日本の作曲家たち/ 14
芥川也寸志
(1925〜1989)
(2019.4.8 更新)
芥川也寸志・初期の幻の作品/洋琴三重奏曲 (1947)、浄書譜完成
私共楽譜作成工房「ひなあられ」では芥川也寸志が東京音楽学校本科を卒業した1947年
(昭和22年) に書いた幻の作品「洋琴三重奏曲」(ピアノ・トリオ) の浄書譜を完成致しました。この作品の第1楽章はほぼ完全な形で残されていますが、第2楽章
(ロマンス) はピアノ・パートしか書かれていません。
今後は初演・レコーディングも検討されています。
「交響管弦楽のための音楽」(1950) 雑感
2012年6月14日の広島交響楽団演奏会「J Classic Librarys」で、計らずも「演奏の前にレクチャーをしてくれ」というご依頼をいただいた。
そこで、当日演奏される4曲 (近衛秀麿/「越天楽」、小山清茂「管弦楽のための木挽歌」、芥川也寸志「交響管弦楽のための音楽」、安部幸明「シンフォニエッタ」)
の複数の音源を、スコアを見ながら改めて聴いてみた。
安部以外の3曲は、NAXOS「日本作曲家選輯」1枚目 (沼尻竜典/東京都響)に収録されている。いずれも日本の管弦楽曲を代表する名作である。
改めて「交響管弦楽のための音楽」を聴き、まず思い出したのが、NBC交響楽団の末裔・シンフォニー・オブ・ジ・エアーが来日した時、わがN響と合同演奏会を行った際のニュース映像だった。今は無き後楽園球場
(!) の特設ステージで、この「交響管弦楽のための音楽」は演奏された。(指揮/ソーア・ジョンソン) 私が最もよく覚えているのは、チェロ・パートに和製カザルスみたいな方がいて、アメリカ人奏者とプルトを組んでいたのだが、「ふん、おめーなんかとやってられっかよ」とでもいいたげに、演奏の合間に鼻をポリッと掻く場面・・・すごく人間的で良かった
!
ニュース映像は第2曲「アレグロ」だけだったが、まことにスピーディで明解。ピストンやW.シューマン、バクターなどにも通ずる、いかにもアメリカ人好みの音楽、という印象を受けた。実際この作品はその後、アメリカで200回以上も演奏されたという。
このアレグロについて、「ハチャトゥリアンを規範としている」と語る人が多いのだが、芥川の方がもっとスマートでダンディな気がする。
ところでネットからの情報で、岩城宏之氏がジャパン・ヴィルティオーゾ演奏会のプレトークで「第1曲はピエルネのバレエ音楽「シダリースと羊牧神」によく似ている」と語り、芥川氏がムッとされた」と書かれていた。
さっそくピエルネのレコード (マリ/パリ国立歌劇場O.) を引っ張りだして聴いてみた。 なるほど・・・冒頭のファゴットのキザミや、ピッコロ、トランペットの使い方など似通った部分は確かにあったが、「疑作」という次元では全くないと思った。
それにしても岩城氏、博学ですね ! (たまたま直近に指揮しただけだったのかも・・・・)
なお、この相似形事件については、後に片山杜秀氏がその著書「音盤博物誌」 (アルテス・パブリッシング)
の中で、興味深い見解を示しているのを知った。
曰く、東京音楽学校で芥川が師事した橋本國彦はパリ留学時代ピエルネに私淑し、帰国後もそのヴァイオリン・ソナタ
(橋本は名ヴァイオリニストでもあった) をレパートリーとしていた。芥川の音楽にピエルネの影が見えるのは、その音楽を作曲講議の題材とした橋本の影響だというのである。東京音楽学校出身の岩城氏はそのことをよく知っていて、芥川氏を皮肉った可能性もある、というわけだ。
何事も人というものは独創的なのものを産み出す前段階において、人様の影響からは逃れられないもののようである。
何れにしてもこの「交響管弦楽のための音楽」、オーケストレーションの見事さ、展開の面白さ、そして何より圧倒的な推進力には卓抜したものがある。バーンスタインの「ウエストサイド・ストーリー」(1957)
を連想させる変拍子も実に効果的。青少年中心のブラバンでなんかで演奏されたら、さぞいいんじゃないかと思ったら、案の定吹奏楽ヴァージョンもちゃんとあるようだ。
なお「交響管弦楽のための音楽」は1950年 (昭和25年)、「NHK25周年記念管弦楽懸賞」において團伊玖麿
「交響曲イ調 」と共に特選入賞している。
芥川氏は生前、音楽以外にも実に様々な分野で活躍された。日本ではまだまだ軽んじられていた著作権の確立に使命感を持たれ、日本音楽著作権協会(JASRAC)理事長として作曲家の権利確立に果たされた役割は、銘記されるべきところだ。
(私など、印刷された譜面をプルト増しのためにコピーする時、いつも「芥川さん、ごめんなさい!」と呟いたものだった)
またその知性的な風貌、親しみやすいソフトな語り口から、NHKの音楽番組『音楽の広場』の司会をつとめるなど、広くお茶の間にも親しまれた。
また戦前からの日本の作曲家の作品を、もっと多くの人々に聴いてほしいという思いからアマチュア・オーケストラ=新交響楽団を創立、指揮者として1976年、シリーズ「日本の交響作品展」演奏会を多数開催し、伊福部 昭、渡辺浦人、小倉 朗、戸田邦雄、小山清茂、別宮貞雄、平尾貴四男、松平頼則、菅原明朗といった、今日私たちが決して忘れてはならない作曲家たちの作品をつぎつぎに演奏した。しかし、周りの薦めにもかかわらず、自身の作品はなかなか演奏しなかった、という。氏の先人への畏敬の念と謙虚さを感じさせるエピソードだ。
