日本の作曲家たち/別巻〜 流行歌篇 (1)
 江口 夜詩 (えぐち よし)

                     (2023.12.30/更新)

   

   江口夜詩 (えぐち・よし/1903.7.1〜1978.12.8) 40歳の頃

(本ホ−ムペ−ジ作成にあたりましては日本昭和音楽村江口夜詩記念館 (岐阜県大垣市)の皆様、江口夜詩氏ご親族の江口直哉様、「昭和の大作曲家・江口夜詩」の著者・白石博男様に資料提供などでたいそうお世話になりました。 ここに謹んで御礼申し上げます) (制作 岡崎 隆)

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2023年10月、江口夜詩の本格的評伝が刊行されました。


江口夜詩〜昭和歌謡の礎を築いた作曲人生〜

  著者: 江口直哉 出版社: つむぎ書房 1,980円 (税込)


2023年11月17日にBSテレ東で江口夜詩の特集番組が放映されました。

武田鉄矢の昭和は輝いていた【流行歌の先駆者!作曲家・江口夜詩生誕120年】


2021年3月8日にに放映されました。
古賀政男×古關祐而×江口夜詩 昭和歌謡もうひとつのエール! 作曲家ライバル物語


昭和の流行歌を彩った三人の作曲家のライバル物語を、3時間にわたり貴重な映像も交え紹介した力作です。

國民音樂院開設時の写真をアップしました。



 Introduction

 2020年に放映されたNHK朝ドラ「エール」のモデルになった作曲家・古關裕而 (1909〜89) についていろいろ調べるうち、江口夜詩という名に出会った。古關が日本コロムビアに入社後ヒット曲を生み出せず、業を煮やした会社側がスカウトして来た作曲家が江口だった。彼はもともとポリドールで月給30円で雇われていた作曲家だったが、1932年(昭和7年)11月にリリースした「忘られぬ花」(歌/池上利夫=後の松平晃)がヒットし、一躍注目されるようになっていた。ポリドールの専属が切れて一年経った1933年(昭和8年)3月、コロムビアは江口に入社支度金二千円、月給三百円という破格の好条件を用意した。当時の古關の月給は二百円であったから、評価の違いは歴然である。
 コロムビアに入社後すぐに江口は「十九の春」(歌/ミス・コロムビア)「急げ幌馬車」(歌/松平晃)などのヒットを連発、1934年(昭和9年)12月に発売された30枚の新譜のうち20枚が江口の手によるものという大活躍であった。この現状に、コロムビアは古關の解雇を考えた。しかし、古賀政男の強い反対により窮地を免れたのは「エール」で描かれていた通りである。
 こんな物凄い作曲家・江口夜詩について、私はもっと知りたくなった。
そして調べているうちに、私がよく知っている曲の多くが江口の手によるものであることが分かり、驚きと嬉しさとが交差した。
 そんな江口の出身地が岐阜県・大垣市のという事実にも、私は驚いた。私事で恐縮だが、大垣は私の両親の出生地である。
出生地の大垣市上石津町には日本昭和音楽村という施設があり、江口夜詩記念館が併設されているという。ここなら日帰りで行って来れる場所だ。
6月初旬、私は「江口夜詩記念館」に電話をしてみた。
「古關裕而について調べるうちに、江口夜詩さんについて知りたくなりました。記念館は今やってらっしゃいますか?」
突然の電話にもかかわらず、担当者のOさんは親切に対応してくださった。

「コロナの影響で、5月いっぱいまで閉館していたのですが、6月から少しづつ開けようと思っています」
「それでは近いうちに是非一度お訪ねしたいと思います。ところで今NHKの「エール」で古關さんがたいそう話題になっていますが、NHKから江口さんについて何か問い合わせ等はありましたか?」
「それが・・・私共も少しは期待していたのですが、残念ながら無いんですよ」

