体の知れないものといった方がよいからな。」
と、騎士エドワードは、苦みを含んだ声で言った。
 本来の宝珠からの力を引き出して作った、作り物の宝珠しか使えない立場の人間からしてみれば、生きているという、本来の宝珠、またその魔法力というものは、多少のうさん臭さを含んでいる。その気持ちが、騎士エレナにはよく分かる。

 「村はずれの炭焼き小屋で、落ち合うことになっている。」
 「わかりました、共に参りましょう。」
 「で、魔物を見た、というのは、本当なのか?」
と、馬を並べながら、騎士エドワードは聞いた。周囲を、一言も発せぬままに、エドワード直属の精鋭の騎士5名が固めている。
 「はい。・・・・私もここまで帰ってくると、全ては夢だったように思えますが、しかし・・・。」
 「伝説上の、緑の谷のエルフ族にも会ったとか・・・。」
 「はい・・・。」

 ―――騎士エドワードに続いて、炭焼き小屋に入った騎士エレナは、
 「あ!あなたは・・・!」
と声をあげ、その場にかしこまってしまった。
 




(続く)

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