忘られぬ流行歌手たち

 真木 不二夫

    (2024.1.3 更新)



まき ふじお 大正8年 (1919年) 2月1日 〜 昭和43年 (1968年) 12月5日
(写真提供/江口直哉様=江口夜詩氏・孫)

昭和20年代を中心に活躍した真木不二夫さんの、初のホームページです。

(制作= 岡崎 隆) 本ページでは一部敬称を略させていただいております。どうかご了承ください。

真木不二夫についての情報や、このページのご感想はこちらまで。
真木の歌を聴いた感想や思い出なども大歓迎です。

(SPECIAL THANKS)
岩田義史様 (お名前公表ご了解済)、江口直哉様(江口夜詩氏・孫)、釜石市郷土資料館、釜石商工高等学校

(真木不二夫/ディスコグラフィー)
ポリドール篇、 テイチク篇依頼録音その他

エッセイ「パラダイス東京とわが父」



SNSを検索していたところ、真木不二夫 (左)の珍しい写真が見つかりました。
楠木繁夫 (右) と一緒に映画を見ているスナップで、恐らく映画の一シーンと思われます。
(このシーンをご存知の方、ぜひこちらまでお教えください)



(真木不二夫/TOPICS)

作曲家・江口夜詩氏のご親族(孫)の江口直哉さんが、たいそう貴重な音源とレーベル画像をお送りくださいました。
ショーチクレコードというレーベルで、「旅の幌馬車」「加茂川月夜」の2曲がピアノ伴奏で収録されています。歌っているのは小谷野章(真木不二夫)で、直哉さんによれば復員した小谷野が昭和22年ごろ恩師・江口夜詩を訪ねて歌のレッスンを受け、レコード会社への売り込み用として制作したものではないか、との事でした。(伴奏のピアノは恐らく江口夜詩) 詳しくはこちら。(2023.12.31)




昭和20年代前半に作成されたと推測される「懐しのいづみ荘」(A793/眞木不二夫 w. 淡谷のり子/島田磐也・詩、長津義司・曲、編/裏面=いづみ荘ブルース (淡谷のり子) についての情報をUPしました。(詳しくはこちら)これまでその存在が確認されていなかったもので、今後同様の依頼録音が発見される事を願ってやみません。(2023.10.31)


戦前の小谷潔時代にポリドールに吹込んだ「日本海軍軍歌集」(二) について

2023年9月、ヤフオクに「日本海軍軍歌集」(二) (昭和17年2月?/P 5224 B)が出品されていました。



現在入手が難しい超レア盤ということもあって案の定高価がつき、涙を飲んで落札を見送りましたが、「ひょっとして?」と、昔浜松で入手した「上原敏全集」を調べてみました。
すると何と最終巻(第15巻)に、このSPのB面(小谷が参加している方)が収録されていたではありませんか!!



小谷の未聴盤を持っていた事に気付かず、20年近くを過ごしてしまっていたのです・・・。
このレコードで小谷が歌っているのは1曲目の「敷島艦行進曲」の2コーラスのみだったので、無理して高価なSPの落札に参入しなくて良かった ! と思っています。
さっそく聴いてみましたが、戦前の張りのある若々しい美声に陶然とさせられました。
このLPが無ければ、私はこの曲を一生聴く事が出来なかったでしょう。
「永遠の上原敏」全集を自主制作して下さった木村孝雄氏(吹田市)に、心より御礼申し上げます。
(2023.9.23 岡崎隆)



☆ 真木不二夫ファンの方からお便り「真木不二夫と私」をいただきましたので、掲載させていただきます。

☆ 真木不二夫の釜石商業高校時代の写真、生家・銀波寮(釜石市)の写真を追加しました。
(真木不二夫/経歴・本分中に掲載)

☆ 幻の真木不二夫CD全集 (6枚組)/その全容が判明しました。(2022.5.6)


 「真木不二夫/なつかしの歌声」CD6枚組/ケース表紙



岩田義史さんからその存在を伺っていた真木不二夫の6枚組CD全集の全容が、このたびようやく判明しました。2002年2月に刊行された同人誌「SPレコード」に掲載されていたもので、仙台市で「歌声を楽しむ会」を主宰されていいた佐藤正人さんが昭和40年代に自主制作されました。戦前の「小谷潔」時代の軍歌からテイチク時代のものまで、総収録曲は124曲にも及びます。岩田さんによれば一般に流布したのは僅か5セットで、第7巻も検討されましたが諸事情により販売共々中断したとの事です。
現在この全集の入手はほぼ不可能と思われますが、今後鋭意調査を進めて行きたいと思っております。
なお佐藤氏は2万枚のSPを残され、現在は空調の整った文化財関係設備に寄贈され、保管されているとのことですが、一般からの問合せには応じておられないようで、私共も詳しい情報は把握しておりません。
この自主制作CDをお持ちの方や、上記のSPを保管されている施設の詳しい情報をご存知の方、是非こちらまでご一報ください!!