限られた放映期間では、NHKとしてもやはり的を絞る必要があるのだろうか。
お礼をい言い改めて地図を見ると、大垣の中心地から遥か離れ、関ヶ原の南26キロの養老山脈の裏側あたりだ。なぜここが大垣なのか?
さらに調べるうちに、江口が出生した明治36年頃の当地は岐阜県養老郡時村といい、上石津町を経て、現在大垣市に編入という形になったようだ。
日本昭和音楽村・江口夜詩記念館は上石津町時代の平成6年にオープンしているので、すでに25年の月日が経っていることになる。
私はこれまで全国のいろいろな作曲家やアーチストの記念館を訪ねて来たが、共通して感ずるのは「月日の流れ」による記憶の衰退と、施設そのものの風化であった。作曲家がまだ人々の記憶に新しいうちは訪れる人もいるだろうが、どうしても時の流れによってその作曲家も過去の人となり忘れ去られ、施設の活動も衰退して行かざるを得ないように見える。そうしたリスクを回避するため、それぞれの記念館は連携していろいろな企画の立案・運営の強化をはかっておられるのだろう。

 数日後、私は江口夜詩記念館に向かい、ハンドルを切った。
養老山脈を右に見ながら北に進路を進める。のどかな田園風景が続き、心が癒される。
やがて道路脇に「日本昭和音楽村」の看板が現れた。景色はさらに素朴さを加えたその先に、突如大きなドームが・・・
すぐ横の湖水とマッチしてモダンな外観だ。


江口夜詩記念館 (岐阜県大垣市上石津町/筆者撮影)

 建物の周りにほとんど人はおらず、受付で江口夜詩の資料を閲覧したい旨を告げると、階段の先を案内された。
どうやらホールのロビーが閲覧コーナーになっているらしい。予想より小じんまりとした展示物に正直なところやや拍子抜けしたが、よく見てみるとその内容はたいそう興味深いものであった。まず、全国の作曲家の記念館を紹介する大きなマップが目を引いた。古賀政男、古關祐而ら昭和初期に江口と覇を競った作曲家の記念館など、一度は訪れてみたいと思った。
 次に目を引いたのが、大指揮者ワインガルトナーが昭和12年に来日した際の記念写真だった。クラシックの大指揮者の周りに日本流行歌陣が勢揃いという情景は、恐らく所属レコード会社(コロムビア)の関係によるものだろうが、当時が鮮やかに偲ばれて感銘を受けた。
 次に私の目を引いたのは、江口家から提供されたという「十九の春」のSPレコードと歌詞カード及び色紙だった。ミス・コロムビア(松原操)の最高傑作であるこの名曲を作曲したのは、実は江口だったのだ。冒頭の哀愁溢れるスチール・ギターを奏でているのは、松原によればディツク・ミネであるという。

   「十九の春」レコードと歌詞カード・色紙 (江口夜詩記念館)

 彼はこの楽器の名手で、レコード会社の枠を飛び越え、ギターを自転車の後ろに縛り付けて様々なレコーディングに参加していた。私が敬愛してやまない高峰三枝子の初レコーディング「螢の光」におけるデイツクの見事な間奏も、懐かしく思い出される。
 簡素でありながら内容の濃い展示に、流行歌ファンの方に限らず地域の方々など少しでも多くの皆さんにこの展示を通じて作曲家・江口夜詩を知って欲しいと思った。奇しくも私が記念館を訪れた数日後、古關祐而研究で造詣の深い辻田真左憲氏が同館を訪れ、「団体歌のパネルに唸らされる・・・小粒だが味わい深い江口夜詩記念館」という書き込みをされていた。江口は終生故郷・上石津を思い、地域のための作品も多く残しており、こうした方面に関心のある方にも見て頂ければ、と思った。
 その他展示されている資料はいずれも興味深いものばかりで、まだこの他にも遺族から提供を受けたものが多くあるという。
電話でお話したYさんは生憎この日はいらっしゃらなかったが、受付におられた方といろいろお話をしたところ、何と帰りがけに次のような江口夜詩の貴重な資料を貸してくださった。

