知多半島には大きな河川がなく、田や畑で使う水をとることができませんでした。深刻な水不足になることも多く、大きな被害を被ってきました。そのため、木曽川の水を知多半島へ引く一大工事が行われました。それが愛知用水事業です。
愛知用水は知多半島のみならず愛知県の発展に大きく貢献してきましたが、その事業を動かし、引張り、実際の事業に結びつけた人が、知多市八幡に住んでいた久野庄太郎さんです。八幡コミュニティでは、久野さんの偉業を語り伝え、ふるさとの偉人として大切にしていきたい思いで、活動の記録などを集め紹介しています。
久野さんの活動を簡単に紹介した記事を最初に紹介します。
農民がつくった「愛知用水」
〜財産をなげうち国動かす〜久野庄太郎と浜島辰雄の二人三脚
1997年12月10日 農業共済新聞記事 『公益財団法人 農林水産・職員産業技術振興会のホームページからの転載
今年の6月も「愛知用水講」の水源地詣でがあった。講のメンバーは100人ほど。みな尾張・知多の農家で、もうかなりの年輩だ。愛知用水の水源は木曽御嶽山の中腹にある牧尾ダム。バスで3時間の道のりだ。ここで用水建設の殉職など90名の物故者を慰霊し、ダムに沈んだ186戸の人々への感謝の念を新たにする。30年以上続いているこの講の発起人は久野庄太郎といった。
昭和36年に完成した「愛知用水」を知っている人は多いだろう。だがそのほとんどが、この事業を〈お役所やった〉と思っているに違いない。たしかに建設は愛知用水公団(現在は水資源開発公団に統合)だが、そこに至るには地元農民のなみなみならぬ苦労があった。その中心人物が久野である。
久野は現在の知多市の農家の生まれ。愛知用水の構想を思いついたのは昭和22年、46歳の時だった。この年、同地方は大干ばつにみまわれ、秋の収穫は皆無に近かった。「知多農民の夏の労働の半分は水くみ作業だった。ため池が満水になるのは3年に一度。貧農は命がけで水をくむわけで、反当たり、おけで3千杯くむと全面に行き渡る」とは、久野の実感である。
昭23年春、久野は活動を開始する。用水建設の必要性を説き。協力を求めて各地を回った。その久野の活動を知り訪ねてきたのが、安城農林学校教諭の浜島辰雄である。
浜島は同じ水不足地帯の豊明の出身。子供のころ水番も経験し、水不足のつらさを知る彼は勤務の合間に現地を踏査し、独自の路線計画図を作っていた。ちなみに、この路線案は現在のルートとほとんど違わないという。
二人ははじめて出会った時から意気投合、翌日から揃って現地調査に出かけた。もちろん手弁当だった。彼らが半年がかりでつくった計画案は、以降の運動の強力な武器になる。おかげで、10月には受益市町村が参加した「愛知用水開発期成会」が結成された。
昭和24年からは中央への働きかけがはじまる。その資金のため、久野は自分の全田畑を売り払ったという。期成会の熱意は県や国を動かし、ついに世界銀行の資金援助も約束された。昭和30年には愛知用水公団が発足する。3万ヘクタールの耕地を潤し、中京圏の上水・工業用水をまかなう愛知用水事業はこの時動きだした。とかく国主導がめだつ開発事業で、愛知用水だけは別だ。久野の行動力と浜島の技術的裏づけ。そして二人を核にした期成会の活動がこの大事業の牽引力になった。愛知用水講はその時の同士の同好会でもあるのだろう。
浜島は今も元気だが、久野は平成9年に亡くなった。享年96歳。生前から献体運動に熱心だった彼の遺体は、遺言どおり医学研究に供された。献体も用水建設で犠牲を強いた方々への〈せめてもの報恩〉であるという。すがすがしい一生である。 (西尾 敏彦)
ふるさと検定八幡塾を開催している中で、愛知用水を作った久野庄太郎さんについてもっと知ろうということになり、平成23年度には9月〜12月までの4回連続講座で取り上げ、その成果をコミュニティの文化・福祉部会においてホームページとして公開しています。
詳細については、久野庄太郎と愛知用水のホームページで
平成24年度は、知多市のコミュニティ活性化委託事業の採択を受け、「次世代を担う子供たちに、この郷土の偉人をきちんと教え、後世へ伝承することを目的として」、「愛知用水探訪バスツアー」、「郷土の誇りを学ぶ課外授業…八幡全13地区、南粕谷小学校出前講座、八幡小学校出前講座など」を実施しました。
事業の具体的な内容はこちらを、平成24年度 郷土の誇りを学ぶ事業
平成25年度においても、各種出前講座、産業まつりへの参加など、積極的に取り組んでいきます。
参考ホームページ 久野庄太郎と愛知用水紙(八幡コミュティ文化・福祉部会)HP
愛知用水総合管理所HP
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