眞木不二夫出演映画「百万ドルの明星 陽気な天國」(日活/昭和30年)
   Amazon prime videoで公開中!!

 

Amazon prime videoで、眞木不二夫が出演している昭和30年公開の「百万ドルの明星 陽気な天國」を見ることが出来ました!
眞木不二夫は宮田東峰の指揮をバックに、「涙の連絡船」を2コーラス歌っています。
初めて見た眞木の動画の印象ですが、想像以上にカッコ良く清潔感に溢れ、清々しい絵に描いたような美男子で、明るい美声も素晴らしく、5回も繰り返し見てしまいました!
この映像からは、翌年に歌手を引退する暗い影は全く見あたりません。
興味のある方は是非日活HPにアクセスし、Amazon prime videoのアプリをダウンロードしてください。
眞木はこれ以外にも複数の映画に出演しており、歌のほかに役を演じたりしていますので、きっとまた新たな眞木に出会える日が来ると信じています。
このような映像が残されていた事に心から感謝すると共に、更なる期待に胸が大きく膨んだ次第です。(2021.12.11)


(本ホームページについて/2021.5.17)

私はもともとクラシック畑の人間なのですが、流行歌も大好きです。
真木不二夫さんを意識するようになったのは、つい最近の事です。
真木さんの歌には妙なクセがなく、その美しい歌声はグングン心に沁み込んで来ました。
「こんな素晴らしい歌を歌う方がいたのか!」 心からそう思いました。

真木さんにハマッてからというもの、氏が残した全ての録音を聴きたい! という思いを、強く持つようになりました。
以来「ヤフオク」などで苦労に苦労を重ね、ようやく100曲ほどの音源を入手出来たのですが、その後はすっかり頭打ちとなってしまいました。
真木さんの音源をこれ以上手に入れるには、どうしたら良いだろう・・・いろいろ思案した結果、真木不二夫さんのホームページを開設することを思い付きました。真木さんに興味を持っておられる方がこのページを見てくだされば、きっと何らかの情報をお寄せくださるのでは・・・そう思った私は、拙いながら真木不二夫さんのホームページの開設に踏み切ったのです。すると複数の方が、真木さんに関する情報をお寄せ下さいました。

京都市ご在住の岩田義史様(お名前公開ご了解済)は、真木不二夫の詳細なディスコグラフィーと資料を提供くださいました。
また真木さんが師事した作曲家・江口夜詩氏のご親族は、真木不二夫の貴重な写真や資料をお送り下さいました。
その多くは、本ホームページで公表させていただいております。
岩田様、江口様、本当にありがとうございました。

このページが今後も、もし真木不二夫さんファンの皆様のコミュニケーションの場になれば、こんな嬉しい事はありません。
真木不二夫についてよくご存知の方、ぜひ情報をお寄せ下さい!! お問合せはこちらまで。

真木不二夫/ディスコグラフィー
(ポリドール篇、 テイチク篇依頼録音その他)
エッセイ「パラダイス東京とわが父」


本HPに寄せられた真木不二夫・新情報

(眞木富二夫グループ機関誌「薫風号」より)

真木不二夫が戦前國民音樂院で師事した作曲家・江口夜詩氏のご親族が、真木の貴重な写真及び資料を複数提供くださいました。また同院入校時の真木についての江口氏の貴重な証言を、本文に加えさせていただきました。

真木不二夫/スナップ集


京都市の岩田様から、真木不二夫のディスコグラフィーをお送り頂きましたので、拙ディスコグラフィーに加えさせて頂きました。真木がポリドールテイチク篇
に残した公式録音は、ほぼ網羅されたと思います。

なお真木不二夫テイチク退社後の昭和30年代、アダルト雑誌に「真木不二夫」名で発表された小説は、岩田様によれば真木の名前を勝手に使った不届きな輩の仕業で、真木本人は一切拘わっていないことを、ここに改めて記したいと思います。


眞木富二夫ファンクラブ/機関誌

 (眞木富二夫グループ機関誌「薫風号」写真特集編)
 この機関誌について詳しくご存知の方、是非こちらまでご一報ください !!

眞木富二夫ファンクラブの貴重な後援会誌です。(2020.8/東京・神田の古書店にて入手)
大映映画「悲戀椿」がクランク・アップとなった直後の刊行で「薫風号」と題されており、また「眞木富二夫」の表記から、昭和28年(1953年) 6月頃に発行されたものと思われます。
真木のいろいろな写真が収められており、当時のファンの方々の熱気が伝わって来るようで、感慨深く読ませていただきました。
表紙はマドロス姿の真木のスナップ写真 (冒頭写真) で、次頁に「悲戀椿」の3枚のスチール写真(真木は「蕎麦屋の主人・鉄ちゃん」の役で出ています)、その次は4枚のステージ写真、最後にファンとの集いの模様を紹介したものが4枚掲載されています。
写真の他に、作詞家の島田磐也が眞木富二夫について書いた「歌謠談義」や、ファンからのお便りなども掲載されています。いずれも興味深いものばかりですが、このホームページでご紹介するには機関誌を作られた関係者の方のご了解が欠かせません。
もうかなりのご年配になられていると思いますが、もしこのホームページに気付いてくださった方がおられましたら、是非こちらまでご連絡をいただければ、まことに幸いです。どうぞよろしくお願い申し上げます。