 昭和の大作曲家 江口夜詩 (白石博男/平成8年3月)
 憧れのハワイ航路/忘れな草をあなたに〜不滅の江口メロディー/レコード冊子 (故江口夜詩を偲び江口浩司を励ます会/1985年7月)
 月刊 「西美濃わが街」no.22 江口夜詩追悼集 (1979年3月)
 月刊 「西美濃わが街」no.204 歌声響け夜詩の里。(平成6年)
 憧れのハワイ航路 不滅の江口メロディー 江口夜詩年譜・作曲総覧 (江口夜詩を偲び江口浩司を励ます会事務局/1985年7月)
 
これらの資料やネット情報等をもとに、作曲家・江口夜詩の生涯を辿ってみたいと思う。


(作曲家/江口夜詩の生涯)

 江口夜詩 (本名/江口源吾) は1903年(明治36年)7月1日、岐阜県養老郡時村(現・大垣市上石津町)で、農業を営む江口源弥の次男として生まれた。
1918年(大正7年)、時高等小学校を卒業。村役場に勤めたが勉学の思い捨てがたく、親に内緒で海軍軍楽隊を志願。1919年(大正8年)6月横須賀海兵団に入団した。
翌年10月、第一期軍楽補習生を首席で卒業。12月には海軍三等軍楽兵として舞鶴海兵団に転勤、トロンボーンを担当した。
1921年(大正10年)3月、皇太子(のちの昭和天皇)渡欧御召艦乗組軍楽隊員の一員に選ばれ、半年の間西欧各国を巡り、パリ・オペラ座やミラノ・スカラ座で本場のオペラに触れた。帰国後の12月、東京音樂學校(現・東京藝術大學)に海軍省依託生として入学、つごう6年間在学し、あの信時潔にセロを学んだ。

端からは順風満帆の音楽生活に見えた江口だが、実は密かにある悩みを抱えるようになっていた。トロンボーン・セロのどちらにも、自らの才能の限界を感じていたのだ。
そんな折、音楽学校近くの上野公園で平和博覧会が催され、海軍軍楽隊の前に催された新国劇の沢田正二郎の颯爽とした舞台姿に、江口の目は釘付けになった。

「海軍を退いて、俳優になりたい!」

思いつめた江口は思い切って沢田の楽屋を訊ね、弟子入りを懇願した。
最初は全く相手にしてもらえず、「帰りたまえ」と追い返される日々が続いた。
それでも江口は毎日、楽屋に通い続けた。
一週間後、沢田はようやく静かに語り始めた。

「君は、いま何をしているのか」

江口がそれまでの経歴を詳しく話すと、

「5年間も勉強したことを、あっさり捨てて役者になろうなどとは、とんでもない思い違いだ。
そのような人は、今から役者の勉強をはじめても、また5,6年たてばやめて他のことをはじめるだろう。
それよりも今まで勉強を生かして何か進む道があるはずだ。
僕はよくわからないけれども、楽器を鳴らすことに行き詰まったなら、たとえば作曲の勉強をするというようなことは出来ないのか? 」

沢田の言葉は江口の胸を強くゆり動かした。

「よし、やってみよう」

厚く礼を述べ、爽やかな気持で隊に帰った江口であったが、その後の苦闘はそれまで以上のものであった。当時海軍にも上野にも作曲を教える教師はおらず、江口も僅かにヤダーソンの「和声学」一冊を習ったに過ぎなかった。全くの独学で五線紙に取り組む日々が始まった。
1925年(大正14年)2月、行進曲「千代田城を仰ぎて」完成。海軍軍樂隊の指揮者・佐藤清吉に激賞され、ラジオ放送もされた。


 最初の妻・喜枝との結婚と別れ


(源吾22歳、喜枝19歳/「江口夜詩作曲総覧」より)