「日本の交響作品展」の成果は、FONTECから7枚のCDとしてリリースされた。CDには「日本音楽著作権協会」のシールがベッタリ貼られている事は、申すまでもない。
作曲家/芥川 也寸志
1925年7月12日、日本を代表する作家・芥川龍之介の3男として東京に生まれる。長兄は俳優・芥川比呂志。
幼少の頃からSPレコードを通じてクラシック音楽に親しみ、東京高等師範学校附属小学校、東京高等師範附属中学校に進学、同校在学中次第に音楽を志すようになる。
1943年、東京音楽学校予科作曲部に入学。橋本國彦、下総皖一、細川碧に学ぶ。
1944年、学徒動員で陸軍戸山学校軍楽隊に入隊。終戦後は東京音楽学校に戻り伊福部昭と出会う。
1947年、東京音楽学校本科を首席で卒業。本科卒業作品『交響管絃楽のための前奏曲』
1949年、東京音楽学校研究科 (現在の大学院) 卒業。在学中の作品に『交響三章』、『ラ・ダンス』がある。
1950年、NHK放送25周年記念懸賞募集管弦楽曲に「交響管弦楽のための音楽」が團伊玖磨「交響曲 イ調」と共に特賞入賞。
同年3月、近衛秀麿指揮の日本交響楽団により初演。
1953年、黛敏郎、團伊玖磨とともに「三人の会」を結成。5回の演奏会を開催する。
1954年、ソ連に密入国し、ショスタコーヴィチ、ハチャトゥリアン、カバレフスキーと出会い、自らの作品の演奏、出版を果たす。
1956年、アマチュア・オーケストラ「新交響楽団」を結成。
1976年、「日本の交響作品展」と題する1940年代の日本人作曲家の作品のみによるコンサートを行い、翌年には鳥居音楽賞を受賞。
1977年から1984年まで、NHKの音楽番組「音楽の広場」に司会として出演 (共演・黒柳徹子)
。
他にもテレビ東京「木曜洋画劇場」、TBSラジオ「100万人の音楽」のパーソナリティーをつとめる
(共演・野際陽子) など、端正な容貌と暖かいトークで広くお茶の間にも親しまれた。
1989年、国立がんセンターで肺癌のため逝去。
最後の言葉は「ブラームスの一番を聴かせてくれないか…あの曲の最後の音はどうなったかなあ」であった。1990年4月、芥川の生前の多大な業績を記念し、サントリー音楽財団により「芥川作曲賞」が創設された。
芥川が創設したアマチュア・オーケストラ「新交響楽団」や、そこから派生した「オーケストラ・ニッポニカ」などにより、日本人作曲家による管弦楽作品演奏は今も盛んに行われている。
(参考にさせていただいた資料)
★ 日本の作曲家/近現代音楽人名事典 (日外アソシエーツ・刊)
★ 「交響管弦楽のための音楽」フルスコア (zen-on music 刊) 解説
★ 日本の交響作品展CD (FONTEC) 解説
★ 音盤博物誌 (アルテス・パブリッシング/2008.5) 片山杜秀・著
★ ウイキペディア先生
芥川也寸志氏の思い出
(イラスト by T. Okazaki)
私は名フィル・コントラバス奏者時代に、何度か芥川氏のタクトのもとで演奏させていただきました。
最も印象に残っているのは、京都の国際会議場で日本の曲 (たしか黛敏郎の「BUGAKU」だったと思います)
を演奏した時でした。
静かに曲が始まり、次第に高揚し、チェロがフォルテのピチカートで、まるで箏のような響きを出す部分、芥川氏の真摯な表情が忘れられません。
「いい男だなあ・・・」と思いました。
「弦楽のためのトリプティーク」も (芥川氏の指揮ではありませんでしたが) 何度か演奏しました。著作権に厳しい芥川先生のこと、譜面は当然指定されたものを使用するわけですが、これが手書きであまり見やすくない、しかもメクリが無い
!! 芥川作品のアレグロは、全ての楽器が休み無く演奏するケースが多いのですが、グアーッとフォルティッシモで演奏しているところで急にメクらねばならず、音量はガタッと半減、へたすると楽譜が譜面台からバサッと落ちたり、とか。
芥川作品の演奏では、とにかくメクリに苦労した事が、まず思い出されます。
あと、トリプティークの第2楽章に、楽器をコンコンと叩くところがありますね。
実は演奏者は、こうした箇所が大好きなのです。曲想はマジ「赤穂浪士」だし !
(この大河ドラマを知ってるのは、いまや団塊世代以上だけですね・・・)
NHK「音楽の広場」に、世界一のコントラバス奏者・ゲーリー・カーさんが出演した時の事も忘れられません。
芥川さんが「カーさんが、カーさんが」と言うたびに、思わず「夜なべーをしてー」と続けたくなりました。
「荒城の月」でバックの東フィルを振られる時の芥川さんのしみじみとした表情、またカーさんがユーモラスな演奏をした時などに見せる、何とも言えない笑顔など、芥川さんの思い出は尽きません。
最近の音楽番組で、氏のように気品に満ち、誠実な語りをしてくれる方が皆無なのが、私にはとても寂しく思えてならないのです。
(2012.6
岡崎 隆)
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