眞木不二夫さんへ、ファンの方からのお便り (機関誌より抜粋)


真木不二夫・最新CD試聴記 (2020.8)



 (画像/コロムビア・ミュージック・ショップHPより)

真木不二夫・全曲集

(テイチク TFC- 22005) 2020.8.12発売 (郡修彦/監修・解説・録音)
(収録曲)
1. 夢をのこして 2. パラダイス東京 3. 泣くな片妻 4. 別れ湯の香
5. 高原の羊飼い 6 霧の港 7 スキー青春 8 片瀬夜曲
9 再見上海 10 夕陽の鳥 11 泪の夜汽車 12 君住む島
13 南海悲歌 14 人生サーカス 15 春は逝く 16 泪の連絡船
17 想い出のハルピン 18 吹雪の国境 19 丘の上の白い校舎
20 東京へ行こうよ 21 空が晴れたら 22 旅路の雨

  (このCDの試聴記はこちら)

 実に30年ぶりに、真木不二夫全曲集CDがリリースされました。
監修・解説・録音に郡修彦氏を迎え、初CD化を含む全22曲が収録されています。
今回真木不二夫を含め12人のテイチク歌手のCDが発売されましたが、このCDは現在一般のショップでは入手できず、「コロムビア・ファミリー・ショップ」などの通販限定商品です。
より多くの方々に真木の歌声が届くために、一般販売を強く望みます。

初CD化曲= 夢をのこして、パラダイス東京、別れ湯の香、高原の羊飼い、スキー青春、夕陽の鳥、南海悲歌、春は逝く、想い出のハルピン、吹雪の国境
「SP原盤による 真木不二夫の若き歌声」 に含まれていた「岬物」2曲(「慕情岬」、「わかれ岬」) は、本CDには含まれていません。

同シリーズではテイチクの次の歌手の方々のCDもリリースされています。
初CD化も多く、ファンには見逃せません。
ディック・ミネ、楠木繁夫、東海林太郎、田端義夫、真木不二夫、白根一男、菅原都々子、美ち奴、由利あけみ、松島詩子、小笠原美都子、菊池章子

なお菅原都々子のCD中2曲 (「母月夜の唄」「母千鳥の唄」)に、真木不二夫がデュエットで参加しています。



比類なき美声〜真木不二夫

 (テイチクSPレコード・歌詞カードより)


 現在、真木不二夫の名を知っている人は、ほとんどいないのではないでしょうか。
昭和20年代を中心に活躍し、ポリドール・テイチクに150曲ものレコーディングをし、紅白歌合戦にも4度出場した名歌手・真木不二夫・・・彼は忘れ去られるには、余りに惜しい歌手です。スキャンダルなどもあって全盛期に流行歌手の座を追われ、49歳の若さで亡くなってしまった事が、惜しまれてなりません。

現在真木不二夫の音源はYOU TUBE、ニコニコ動画などで結構聴く事ができます。著作権の問題もあるのでしょうが、私はこれらのサイトで多くの真木の歌唱に出会う事が出来ました。津村謙「上海帰りのリル」を模した「北京歸りの銀子」など、本当に素晴らしい曲だと思います。
心から感謝しています。

これまでの私の調査では、真木は150曲に及ぶ録音を残しており、そのほとんどがSPです。



懐かしいテイチクレコード外袋 (昭和28年頃)



私の真木不二夫のSP探しは、「ヤフオク!」などのフリマから始まりました。
ヒット曲「泪の夜汽車」や「片瀬夜曲」「霧の港」、菅原都々子とデュエットした「母月夜の唄」などの母子物は、割とすぐに手に入りました。
しかし、レア音源では膨大な高値がつき、それでも入手出来ればいい方で、最近は真木のSPの出品自体が少なくなって来ているように感じられます。
2021年5月18日現在、私が集めた真木の音源は135 曲で、未入手は約21曲と思われます。(詳しくはディスコグラフィー(ポリドール篇、 テイチク篇)をご覧下さい)