1925年(大正14年)、江口は神田鍋町の土肥喜枝(どい・よしえ)と結婚した。
1926年(大正15年) 佐藤清吉樂長渡欧送別演奏会でのベートーヴェン「第九交響曲」演奏に、セロ奏者として参加。
行進曲「By The Lake」作曲。
1927年(昭和2年)、行進曲「厳かなる悲しみ」作曲。のちに作曲家となる長男・浩司誕生。
1928年(昭和3年)、吹奏楽大序曲「挙國の勸喜」作曲。京都公会堂・日比谷公会堂で相次いで演奏。
1929年(昭和4年)、行進曲「樂しき兵舎」作曲。歌曲「夜の愁」でビクターから初めてレコード・デビュー。
1930年(昭和5年)、「日本海海戦行進曲」作曲。

しかしこの年の4月、妻喜枝は長女・玲子を出産後床から起き上がる事が出来ず、間もなく敗血症のため24歳の若さでこの世を去った。

「このときの悲しみ、それは人生における、恐らく最大級のものだったと思う。世界中の誰よりも、私が作曲家として世の中に起つ日を待ち焦がれていたのが妻だったのである。その希望のために、あらゆる若き女性の欲望も虚栄も外聞も一切を捨てて、この五年間、ただ一筋に私を作曲一路に精進せしめてくれた彼女だった。世に「三度の食事を二度にしても」というが、彼女の場合それが現実に行われていたことを、後で日記を見て知った私の胸は、全く文字通り張り裂ける思いだった」


以後江口は妻の「よし」を取り、「夜詩」と名乗るようになった。


 最初の大ヒット曲「忘られぬ花」

 1931年(昭和6年)、交響幻想曲「芳春」作曲。5月に10年間所属した海軍を離れた江口は、6月にポリドールに入社。専属料は当時の大卒初任給にも満たない月30円であった。6月滋賀県から上京していた従妹の高田志ず(26歳)と再婚。

1932年(昭和7年)、コロムビアの古賀政男のギター伴奏物の大ヒットを受け、ポリドールでも同様の作品が企画された。
それが「忘られぬ花」(歌・池上利夫/後の松平晃) である。
作詞の西岡水朗は、若くして妻を亡くした江口の境遇を想起させる、切々とした内容の詩を用意した。江口は慣れないギター奏法のイロハを、ポリドールにアルバイトに来ていた明大マンドリン倶楽部の竹岡信幸から徹夜で聞き取り、曲は完成した。
「忘られぬ花」は50万枚の大ヒットとなり、江口に流行歌作曲家としての将来を決心させる事となる。


SPレコード「忘られぬ花」レーベル (筆者所蔵)

「忘られぬ花のテスト盤を新宿のカフエーで女給たちにきかせたところ、一人、また一人と泣き出した。その時私は思った。一人の作曲家が泣きながら作った曲は、必ず人の魂をうつものだ、と。それまでシンフォニー作家として立つ理想を持っていた私は、流行歌などあまり重んじていなかった。しかしそれは理論としては一応正しいかもしれないが、要すれば、人の魂を揺り動かす、それこそ本当の芸術ではないか。この真理を一人の女給の涙から学び取った私は、これに生涯を打ち込んでも惜しくない、これからは流行歌一本で進もうと決心ができたわけである」


「忘られぬ花」ヒットにより、江口のもとには各社から作曲の依頼が殺到するようになった。昭和7年の秋には一か月に64曲もの作品を書き、文字通り「書けば売れる」状態で、作曲者自身「乱作の時代で、振返れば大して取り上げるような作品はなかった」と述懐している。
ところで「忘られぬ花」の裏面に収録された「時雨ひととき」(渡瀬春枝)にこそ、後の江口が最も得意としたリズムカルで軽やかなメロディーの萌芽が現れていた。 作曲家・服部良一はこの作品について次のように述懐している。

「わけてもその卓抜した技法に驚いたのは、バンジョーを自由に駆使したジャズ的な「時雨ひととき」の絶妙さでした」


 翌昭和8年、江口のもとにコロムビアから専属入社の誘いが来た。勧誘というより懇願に近い形であった。冒頭に述べたようにコロムビアは専属だった古關祐而がヒット曲を生み出せず、彼に代る作曲家を必死に探していたという事情があったのである。同年3月、江口は入社支度金二千円、月給三百円という破格の好条件でコロムビアに入社する。折しも4月に覆面歌手・ミス・コロムビアが現れ、その後江口の作品を数多く歌うこととなる。