実はの専門はクラシックなのですが、流行歌・歌謡曲も好んでよく聴きます。これまではどちらかというと戦前の歌手が中心でしたが、戦後のSPを何枚か入手した中に、真木不二夫の「泪の夜汽車」 (昭和27年5月) がありました。美しく伸びる高音に、耳が釘付けになりました。リリコ・スピントの癖のない歌唱は、きっとクラシックの声楽を学んだ人だろうなと思いましたが、真木の経歴を調べていくうちに、東京音楽学校出身の作曲家・江口夜詩(えぐちよし) に師事し、戦前を代表するテナー・奥田良三にも学んでいた事を知り、納得した次第です。
真木の歌はとても自然で、最近の歌手によく見られるクセのある歌いまわしなどは、何処を探しても皆無です。
真木とよく似たタイプの歌手というと、津村謙・北廉太郎あたりを思い出します。

津村謙 (1923〜61) は真木より4歳年下で、「上海帰りのリル」の大ヒットで「ビロードの歌声」と評され、絶大な人気を集めました。
また北廉太郎 (1920〜40) は端正な容姿と天性の歌唱力で、戦前のポリドールで将来を嘱望されながらも、白血病のため僅か20歳の若さで亡くなった歌手です。
近年「ぐらもくらぶ」というレーベルからCDが奇跡的にリリースされ、話題を呼びました。
北は東海林太郎 (1898〜1972) を若がえらせて、癖を少し抜いた感じの歌声です。青葉笙子と共演した「支那の町」は、私の大好きな曲です。
なお北のラスト・レコーディング曲「再見上海」と真木の同名曲は、全く別の作品です。

「再見上海」
北廉太郎 盤= 昭和15年10月/木原たけを・詩、江口夜詩・曲
眞木不二夫 盤 = 昭和26年/大高ひさお・詩、吉田矢健治・曲

    津村謙    北廉太郎
  (画像/津村=キングCD、北= タイヘイSPレコードより)

津村、北ともホレボレするような美声の持ち主で、歌唱力が抜群な事も真木と共通しています。しかし…真木の歌には美声だけではない、何か「芯」のようなものが感じられるのです。それは彼が歩んで来た、ひょっとしたら決して平坦ではない人生と無縁でないのかも知れません。



(真木不二夫/経歴)

(テイチク「真木不二夫全曲集」より)

本経歴の執筆にあたりましては、京都の岩田義史様、江口夜詩氏ご親族から貴重な情報を頂きました。ここに厚く御礼申し上げます。(2023.12.2改訂)


 幼少の頃


 真木不二夫 (本名・小谷野章)は大正8年(1919年)2月1日、岩手県釜石市で生まれました。(東京市日本橋人形町生まれという説もあり、ウイキペディアにも「東京出身」となっています)

家業は母親が釜石市内で旅館(銀波寮)を営み、父親も旅館を手伝いながらタクシー業を経営していました。
( 母親は東京の大久保で、当時は珍しいヴァイオリンやピアノなどの生演奏を聴かせる料亭を営んでいた、という情報もあります)

真木の生家・銀波寮 (小冊子「釜石の民謡・流行歌」より/釜石市郷土資料館・提供)


 小谷野が小学校に入学した頃、関東大震災に続き大正天皇が崩御されるなど、何かと激動の時代でした。その後開校したばかりの岩手県立釜石商業高等学校(現・岩手県立釜石商工高等学校)に、第一期生として入学します。
この頃小谷野家にはギターもなく、音楽好きの章少年は小学校でオルガンを借り、弾いていたようです。やがて母親から当時としては高価なアコーデオン(手風琴)を買ってもらい、購入した楽譜を見ながら練習、少しづつ弾けるようになり、後々大いに役立つ事となります。


釜石商業高等学校時代の小谷野章 (小冊子「釜石の民謡・流行歌」より/釜石市郷土資料館・提供)


 上京〜國民音楽院入学

 釜石商業高等学校を卒業後小谷野は上京し、トンボハーモニカに就職しました。昭和14年(1938年)春、作曲家・江口夜詩 (1903〜1978) が世田谷区三軒茶屋の駅前に新人歌手の育成を目的とした「國民音楽院」を設立するという噂を聞き付け、開校の発表翌日、小谷野は一番に同院に駆け付けました。江口は日本コロムビア専属作曲家として「十九の春」(ミス・コロムビア)、「急げ幌馬車」(松平晃)などのヒットによって、同じ専属の古關祐而のポストを脅かすなど、当時人気絶頂だった作曲家でした。
 小谷野が國民音楽院に入校した頃の様子を、江口はのちに次のように振返っています。

「下駄履きに國民服という出で立ちの十八、九の青年で、軍隊言葉でまことにテキパキと物をいう好青年であった。名は小谷野章といい、単に歌が好きだというだけで何ひとつ満足に歌えず、もちろん楽譜等に関する知識は皆無だった。
「これは厄介な者が来たわい」
とは思ったが、何しろ開校第一番のお客様だから、こちらは喜んで入学を許可することにした」

母親が買ってくれたアコーデオンを楽譜を見ながら練習していたはずの小谷野でしたが、東京音楽学校出身の江口から見ればズブの素人としか思えなかったのでしょう。
同門には松平晃、小畑實、津村謙らがいました。


國民音樂院開校記念式典の記念写真。中央が江口夜詩、その真後の坊主頭が真木不二夫 (当時は小谷野章)。
一番右の少しボケ気味の国民服姿は何と津村謙! (江口夜詩年譜・作曲総覧より転載)



それから丸4年の間、江口によれば小谷野は「雨が降っても風が吹いても毎日欠かさず」音楽院に顔を出し、勉強に励みました。やがて当時日本を代表する名テナー・奥田良三 (1903〜93) にもクラシック声楽の基礎を学ぶようになり、天性の才能に磨きをかけて行きました。

   江口夜詩   奥田良三


 ポリドール・レコード入社と戦争

 大平洋戦争開戦の直前の昭和16年(1941年) 6月、小谷野は奥田の推薦で歌手としてポリドールに入社します。小谷潔の芸名で2月に「日本陸軍軍歌集」を如月俊夫、近江志郎 (のちの近江俊郎)、上原敏らと吹込み、レコード・デビューを果たしました。
 翌昭和17年(1942年)4月、「若鷲ハワイ便り」「ボルネオ第一信」「大殲滅の歌」、同年8月には愛唱歌「南のふるさと」(清水みのる・詩、江口夜詩・曲)を、18年(1943年)10月には「港離れて」「南海の首途」を吹き込みます。いずれも時局を反映し戦意高揚を目途に書かれた作品ですが、曲調は皆伸びやかで明るく、いわゆる軍歌調ではありません。特に「南海の首途」は作品としての出来が良く、それまで積み重ねて来たクラシック発声法勉強の成果が、遺憾なく発揮されています。20代前半という最もよく声が出る頃で技術も完璧、難しい音程の跳躍も楽々とこなす力量には、ただただ唖然とさせられます。
  
(大東亞レコード/昭和18年10月新譜パンフレット)

   
同月には伊吹幸子とデュエットで「ジャワの宵」をリリースするなど軍歌以外での可能性も示し、ポリードールでは上原敏、北廉太郎らに続く歌手として、大いに期待されていました。
 昭和18年(1943年) 12月、ポリドールは大東亞と社名を変更しますが、時局逼迫のため翌昭和19年(1944年)12月、ついに商業レコードの新譜発売を全面停止してしまいます。。
そんな折、小谷に絶好のチャンスが訪れました。応召され海軍に入隊した霧島昇の後釜を探していたコロムビアに、江口は小谷を推薦したのです。話は順調に進み、いよいよ明日は入社契約の調印という折も折、小谷にも突然の召集令状が届きます。万感の思いを残しつつ、小谷は中支の奥地へ連れ去られて行きました。


 終戦 〜 結婚、苦難の時代


 終戦後小谷はなかなか復員出来ず、その苦労は並大抵ではなかったようです。昭和21年(1946年)、ようやく帰国し真っ先に古巣ポリドールを尋ねました。そこには戦前一緒だった三丁目文夫がいました。やがてテイチクから大物・東海林太郎や小笠原美都子が移籍してきました。また、歌手活動を休していた青葉笙子、山中みゆき、ビクターから移籍していた小林千代子等も続々とポリドールに戻り、新人の嵯峨公子、堤藍子等も活動を始めていました。小谷は江口のレッスンを受け、22年頃には売り込みのため「ショーチクレコード」レーベルのテスト盤を制作しましたが、具体的な吹き込みの予定はありませんでした。


小谷野がレコーディング売り込みのために制作したテスト盤。ピアノは恐らく江口夜詩。
(画像・音源提供=江口夜詩ご親族)


そんな中、新人の堤藍子と親しい仲になり、昭和23年3月11日、東京代田橋近くのアパートの2階で、小唄勝太郎夫妻の媒酌で結婚式を挙げます。しかし会社では、これから売り出そうという期待の新人と結婚したため二人とも快く思われず、結果揃って退社することとなってしまいます。その後は小唄勝太郎の好意により一緒に巡業に付いて歩き前座歌手を務めますが、生活は決して楽ではありませんでした。しかし勝太郎からの援助もあり、極貧の暮しは免れたようです。妻の堤藍子は、親戚に当たるテイチク所属の作曲家・倉若晴生を尋ね、夫の件を依頼しました。倉若は戦前「國民音楽院」で講師をつとめており、ポリドールでは「島の船唄」、「旅のつばくろ」、「別れ船」などのヒット曲を持つ人気作曲家になっていました。
 戦前のポリドール時代から戦後間もなくの頃の小谷について、作詞家の島田磐也はその「音楽談義」の中で次のように記しています。

「いろいろな不利の環境に立たされて、永い間恵まれずその双翼を思うまゝに自由に伸ばされない不遇さにあつたが、それにも耐えて孜々営々と自己に鞭打ち、所謂いばらの路を自ら切り拓いて来た努力、精神の人であつた。
風雪を越えて、歌手としての榮冠をかち得た人である」

(眞木富二夫グループ機関誌「薫風号」より引用)