「十九の春」「急げ幌馬車」



ミス・コロムビア/デビュ−の頃の歌詞カード(筆者所蔵)より

 昭和8年5月、松竹映画の主題歌としてミス・コロムビアが歌った「十九の春」が、江口も思いも寄らぬほどの勢いで大ヒットする。

「あまりにも思いがけないヒットになったので、自分でも少し不思議な位だった」

「長いスランプに陥り作るもの皆気に入らず、腐り切った長い生活が続いた続いた後に何かの動機で、例えば自分の心境にびったりと合致した素晴らしい歌詞が手に入ったりした時、さながら糸を手繰るように頭のどこからか旋律を引張り出してくれる、といったことがある。「十九の春」などは全くその例で、西条八十氏の優れた歌詞の力によって実を結んだものであるということができると思う」


 ちょうどその頃、同じコロムビア専属だった古賀政男が病気療養のため転地し全く仕事をしておらず、のちにテイチクへ移ってしまったため、「十九の春」の大ヒットにより江口はコロムビアの覇権を完全に握る形となった。翌昭和9年に作曲された「急げ幌馬車」(松平晃)は当時「国境の町」(東海林太郎)などのヒットで人気を集めていた、いわゆる「曠野もの」の決定打としてヒット、翌10年の「夕日は落ちて」(松平晃、豆千代)へと続いて行く。
この作品では当時の流行歌では前例がなかった変拍子を用い、独自のエキゾチックなムードを生み出している。四分の三拍子の旋律を四分の二拍子で書くというのは、バロックのフェミオレや後のバーンスタインの「ウェストサイド物語」などクラシックの世界ではお馴染みの手法だが、昭和初期の日本では、さぞモダンな響きと受け取られたことだろう。歌手の豆千代は江口と同じ岐阜県出身で、この作品がデビュー作だった。同郷ということもあってか、譜面が読めない彼女を江口は音感から徹底的に指導し、見事クリーンヒットへとつなげた。
「忘られぬ花」の頃から江口の斬新な作・編曲法を注視していた古賀政男は、「急げ幌馬車」「夕日は落ちて」がヒットするに及び、完全に江口をライバルとして見るようになった。

「当時の歌謡界には、私と同年輩の作曲家はいなかった。ところがポリドールの新譜を聴いていた私は、鮮烈な驚きを感じた。「忘られぬ花」という曲で、作曲者は、後年「急げ幌馬車」でヒットを飛ばした江口夜詩君であった。私は容易ならぬ強敵の出現に思わず身構えた。江口君の出現は、私にいい刺激になった。それから二人のシーソーゲームが始まった。よきライバルを得て・・・(古賀政男/自伝より)



 昭和10年のコロムビア売上げ120万枚のうち半数以上が江口作品という現実に至り、同社始まって以来の快挙ということで11月末、社長ホワイトに横浜のグランドホテルに招待され、スペシャルボーナスとして金一千円を渡された。

 きな臭い厳しい時局に反発するかのように、世間では「ねぇ小唄」と揶揄される、きわどい歌が受けていた。
「のぞかれた花嫁」「忘れちゃ嫌よ」など、題名を聞いただけで引いてしまいそうだが、江口は「下品になりすぎないように、しかし一般大衆の心を掴むものを」という思いから「花嫁行進曲」「ふんなのないわ」を作曲した。後者は純情可憐なイメージのミス・コロムビアに歌わせようと作られたもので、江口からの電話を受けたミスコロは涙を流して受話器を切ったという。結果、「清純ムードを崩さないような歌い方」で録音され、「ふんなのないわ」は流行語にもなったが、当局から「官能的表現性の極地である」と判断されてしまい、一ヶ月で発禁となった。