 テイチク・レコードに入社

 昭和24年8月、倉若晴生の紹介でテイチクレコードに30歳を越えた新人として入社した小谷は9月、眞木不二夫と改名し、倉若が作曲した「夢をのこして」で念願の再デビューを果たしました。(同年11月に発売された「雨の湖畔」がデビュー曲という説もあります) テイチクには世話になった小唄勝太郎が移籍しており、真木には大いな励ましとなりました。


眞木不二夫テイチクデビュー曲「夢をのこして」(再発の東京レコード盤は素晴らしい音である)

 昭和20年代中頃のテイチクには、戦前ポリドールで一緒だった田端義夫や藤原千多歌、菊地章子、菅原都々子などのほか、ディック・ミネ、楠木繁夫といったベテラン勢が健在でしたが、真木不二夫の瑞々しい情感は既成歌手にはない魅力で、老舗テイチクの看板歌手の一人としての道を、着実に歩んで行くこととなります。
戦後の混乱が落ち着き、朝鮮戦争勃発による特需に沸いていた1950年(昭和25年)頃、真木は「パラダイス東京」(菅原都々子「憧れの住む町」のB面)、「ブルー東京」など都会の哀感を歌った作品で注目され、続く「わかれ岬」などの岬シリーズや、菅原都々子との共演で「母人形の唄」「母月夜の歌」「母千鳥の唄」などの大映映画主題歌で人気を集めました。いずれも大高ひさをの詩、長津義司の曲による作品で、当時絶頂期だった菅原と真木の声の相性も良く、妙なるデュエットは深い情感をたたえ、「母子物」は映画を見る者・レコードを聴く者の紅涙を絞り尽しました。


 昭和25年1月のテイチクレコード宣伝パンフレット


 「泪の夜汽車」大ヒット 〜 紅白出場へ

 昭和27年(1952年)5月に「泪の夜汽車」(板倉文夫・詩/平川浪竜・曲)をリリース、待望の大ヒットとなりました。
翌昭和28年(1953年)、「知らない町に雨が降る」で、真木は待望のNHK紅白歌合戦初出場を果たします。 この曲はもともとテイチクで同門だった村澤可夫の曲でしたが、当時の紅白では「何を歌っても良い」ということでしたので、真木はこの曲を選んだようです。


 昭和28年(1953年) 真木が初めて出演した第4回紅白歌合戦が開かれた日本劇場 (日劇)


 昭和29年(1954年)12月、新曲「東京へ行こうよ」が発売され、直後からファンの反響を呼び、大ヒット間違いなしと思われました。
ところが、田舎の若者の都会への憧れを率直に歌っていたため、当局から「青少年に家出を勧めるもの」と睨まれ、最終的に発売禁止となってしまいます。当時都会に憧れ家出する若者の増加が社会問題になっていたのです。ただ、真木はそれまでに「泪の夜汽車」など、都を離れる夜汽車シリーズでUターン現象の先駆けと思える曲も歌っており、この処分には首を捻らざるを得ません。

(真木不二夫のステージ姿/昭和28年頃/ファンクラブ機関誌より転載)


 美ち奴との再婚 〜下降する人気

 実は同じ頃、真木はスキャンダルの渦中にいました。妻子がありながら同じテイチクのベテラン歌手・美ち奴と同棲していることが発覚したのです。 昭和29年(1954年)、真木はこれまで献身的に尽して来た堤藍子と別れ、美ち奴と結婚します。真木35歳、美ち奴38歳でした。 

 昭和30年(1955年)、九州・四国を巡業していた真木は、前座歌手を務めていた愛知県・亀崎出身の野崎眞一が作曲した「旅路の雨」を気に入り、テイチクに働きかけて翌年1月にレコードが発売されました。売れ行きは好調で、4回目となる翌年の第7回NHK紅白歌合戦でも、真木はこの曲を歌っています。(この際の録音は残されており、NHKの放送局などに設置されている番組公開ライルラリーに問い合わせれば、聴くことができるそうです)  ただ「旅路の雨」が野崎の作曲家としての出世作になったのに対し、真木はそれ以後、二度と紅白に出演する事はありませんでした。
同年11月、師・江口夜詩の作曲家生活30周年を記念する演奏会が大垣スポーツセンターと岐阜市民センターで大々的に開かれ、松平晃・瀬川伸・津村謙・春日八郎ら江口ゆかりの人気歌手たちと共に、真木も参加し、第1部「唄祭り〜世紀のヒットパレード」では「ダコタえの馬車」「妻をめとらば」を、フィナーレの第3部では江口の代表作である岡晴夫の「憧れのハワイ航路」を歌いました。この演奏会には霧島昇・松島詩子らの大御所や、曾根史郎・宮城まり子・近藤圭子・高倉敏・神楽坂浮子ら戦後の若手人気歌手たちも加わり、昭和30年代の幕開けに相応しい華やかなものとなりました。