コロムビア・レコードの記念写真。(前列右より江口、ミス・コロムビア、一人おいて松平晃)
LP「松平晃を偲んで」(コロムビア/AL-5054〜5)より転載。


 戦争の時代と國民音楽院

 昭和12年の廬溝橋事件を発端に、日本は泥沼の戦争へと突き進んでいった。音楽の世界でも戦争遂行に資する作品が求められた。同年、古關祐而が「露營の歌」を発表し大ヒット。その後次々と新しい軍歌を生み出し、「軍歌の覇王」と称されるまでになる。
 江口も求められて軍歌の作曲に従事はしたが、古賀政男同様この分野にはあまり積極的ではなかった。そんな中、昭和15年に発表された「月月火水木金金」は、江口の軍歌の代表作として幅広い人気を得た。古關の切々とした悲愴感とは対照的に、その曲調はリズミカルで明るく、まさに江口の面目躍如で、この作品はのちに軍歌ランキング第一位に輝くなど、大人気作となった。

 一方江口は、若い音楽家の指導にも熱心だった。昭和14年(1938年)、世田谷区三軒茶屋に「國民音樂院」を設立し、新人音楽家の育成に着手する。門下生には歌手では松平晃、小畑實、津村謙、曽根史郎らが、作曲家では倉若春生らがいた。


 國民音樂院開設記念式典の記念写真/中央が江口。その真後ろの坊主頭が、若き日の真木不二夫 (当時は小谷野章)
 (江口夜詩年譜・作曲総覧より転載)

 ここで、國民音樂院で研鑽を重ねた一青年のエピソードを紹介したい。
ある日、江口の大ファンで岩手から作曲家を目指し上京してきた紅顔の美青年がいた。江口は彼の声の素晴らしさと容姿から作曲家よりも歌手になることを勧め、当時ナンバーワンのテナー歌手だった奥田良三を紹介する。奥田は青年の才能を認め、自らが所属するポリドールに紹介、やがて小谷潔の芸名でデビュー、戦後は眞木不二夫の名でテイチクから再デビューし、後に紅白に四度も出演するほどの人気歌手となった。

 戦後絶大な人気を得た春日八郎が不遇の頃、懇切丁寧にその面倒を見、デビュー曲「赤いランプの終列車」を作曲したのも江口である。
このようにただヒット曲を量産するだけでなく、積極的に後進の指導に力を注いだことも江口の大きな功績であったことを、私たちは忘れてはならない。

(つづく)

(参考資料)

 昭和の大作曲家 江口夜詩 (白石博男/平成8年3月)
 憧れのハワイ航路/忘れな草をあなたに〜不滅の江口メロディー/レコード冊子 (故江口夜詩を偲び江口浩司を励ます会/1985年7月)
 月刊 「西美濃わが街」no.22 江口夜詩追悼集 (1979年3月)
 月刊 「西美濃わが街」no.204 歌声響け夜詩の里。(平成6年)
 憧れのハワイ航路 不滅の江口メロディー 江口夜詩年譜・作曲総覧 (江口夜詩を偲び江口浩司を励ます会事務局/1985年7月)
 CD「日本の吹奏楽 江口源吾 作品集」 (クラウン CRCI-20186/1995年)
 CD「江口浩司 叙情歌セレクト〜忘れな草をあなたに〜 」(キング NKCD-1664/2013年)



    

1927年(昭和12年)、名指揮者ワインガルトナーを迎えて。
左から伊藤久男、カルメン・ワインガルトナー、豆千代、ミス・コロムビア(松原操)、ワインガルトナー、江口、服部良一、古關金子(古關裕而夫人)、古關裕而

クラシックの大指揮者の周りに日本流行歌陣が勢揃いという情景は、恐らく所属レコード会社関係によるものでしょう。
シューリヒトやわが山田一雄もそうだったが、指揮者の奥さんって、どうして皆若くて美人なのでしょう?
カルメンさんは指揮者でもあるそうです。旦那の偉功で日本でもタクトもとったのでしょうね。

 

「江口源吾作品集」(クラウン/CRCI-20186) 海軍軍楽隊・東京音楽学校(現・東京藝大)時代の江口の吹奏楽作品を、海上自衛隊東京音楽隊が最新録音した、貴重な一枚だ。




( おことわり)
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