江口夜詩作曲家生活30周年記念演奏会・プログラム (写真提供/江口夜詩記念館)


 しかしながらこの頃から、実は真木の人気は徐々に下降していました。同年代で同じテイチクの田端義夫は、気持を歌い込む芸風でファンのハートを捉え続け、また真木と母子物などで数多く共演した菅原都々子は昭和30年(1955年)、「月がとっても青いから」の大ヒットで新たな境地を開拓し、流行歌手の座を不動のものとしていました。
 一方の真木はと言えば、これといった新たなヒットを生み出せずにいました。そこそこの売れ行きは続いていたものの、それまで青春や若さを売り物にして来た真木もいつか30代後半に差し掛かかり、その屈託のない明るい歌声とどれも同じように取られかねない歌い回しは、次第にファンから飽きられていたのかも知れません。世間では映画界やジャズ喫茶出身の十代歌手が台頭をはじめ、戦中派の真木は次第に時代の波に押しやられて行きました。
昭和31年に入ると真木の酒量は増え、とうとう吹込みにも影響するようになりました。


(テイチクの名物社長・南口重太郎と/昭和28年頃/ファンクラブ機関誌より転載)


 テイチク退社 〜 晩年

 昭和32年(1957年)、ついにテイチクとの契約が解除されます。8年という短い専属期間に120曲以上の吹込みをしたということで、真木に対する会社の期待が大きかったのは間違いありません。
 テイチク退社後の真木は地方回りや数少ない依頼録音などを続けていましたが、やがて歌手を引退し主に作曲や後進の指導に専念するようになりました。
昭和35年(1960年)10月、ポリドールから自身の作曲による「波止場の待ちぼうけ」(唄/千草晴美)という作品を発表しています。
しかし思うように曲がのびず、失意から更に酒にすがる生活が続くようになります。そんな真木を美ち奴は懸命に支え続けました。しかし、真木はついに美ち奴にも暴力をふるうようになってしまいます。自律神経を患った美ち奴は真木のもとを去り、10年間の結婚生活は終焉の時を迎えました。

昭和43年 (1968年) 、週刊アサヒ芸能9月26日号「芸能人・あの人は今や!」という記事に、真木の消息が載っています。

真木不二夫 (49) 所属/フリー、 代表作/泪の夜汽車、 消息/四人目の妻と暮している。 ひとこと/もう浮気はやめました。

 何とも感慨深い内容ですが、多量の飲酒のため遂に幾度も吐血するようになります。真木は肝臓を害していたのです。3か月足らず後の12月5日、名歌手・真木不二夫は僅か49歳の若さで、この世に別れを告げました。終焉の地は彼の母がいた大阪だったといいます。
元妻の美ち奴は離婚後も真木の母を「姉さん」と呼んで慕い、真木の死後もたびたび大阪を訪れていたということです。郷里・北海道から東京に呼び寄せた家族を大空襲で失った体験をもつ美ち奴は、愛する息子を亡くした真木の母を案ずる気持ちが人一倍強かったのではないでしょうか。


 それでも真木不二夫の歌は残る

 没後、世間はあっという間に真木を忘れました。
実は真木が亡くなる7年前の昭和36年(1961年)、江口夜詩門下で同期だった津村謙が自動車で帰宅後車庫内で昏睡し、一酸化炭素中毒で37歳の若さで亡くなっています。また先に述べたように北廉太郎も僅か20歳の若さで、白血病により夭逝しています。相次ぐ「美声の歌手」の薄命に、世の無情を感じざるを得ません。
津村は最晩年に、2曲のステレオ録音を残しており、真木にもし機会が与えられ、ステレオで彼の歌声が残されていたら…と思うと、残念でなりません。


 ところで最近テイチクは、昭和20〜30年代の流行歌を「MEGシリーズ」としてシングルCD化しており、その中に真木不二夫のものも何曲か含まれています。
これが目のさめるような良い音で、恐らくそれまでとは違うLPのためのテープ録音を使用しているものと思われます。
このシリーズは令和2年(2020年)、一旦発売中止となりましたが、現在はまた再開しているようです。
 かつて一枚だけリリースされたCD「真木不二夫の若き歌声」(現在廃盤)は高・低音域がカットされ、SPとは似ても似つかぬモコモコとした貧しい音で、とても真木の真骨頂を伝えるレベルではありませんでした。 
また、その前に発売されたLPのオムニバス盤はもっと最悪で、名曲「泪の夜汽車」の前奏部に針飛びという、信じられないミスもありました。



 ビクターからは最近「日本の流行歌スターたち」というシリーズで、小林千代子、服部富子、宇都美清クラスのCDが良い音質で復刻され、2020年7月現在、リリース数は30枚を超えています。 優れた音質・充実した解説を見るにつけ、「テイチクは過去の流行歌手に冷たいな・・・」と思っていたのですが、冒頭でご紹介したように令和2年(2020年)8月、真木不二夫を含むテイチクの歌手12名の全曲集CDが遂にリリースされました!!  監修・解説・録音は、この分野で数々の実績を挙げている郡修彦氏があたっておられるということで大いに期待していたのですが、残念ながら解説・録音ともビクターの水準には達しておらず、またファンの目から見れば選曲にも疑問は残ります。
 ともあれ、現在入手出来る真木のCDはこれだけですし、今回の奇跡的なリリースが一人でも多くの皆様に知っていただく事を一ファンとして願わずにはおれません。

真木不二夫/ディスコグラフィー
(ポリドール篇、 テイチク篇)



 (多くのファンの前で歌う真木不二夫/昭和28年ころ/後援会機関誌より転載)



(真木不二夫/あれこれ)

★真木不二夫は、外国の曲を1曲も吹込んでいません。昭和29年6月にリリースされたジャズ調の「酒場へ行く道」での見事な「乗り」を聴くにつけ、真木のPOPSを聴いてみたかった・・・。
★真木不二夫が吹込んだスタンダード・ナンバーは、「金色夜叉」「妻をめとらば」の2曲のみ。
★いわゆる「股旅物」は、「男三度笠」1曲のみ。
★テイチクの作詞家・島田磐也氏の証言によれば、真木不二夫はたいそう性格が良く、不遇な環境にあっても研鑽を怠らない努力の人だったそうです。
 女性にたいそうモテたため、結果的に様々な人生模様を描くことになったのでしょうか。



(真木不二夫/紅白歌合戦出演記録)

昭和28年(第四回/日本劇場)  知らない町に雨がふる

なつメロ愛好家の方によれば、この回の白組トリは真木不二夫がつとめました。
「なぜもっとヒットを出している歌手を出さなかったか。真木不二夫なんて知らない。ヒット曲も知られてない無名歌手なのに!」という意見もあったそうです。因みに「知らない町に雨がふる」はテイチクで仲の良かった村澤可夫の持ち歌で、当時は「何を歌っても良い」という事で、真木はこの曲を選びました。「真木の方が、この曲に合っている」という感想も残されており、音源が確認されていないのが残念です。(2023.12.15)

昭和29年(第五回/日比谷公会堂)  山の呼ぶ声母の声
昭和30年(第六回/産経ホール)  空が晴れたら
昭和31年(第七回/東京宝塚劇場) 旅路の雨

 この回は録音が残されており、NHKサービスセンターを通じて試聴が可能です。



 

(真木不二夫出演/コンサート・パンフレット4種)

名古屋・中劇 「テイチク秋の祭典」 

昭和25年(1950年) 9月23〜27日
出演/デイック・ミネ、田端義夫、楠木繁夫、眞木不二夫、小唄勝太郎、ベテイ稲田、三原純子、菊地章子、藤原千多歌、菅原都々子
司会/小泉貞鳳
出演者の現住所が書いてあるところに、時代を感じますね。

       



名古屋・御園座「テイチク・春の祭典」


昭和27年(1952年)3月19日〜21日  倉若晴生作曲生活15年記念公演
出演/田端義夫、眞木富二夫、村澤良夫、鈴村一郎、安城美智子、平野愛子、竹山逸郎、田端義夫、菅原都々子、三原純子、楠木繁夫、小唄勝太郎、三原純子

 



春のテイチク祭 日本劇場 (東京・銀座)

今はなき懐かしの銀座「日劇」

昭和28年(1953年) 春 (日付記載なし) 
出演/ディック・ミネ、竹山逸郎、村沢良夫、真木富二夫、楠木繁夫、菊地章子、平野愛子、前島節子、白鳥みづえ、三原純子、美ち奴、小唄勝太郎

この催しで真木不二夫は「泪の夜汽車」、「憧れのパラダイス」を歌っています。



爆笑テイチク夏まつり 日本劇場 (東京・銀座)



昭和30年(1955年) 6月28日〜7月4日  
出演/ディック・ミネ、真木不二夫、白根一男、今村隆、菊地章子、エト邦枝、原田美恵子、鈴木三重子、楠トシエ、白鳥みづえ、小唄勝太郎、美ち奴 他





この催しで真木不二夫は「空が晴れたら」「泪の夜汽車」を歌い、寸劇では「人形屋の店主」を演じています。



真木不二夫が「國民音樂院」で教えを受けた作曲家・江口夜詩の作曲家人生を、孫の直哉さんが記した本が2023年10月に出版されました。(つむぎ書房 1,980円=税込)
「ポリドールへ移籍、國民音樂院を創設」の項目で真木不二夫に詳しく触れており、拙HPの記述も引用されています。


真木不二夫について詳しくご存知の方、是非こちらまで情報をお寄せ下さい!!
真木の歌を聴いた感想や思い出なども大歓迎です。


真木不二夫/ディスコグラフィー
(ポリドール篇、 テイチク篇)




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